まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

今朝はカラスと鳩と鶏の鳴き声で起きた

2016年05月31日 | Weblog

なかなか、田舎暮らし、やってるじゃん。

という具合の朝だったんだけど。

鶏がもう一度啼くと、お前は裏切る、だったか。

二度だったか、最後の晩餐の後なのか、前後の関係、忘れたけど、イエス・キリストが。

ユダに言ったか、そんなことが思い出された。

カラスは不吉な、とかのフレーズを、子どもの頃、聴いて育ったような記憶があるけれど、カラス君も。

なかなかいいな、と思いながらの寝起きだった。

鳩は、なんだろう、あの声の出し方は、という感想で、平和の鳥、ってどこからの由来なのか。

もっとも、今では、グーグルおじさんにお聞きしたら、即答なんだろうけど。

明日はおたちか、じゃないけれど、若狭への旅で、朝は、5時出発。

瞑想開始時刻は、何時になるのでしょうか。

ってくらいだけどね。

ところで、オバマさんの広島でのシーンね、何人かの方にお聞きする限りでは。

みなさん、感動した、さらに、日本人ってすごいね、というもので。

めでたい。

絶対的な自己肯定、ってやつ、これだな。

長屋のご隠居みたいに、大家、大人(たいじん)を気取るんでなく、ごく自然体に、と。

自分を好きになってくださいね、と入社式で言った類の言葉ね。

そこがすべてのような気がする。

いじけることだけが、生きることだと、飼いならしすぎたので。

と、吉田拓郎が歌っていたよね。

身構えながら話すなんて、ああ、臆病、なんだよね、と続くんだけど。

まんま、現在の世界情勢、列島内の国情、個々の人生模様、とも続きそうで。

そんな処に投げ入れられた、一粒の種、それを受け取る土壌、さて、では、誰が水をまき続けるのでしょうか。

っていう設問だな。

今でしょ、になぞらえて、あなたでしょ、ってなもんで。

というような問いかけが、あのシーンだった、という具合に解釈することもできそうで。

なにせ、今朝は、小鳥たちのさえずり、というほど、定型化した朝ではなく、リアル感満載の。

表題のごとき朝だったので、筆もあらぬ方向へ進むわけで。

そうだ、昨日は、久々に、ドローン操縦者となった御仁と昼食。

娘さんの言祝ぎの品も、ご相伴にあずかり、という時間を過ごしたんだった。

ものみな、知らず知らずに、流れていく。

ゆく河の流れは絶えずして、また、元の水にあらず、ってわけだ。

だいせんじがけだらなよさ、とその昔、寺山修二が歌ったんだよね。

さよならだけが人生だ、というわけだけど、ここでいう、さよなら、って。

別れの言葉じゃなくて、って、誰かの歌にもあったよね。

つまり、新しいものとの出会いの、その瞬間を、さよなら、という、とも取れるね。

カタカムナ的にいうと、今日が昨日を時間をかけて生み出す、と。

さ・よ・な・ら、をカタカムナで解釈すると、遮り、新しい、重要な、場、となるんだよね。

なかなかでしょ、カタカムナってやつも。

さよなら、という言葉を、常識の範囲でだけとらえる、という不精、横着、怠惰、から自由になると。

面白いね。

さて、皐月賞も終わったし、って、まったく競馬音痴だけど、往く皐月を惜しみつつ。

まんま、さよならを言いつつ、ふみ月を迎えることにしますか。

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ウグイスのさえずりの中、49日の法要。

2016年05月30日 | Weblog

この間、突然の訃報で、お葬式を済ませたと思ったら。

49日の法要で、という感想だったんだけど、ご遺族からしたら、まだ、おばさんの。

不在になれなくて、つい、母さん、これは、と声をかけてしまう、と。

隣家の甥っ子さんは、毎日、暮らしの中に、おばさんが入り込んでいたので。

葬儀の席でもそうだったけど、昨日も、号泣しだしそうだった。

父方の従兄弟たちが集合、その席で、世代の時計を巻き戻し、そういえば。

祖母の葬儀では、と。

わが父親と叔父は、お酒に酔い、号泣に近く、お線香は祭壇にもうもうと煙が上がるくらいで。

そんな昔話が始まり、その時、実は、火の玉を見たんだ、と従兄弟の中で。

一番年上の御仁が、初披露。

あんまりいい話ではないと思って、黙っていたんだ、と50年以上の禁忌を破り。

なるほど、その頃には、まだまだ、野に山に、列島固有の天使なのか、精霊なのか、舞い踊っていたのかもしれない。

今やすっかり、グローバルの常識が蔓延し、野も山も世界基準という認識の仕方に変わりつつあるのか。

しかし、昨日は、まだそんなに上手ではなかったけれど、ウグイスの若い衆が、春の息吹よろしく。

頑張って啼いていた。

春の、というよりは、初夏の、ということか。

今朝の巴川は、さっきまで、雨をうけて心地よく流れていて、やっぱり、川は海に向かって流れるとエネルギーが。

なんて思っていたら、今は、満潮になったのか、上流に向かっている。

出産も潮の干満に影響され、なんて話も聞くけど、死に至る道程にも、それは影響するようで。

くだんの「臨死のまなざし」という書物に、広津和郎さんの文章として、引用されていた。

戦後の大きなターニングポイントの一つともなった、松川事件を丹念に追った作家さんだけど。

母親の臨終を、引き潮とともに立ち会っていた件を、書いているんだけどね。

まんま、干潮時刻がその瞬間で。

今だと、強心剤やら何やらの手立てで、それすらままならず、というわけだ。

死について語るのも、はばかられるような、禁忌のような雰囲気がある中、ここのところ、それ関連のネタが続く。

んだけど、それすらフラットに眺めたら、という密かなトライではあって。

死も生も、実のところ、イーブンなのかもしれず、というか、地続き、止むことない生命の。

なりが違うだけで。

さて、今週は、若狭への旅、天の気はいかがなりますことか。

この間、かくかくしかじか、勉強会も何度かやり、そうして、旅に出るのです、ということを。

おばに話したら、とても羨ましがってもいて。

現地へ行って、ここはこうです、と引き摺り回される風の旅と、また違って、能動的な。

とでもいいましょうか。

ということでは、業界のバス旅行に何度も行った御仁が、その時には、バスの中から大酒を飲み、一体全体。

どこへどういったのか、わからず、という反省なのか、悔しさなのか、から、退職後。

ツアーコンダクターというのか、添乗の仕事をバイトでね、するようになり。

なんて話もあり。

そうだ、今日は、伊勢の御仁のところまで、スポットクーラーをお届けに、というイベントがあったんだった。

わが整理部隊が、今から出かけるようで、雨の中。

気をつけて行ってらっしゃい、と祈りつつ、本日のブログは終了します。

 

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木喰上人は木の芽を食べて93歳まで生きた

2016年05月29日 | Weblog

昨日は、西方面かな、という思惑とは外れ。

表題のごとくに、身延町の丸里にある、木喰上人、これ、もくじきしょうにん、と読むんだけど。

その生地に建つ記念館へ。

1717年の生まれ、というから、関ヶ原の合戦から100年くらい経った頃か。

14歳で、山深き故郷を離れ、江戸へと、一旗上げにという大志を抱いたのかどうだったのか。

花の都大東京へ、どうやっていったのか、もちろん身延線もない頃。

とにかく、一旗はあげられず、仏道に入ることになったようで。

その後、93歳で逝去するまで、北海道から沖縄まで、2万キロと書いてあったか、そのくらいを。

歩きに歩き、各地で、仏を彫った。

その仏像が、みな、微笑んでいるので、生地を、微笑みの里、と言っているようで。

会館で説明してくださった方も、伊藤さん、木喰上人も伊藤さん、その集落は、みんな伊藤さんだ、と。

その方に、こんな山深いところまで、木喰上人さんの前は、どこから来たんでしょう。

とお聞きしたら、新田、という武士だった、というから。

南北朝の頃の、新田義貞の末裔なのか。

100日日照りが続いても枯れない、という井戸があり、と言い伝えがあるそうで。

素人郷土研究家の遊び心をいたく刺激する言葉、というわけです。

身延町なので、諸国行脚した日蓮さんとも、なんらかの繋がりがあるのだろうし。

その前に訪れたのが、身延駅の近く、旧市川家住宅、というところで。

身延線の開通するまでは、富士川の海運で、栄華を極め、というような、静かな集落に、その茅葺のお宅はあって。

まるで、昨日は、歴史の旅みたいだったな。

その後には、西湖の根場村、ねんばむら、と読む。

1966年の、何台風だったのか、集落がほとんど全滅する、という被害にあって。

それを、復興させ、茅葺の集落というウタイでね。

昨日も、ウグイスは鳴き、かろうじて富士山の淡い姿も拝め、カザフスタンやら外国の方々も多く。

登山者用駐車場、なんてのもあったから、そこから、何山なのか、登れるんだな。

なんていう、おじおば会でした。

ところで、この間、ブックオフを徘徊していたら、「臨死のまなざし」立川昭二著、という平成8年の本があって。

病気なので、買っちゃいました。

古今の文学作品の中に表現されている、死についてのエッセイなんだけど。

斎藤茂吉やらそのご子息、北杜夫、富岡多恵子、兼好法師、世阿弥、その他にも、漱石、鴎外ね。

死は、だから、若さとか老いとかにも通底し、というわけだ。

今は、老いさせてもくれない、病いになっちゃう、というのが、富岡多恵子で。

病いは、引き返す見込みの残された不安、死は、引き返す見込みのない不安、という表現をしていた。

世阿弥は、さらによくて、若さの花がある、芸を極めた「まことの花」がある、しかし。

極めつきは、しおれたる花、と言うんだね。

このしおれたる、と申すこと、花よりも猶上のことに申しつべし、と。

ひと頃、話題になった、ソルジェニーツィンの「ガン病棟」も取り上げられていて。

全部は死なない、全部じゃない、死ぬのは、と主人公に語らせている。

私の内部は全部が私じゃない。何か、絶対に撲滅できないものが、非常に高貴なものが巣食っている。

ともね。

ちょっとね、この立川さんという方の書物は、尋常じゃないな、と感じてもいて。

これまた、新しい出会い、というわけだ。

まだ、三分の一も読んでないけど、そんな予感がするのです。

さて、今日は、わが父親の亡兄の相方、叔母の49日。

難しい字の、りょうごんいんというお寺さんにて、ということで、そろそろ、ブログはこの辺にしときます。

 

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彼らの魂が私たちに語りかけています。

2016年05月28日 | Weblog

彼らは、自分たちが一体何者なのか。

そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、本質を見るように求めています。

と表題に続くのが、広島でのオバマさんのスピーチ。

昨日、夕方、20分近く、ロイターのニュース動画、聴いていたんだよね。

残念ながら、英語の聞き取りにまでは至らず、朝、グーグルおじさんに教えてもらった。

というのが、和訳の全文で。

ブログを開く前に、読んでみた。

さすが、アメリカ帝国のスピーチライター、と茶々を入れるのもためらわれるくらい。

真摯なものだった。

被爆国たる我が列島からしたら、静かな祝祭の時間だったのかもしれない。

敵味方というカテゴリーを、大きく深く外れた立ち位置でのスピーチで。

もちろん、アングロアメリカン特有の、とか、の言い回しもあるんだろうけど。

そこさえ、突き抜け、人類的課題、とでもいうか。

その立ち位置で語らないと、アンチ大合唱の渦の中に、巻き込まれちゃうからね。

いずれにしても、世界政治の只中での語り、ああいう語りもあるんだな、と感じた。

市議選、町議選でも、それぞれのステークホルダーが入り混じり、というわけだから、それが。

世界レベルだと、そりゃ、収集つかないくらいの混乱の中の、あの語り。

政治はステートメントとも言うけれど、僕は少なくとも、感心したよ。

さて、そんな広島、伊勢のイベントが、静かなうちに終了し、安堵です。

かのIS国、ダーイッシュも、被爆国たる列島には、ある種の思入れもあった可能性もあり。

アメリカの属国を演じざるをえない苦しさ、辛さも、そこはかとなく、感じてもいて。

と、終わってみれば、そんな結論もあるにはあり。

というわけで、静かなうちに幕を閉じた、一大イベントで、さて、これからは。

観光地、伊勢志摩も、ホテルがら空き状態から抜け出し、盛況を取り戻すかどうか。

そんな伊勢方面へ、来週初め、わが精鋭部隊が、スポットクーラーの納品に出かける。

仕事にかこつけての個人セッション、という密かな狙いもあるイベント。

わが長老の元には、最新型のプリウスも届き、鈴鹿在住のお兄さんにお披露目も兼ね、という次第で。

まるで幼子のような気分で、出掛けるのでしょう。

今日は、待ちに待った、こちらの幼子、昭和一桁生まれのおじおば引き連れての定例のプチ・旅。

夕べ、母親に、ハンドルを回す仕草をしながら、かくかくしかじかと伝えると。

満面の笑顔で、だから、こんばんは早く寝て、明日は早く起きて、と。

あたしもそろそろ出かけたいな、と思っていた、とこの日の予定はすっかり忘れ、という状態はともかく。

ちょっと、曇り空の土曜日、これから、おじおば会と相成り、今回は、西方面かな。

昼食は、うなぎになるのか、とろろになるのか、果たしていかがなりますやら。

 

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リチャードコシミズさんが静岡へ来ますよ

2016年05月27日 | Weblog

何日か前に、ある御仁から電話がなり。

って、たぶん、初めての携帯への電話だったんだけど。

某大手企業さんの営業の方で、会うたびに。

それ系の話が、社交辞令ともなっていて。

それ系、というのは、表題のごとく、世に、陰謀論系とでも呼び習わされている。

そんな世界のお好きな方で。

昨日も、お会いしたんで、僕、登録しときましたよ、出席で、と。

若狭から帰った次の日が、その講演会。

懇親会もありますよ、ということで。

彼は、東京まで聞きに行く、らしく、宇野正美さんやベンジャミンフルフォードとかね。

もう一人、お会いした方には、以前、骨ストレッチの教則本を送ったんだけど。

なので、そこでの合言葉、というのか、掛言葉は、ちょっと、スリムになりましたね。

というもので。

そこで、にたっと笑う、という、ありがちなシーンを演じもし。

そう、その彼の、現在の大目標は、体重を落とすことなんだよね。

無呼吸症候群だったか、三半規管に、微細な骨のかけらが転がっている、だったか。

そんな病気、というのか、現象に対してのお医者さんの処方は、痩せなさい、というもののようで。

そりゃ、単純な目標でいいですね、と当方はいうものの、それが至難の技だ、と。

カラダの言い分と仕事の言い分が、相克しあい、うまい落としどころに収まらず、というどこにでもありがちな。

そんな感じですね。

古来から積み上げられた組織の論理に、試行錯誤を日々繰り返しながら、引き算をしたり、足し算をしたり。

そんな大組織を眺めた、味わった一日が、昨日だったのですが。

ここで、共同の幻想は、自己の幻想とは逆立の関係、なんて、吉本隆明の使い古された言葉を投じてみても。

もっと、ビビッドに、それらの組織、群れは息づいてもいて。

なんて書き出すと、迷宮に入り込みそうだから、やめときますが。

今日、オバマさんが、広島へ、ということだったか。

テロ警戒で、人の集まりそうなところは、大変なんだろうけど、今日は、静かな雨だ。

あの年、広島に原爆の落とされたね、大雨が降ったんじゃなかったっけ。

科学の言葉ではないけれど、だから、放射能は全て流され、みたいな。

そんな言説を、何年か前にお聞きしたこともあり、いかにも、神の守る国、ニッポン。

という思考回路のね。

とはいえ、やっぱり、今日の静かな雨は、象徴的だね。

静けさに帰る、って、伊那谷の住人、加島祥三さんが書いていたけど、老子を援用してね。

実は、それが要諦、すべての物事の根源、とも言えて。

すべての命は静けさの中から誕生し、喧騒を体験、経験して、また、静けさに帰っていく。

とすると、変わらずにあるもの、唯一あるもの、とは、静けさなんだよね。

静けさが、命、とも言えるか。

なんのお化粧もせず、衒いも見せず、企みもなく、粛々と、坦々と、ただある、という風情。

そんな象徴的な雨の日になった、オバマさんの広島行きだ。

さて、当方も、オバマさんに習い、喧騒の中に息づく、あるいは、ただ佇んでいる、今日という日の。

静けさを味わってみることにしますか。

アメリカが何をしてくれるかでなく、アメリカに何ができるか、というメッセージを残して暗殺された。

ケネディのように、喧騒の世界政治の中に、ポトリと種を蒔く、この種だけは蒔いておく、という意思表示。

そこを見る。

と言いつつ、表題の講演会へ出かける僕って一体、ってくらいのものですが。

 

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鉄腕ダッシュへ出るらしい

2016年05月26日 | Weblog

日曜日の夜の番組ね。

そこへ出演するらしい、というのは、知り合いの会社さんで。

朝、パソコンを立ち上げ、ちょうど、Gmailの画面だったんだけど、その一行が。

そんな見出しで。

その方とは、何年も前、よく韓国は、釜山へ連れて行ってもらったものだ。

現地の方の家へ、今風に言えば、民泊。

朝食時、奥さんが、立ち膝で、食事の世話をしてくれて、茶碗は瀬戸物でなく金の。

しかも、手に持たずに食べる、という、わが列島の習俗とは真逆の。

ということに面食らい、夜は夜で、グラスにビールを入れ、その中に、また、小さなカップにウイスキーを注ぎ。

一気に飲みほし、カランカランと音を鳴らし、隣の人に回す。

爆弾といったか、そんな飲み方をし。

なんてのが、釜山旅行だった。

ところで、昨日は、個人ミーティングの残り、今日は、これから、安全パトロールだ。

毎日、色々とやることがあるもんだ。

これ、一切断って、さて、今日は、何をしようか、となったら。

何をするかね。

例えば、よく言われるように、命は明日まで、なんていう限定つきのメッセージが、どこからか訪れたとしたら。

それでも、今日やることを粛々と、ってか。

これまた、よく言われる言い方でもあり、しかし、実際には、どうなんだろうね。

明日から俺、いないから、よろしく、とか、お世話になりました、とかのメールとか。

手紙を書きまくるかね。

ま、突然なのか、予告付きなのかはともかく、遠からず、訪れるのでしょう。

って、書くと、死についてのネタだよね、神道が死を扱うのを遠ざけた。

なんて言い方もあったりするけど、この秘密は、生への秘密でもあり。

実のところ、この辺りの仕組みをオープンにしたら、もっと楽になるのかも、だけどね。

いやいや、あなたは創造主で、全てあなたが創り出したマーヤ、幻想です。

なんて言い方もあるにはあって、なんだけど、それについては、正直、ピンとこない。

その可能性も否定しないけれど、だから何?みたいなね、そんな感覚で。

と言いながらも、かといって、この世の現象に対する様々な解釈について、それも、ちょっと違うよね。

というのもあるにはあるんだけど。

夕べは、理事会の後、一人飲み。

包丁をいただいた大将のところへ、久しぶりに、ご機嫌伺い、ってわけで。

カワハギの肝醤油で、志田泉を一杯、それに、様々な世間話も肴に、という夜だった。

おたくの若い人が来てくれましたよ、なんて会話もあり。

宵も更ける前のご帰還だったんだけど。

そうだ、大将に勧められた、包丁の柄を近いうちに、治しに行かなきゃ、だ。

そうそう、昨日の長男坊との個人ミーティングで、彼が。

思いを、というのか、価値観を、というのか、共有しちゃうことあるよね。

という話になり、それ、あるグループ、グループ、ま、会社でも、なんかの仲間でもいいんだけど。

そこ共通の反応、とでも言いますか、こうきたらこうくる、みたいな。

その前段で、思考、ってのは、俺ね、この空気の中を、右往左往していると思うんだ、ということからだった。

それを、わが身の感情を根源にしたもので、拾い集め、今、こう考えてる、というね。

例えば、平地では、ああだこうだ、仕事のことやら人間関係の事で、思い煩っていても。

高地、山とかね、行くと、全く、そんなこととは違う感懐がやってくるわけで。

なので、職場環境、なんてのも、どうにでもなる、というテイのもので。

むしろ、そこにクリエイティブな所作が、必要になってくる、とでも言いますか。

自由に白いキャンバスに向かい、思いのままに描く、ということがね。

何よりの果報で。

だから、楽しみましょう、という標語にもなるんだよね。

今朝は、鉄腕ダッシュの表題から入って、さて、どこまでいくかと思いきや、この辺りで、打ち止め。

って事で、失礼します。

 

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便秘はカラダを放てば自然に治る

2016年05月25日 | Weblog

というのは、久々のOSHOなんだけどね。

心、マインドが絡まると、カラダの自由、というのか、それ自体で自立している。

様々な機能が、詰まり、逡巡し、巡りが悪くなる、と言うんだね。

なるほど、と結構、腑にも落ち。

これ、面白いな、と。

カラダをマインドから解き放てば、大概、なんとかなるよ、というものなんだね。

ダイエットブームではあるんだけど、あれにしても、同じく、だそうで。

同じ人が、同じように食べても、太る、太らない、はあるようで。

これについては、OSHOではない方も言っていたな。

ダイエット食、やめたら、痩せた、というのか、太るのが終わった、というね。

これにしても、カラダをマインドから、心から、解放してあげてよ、と。

野生動物に、便秘はないでしょ、ペットはいざ知らず、というわけだ。

にしても、高度に発達した文明の中で生きるわれわれとしては、それなりに、社会からの。

恩恵という名前のストレスもかかるわけで。

それを、マインドが、さらに、話半分の、真逆のパターン、何事も、てぇーへんだてぇーへんだ。

という八兵衛みたいな。

増幅作用に地道をあげ、という次第でね。

ということが、カラダから自由を奪い、便秘という症状を発症する、と。

そうだ、今週の頭から、骨ストレッチ復活。

調子いいね。

というのは、ちょっと、もった言い方で。

良くも悪くもない、という方が、ぴったりくるかな。

何ヶ月になるのか、深部筋とのおつきあいね、鍛える、という傲慢な発想でなく、意識を向ける。

というのか、ちょっと、気にしてみる、というくらいのおつきあいなんだけど。

これ、いいんだよね。

このところは、それに加えて、肩甲骨と骨盤への、身守り隊、という気分でもあり。

自分のカラダ、という言い方なのか、カラダそのものとの、未知との遭遇、というね。

そんな気分なんだよね。

突き放す、客観物としての、自分のカラダ、ってわけだ。

カラダを科学する、とでも言えるか。

ほら、お医者さん、って、身内の人に手術しない、なんていうでしょ、あれみたいなもので。

余計な感情で、ドロドロと染上げない、上善如水(じょうぜんみずのごとし)みたいな関係性。

とでも言いますか。

君子の交わりは淡きこと水の如し、っていうのね、なかなか、気にっているフレーズなんだけど。

あれを、わがカラダとの交わりにも援用し、過剰にならず、疎遠にもならず、ってわけだ。

ということでは、まわりで起こっていることとも、そんな感じがいいかな。

カラオケで、思い入れたっぷりに歌う、っていうスタイル、あるでしょ。

僕にしても、やりがちなんだけど、役者になりきる、というものね。

あれ、自分がやってる分には気持ちがいいけど、相方がやってたら、静かにその場を去る。

みたいなもので、あれにも、似ているね。

ロハスとかベジタリアンとかなんとかかんとか、って、健康のために、命をかける、みたいな。

なんにしても、過剰は、ね、無理があるということで。

さて、今日も、個人ミーティングの続き、それが終わったら、理事会だ。

 

 

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柳家花緑の案内が届いた

2016年05月24日 | Weblog

恒例の、独演会。

このブログのコメンテーター、toshさんから、いかがですか、というわけだ。

うんもすんもなく、お願いします、と応じたんだけど。

何回目になるのか。

落語は、ほとんど、CDでしか聴いてないわけで、もちろん、浅草や上野や新宿では、寄席に行った。

んだけど。

なんだけど、なんかの拍子に、まんま、噺の世界だな、という感懐がやってくることがあってね。

あの芸術は、大したもんだ。

芸術なんて書くと、川柳川柳さんに笑われるけどね。

日常のほんの些細なことの中で見つける、そんな感懐を、ここへ書き出すことができないのが残念でもあるけれど。

それが、共通理解の下では、アイコンタクトくらいの、粋な仕草で、はい、終了。

となるんだろうけど。

これはね、かくかくしかじかという噺の、かくかくしかじかのシーンで、なんてのは。

いかにも、無粋でしょ。

人生の醍醐味は、日常の取るに足らないできごと、仕草の中にある、という言い方、結構好きでね。

大きな物語を紡ぎ出すのが人生だ、的な、大言壮語、勇ましいことのみを語る、というメンタリティには。

どうも、辟易感があり。

はいはい、ってなもんでね。

たぶん、宇宙への扉は、日常の、さもないことの中に、静かに、用意されているのかも、です。

なので、ゆめゆめ、些細なできごとをおろそかになさいませぬよう、と、会津の。

ならぬものはなりませぬ、という、今となれば、哀切と鬱陶しさの綯交ぜのフレーズに対置してだね。

日々を語るとしますか。

なんてことを語る、わが身が、日々の暮らしは嫌でもやってくるけど、なんて歌っていた日々もあったことがね。

今となれば、いじましくも哀切の、限りなり、というわけだ。

そうだ、思い出した。

今日は、政治ネタにしようか、と考えていたんだった。

アメリカの大統領選、どうやら、トランプにする、と世界最高権力者たちが決めた、と言うんだね。

これ、副島隆彦さんネタですが。

このところ、アメリカから流れてくる論調が、微妙に変化したな、という感想は持ってもいたんだけどね。

FOXニュースなんかで、トランプがクリントンを上回る、なんてのね。

しかし、これ、本当なら、日本の中の権力構図、様変わりする可能性があるからね。

今頃、官僚さんはじめ、もちろん、政治家さんたちも、蜂の巣をつついたような、そんな感じかも。

嫌中嫌韓の平積みの本屋さんの絵柄、一気に変わるかも、あるいは、惰力ついているんで、変わらないかも。

だけど。

極東情勢、ほとんど、初めて、と言っていいくらいの、見直しになるかも、というね。

ま、お先走りは意味ないから、このくらいにしときますか。

副島隆彦さんの予言にしたって、あくまでも、未来予想図、ということなんだから。

ところで、今、窓の外で、トンビのピーヒョロロが、聞こえてきたよ。

いい環境で仕事してるね。

さて、今日は、一日がかりで、個人ミーティングです。

今日は、7つの人生、世界と遭遇することになる。

贅沢三昧の一日となるんだろうと思ってます。

 

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諦めるとあきらめられない

2016年05月23日 | Weblog

今朝の表題が、iPhoneにメモってあって。

このネタで、ブログを、という目論見だったんだけど。

これ、どういう具合に展開するのか、思い出せない。

その下に、長男坊のスーツ、とも書いてあるんで、体重が増えてはち切れんばかり。

というコメントに繋がるものだと思うんだけど、思い出せない。

後段の、ひらがなの方は、多分、明らめる、くらいの文字になると思うけどね。

昨日は、初孫のお宮参りで、その前に、写真スタジオで、どうだろ。

100ショットは、超えていたか。

初めてのモデルスタイル、というのか、はい、なんとかチャン、こっちですよ、とプロのカメラマンに。

何回も促され。

彼女の心境としたら、心境というものがあるとしたら、だけど、どんな感想を。

人生の中に、映し出していくんだろうか。

なんてね、こうして社会の中に、産み落ちてきたための、第一回目の儀式を終了したわけだ。

浅間神社で、早神楽といったか、鈴を使っての巫女さんの舞の後。

お蕎麦やさんで、食事。

長男坊たちの行きつけのお店らしく、お店の方々が、代わる代わる、かわいいかわいい、とやってきて。

このタオルを、とか、上にかけてあるハンガーが落ちると困るから、とか、かいがいしく。

当方は昼間から、臥竜梅と上善如水をいただき、いい気持ちになって帰ってきたのでした。

その間、わが母親は、いくつかのフレーズを、繰り返し、自分の存在感を際立たせてもいて。

華やぎの中では、彼女の内側から湧き出るもの、生命力とでもいうのか、それが。

引き出され、そんな人間の紡ぎ出す関係が、人生そのもの、生きることの意味、とも言えて。

そんなことが今更ながらに確認できたのでしたが。

夕食ときには、出張から帰ってきた次男坊の土産話で。

赤カブと肉味噌のお土産をネタに、盛り上がった。

飛騨は高山の現場だったようで、彼的には、iPhoneの3Gしか繋がらず、というところから田舎で。

という感想で、しかし、こちらに帰ってきて、電線の多さには驚いた、と。

白川郷の合掌作りにも行ってきたようで、いわゆる見聞を広めるのもいいことだ。

高山といえば、結婚前、妻とその友達カップルと、三組で行ったことを思い出した。

ドライブとか紅葉とか新緑とかの言葉からは、とんと、遠いところにいた当方としては。

そうした遠出、今となれば、ほんのちょっとの走りなんだけど、とてもおおごとにも感じ。

だったんだけどね。

そんなことを何回か繰り返し、今の心境が練り上げられた、とでも言いましょうか。

人に歴史あり、というわけです。

ある意味、未知との遭遇の繰り返し、とも言えて。

と書いてきて、表題につながったかな。

諦める、ということは、固定化とでも言い換えられるか。

それしかない、そのまんまです、というね。

実は、その瞬間が、天下分け目の戦い、そこに錘が投げ入れられてもいて。

そこからが始まりの時、とでも言えるか。

人間稼業の深淵へのとば口、とでも言おうか。

そこに固定してしまわなければ、明らめられる、というわけだ。

それと、長男坊のはち切れんばかりのスーツと、どうつながるのか、それは思い出せませんが。

というわけで、本日は、どんな一日が待っているのでしょうか。

 

 

 

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ブラックホールがパラレルワールドの出入り口

2016年05月22日 | Weblog

とか、って、モーガンフリーマンの案内役で。

妻が録画しといてくれたNHKのBS、時空を超えて、という題名だったか。

以前、ちょっと、ご案内した番組でね、当代随一の学者さんが語っていて。

つまり、すべてが飲み込まれてしまうブラックホールの向こう側に、もう一つの世界がある。

という見立てで。

それが、パラレルワールドだということだ。

ということくらいしか、書けないんだけど。

いきなり、難解方面に出かけちゃう、という出で立ちだね。

かといえば、時間と空間ってのは、この次元、つまり、この世、というのか、三次元の世界でだけ成り立ち。

なので、人類の起源とか、この世界の起源とかは、詮索するのは、あんまり、意味があるわけじゃない。

とかね。

これは、その番組で言っていたわけじゃないんだけど。

歴史好きな当方としては、なんとも、いわく言いがたいコメントではあるんだけど。

夕べも、来月早々の若狭への旅のために、というわけでもないんだけど、海峡を往来する神々。

なんて、関裕二さんの文庫本、パラパラとめくっていて。

旅で訪れる、気比神宮の、神様と応神天皇が、名前を交換した、という伝承の。

残されている神社なんだけどね。

そんな理由を、彼はいろいろと推理していて、言葉を変えれば、妄想、と言ったら、叱られるか。

ところてん、というのかね、大陸の巨大な政治力学の、絶大なる影響下に、この。

極東、朝鮮半島も列島もあったわけで。

なんて書くと、最近はやりの中国嫌いの人士からは、白い目で見られそうだけど。

ところてん、というか、巨大なスポイトみたいなもので、吐き出されたり、吸い込まれたり。

政治力学、と名付けられた、生き物のような、そんな位置関係だったようでね。

それもこれも、たまたま残されていた、というのか、そういう趣味の民族。

あるいは、自分たちの正統性を文字に認める、という、止むに止まれぬ戦い、というか、習性の群れがいたおかげで。

その頃の列島への推測、推理、が可能、ということでもあるわけだ。

魏志倭人伝に、卑弥呼が云々、東へ何千里行ったところに、邪馬台国があった。

みたいなことが、絶対的な事実であるかのような、そんな謎を、後世の歴史好きな。

多くの人士に投げ与え続けている、というわけだ。

なんてことはともかく、長い間、裏日本みたいな言葉で、日の目を見なかった、ということになっている。

日本海への旅が、すでに、始まっている、とも言えて。

そうだ、わが応接室に、富山県作製の逆向き日本地図がね、貼られる準備が整い。

来週には、でかでかと鎮座ましますかも、なんだよね。

これを掲示する意味は、なんて、わざわざ、書くこともないけれど、見る角度を変えるとまったく違った様相。

ってのが、この世界のデフォ、ということを、日常的に表現し続ける空間。

とでも言おうか、そんな場にしたい、という思いもあってね。

だって、もったいないでしょ、一方向からだけが、俺の人生だ、なんて決め込むの、って。

そういうわけなんです。

いちいち、エクスキューズ入れなくても、だけど。

そうそう、今に過去も未来もすべて存在する、って話だった。

これ、当たり前といえば当たり前、と言えて。

だって、明日は永遠に訪れず、なんだもん、って書くと、引かれちゃうかも、だけどね。

明日も昨日も、あくまでも、脳内産出物、ということで。

いやいや、話をここへ持ってきちゃうと、ブログ、終わらなくなっちゃうからね。

これから、初孫のお宮参りに出かけることにします。

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