まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

涙のごわず

2019年03月31日 | Weblog

夕べ、偶然に見たテレビ特番。

美智子妃殿下の特集だった。

それについて書こうと思ったら、表題の言葉が浮かんできて。

これ、なんだったかな、と。

グーグル以前なら、ああでもないこうでもない、あるいは。

誰かに聞いたり、そのうち、そのことすら忘れてしまい。

なんてことになっていたんだろうけど。

この時代、電脳空間が、まさに神の空間、図書館とでも言えるか。

早い話が、ググってみた。

涙、拭わず、かな、でも、ちょっと違うような。

拭わず、では、とんと、こちらの琴線を刺激せず、たしか、と。

のごわず、で検索したら、啄木だった。

 頬につたふ涙のごわず

 一握の砂を示しし人を忘れず

例えば、被災地で。

こうでした、ああでした、と被災された方が示す、涙のごわずに。

一握りの砂、だ。

その瞬間だ、その瞬間を、彼女経由で、宇宙の図書館に示してある。

だから、のごわずに、だ。

涙のごわず、の瞬間瞬間が、映像として流され、当方も、のごわずに見入っていた。

心洗われる、とはこういうことか。

とてもいい気持ちであり、神聖な瞬間瞬間が伝わってきた。

ところで、今日は、病み上がりのおじおば会。

当方の体調も鑑みながらの、道行、ってわけだ。

今日もいい天気、空は青々、云々と、おば達からの歌が巻き起こるか。

それに呼応して、わがカラダくんも正常営業に復帰するか。

そんな日に向けての、涙のごわず、の贈り物をいただいたのでした。

 

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風邪を眺めていた

2019年03月30日 | Weblog

まるで、野口晴哉さんを倣って。

みたいだけど。

曰く。

風邪を治すんじゃなく。

風邪を経験する、というね。

なんて言いながら、かかりつけのお医者さんには。

足しげく通い、お薬手帳にQRコードを読み込み。

ではあったんだけど。

どうにかこうにか、明日の幼児たちの。

待ちに待ったおじおば会には間に合いそうだ。

ところで、ほんとにしたいこと。

そこと、ズレていませんか。

あるいは、無理くりにこじつけて、忙しいという時間を。

手にしてませんか。

それらのズレを、不動明王さんが燃やしてます。

というのが、いつもの、札幌の女史の。

遠隔チャネリングの見立てで。

いずれにしても、長い調整期間もボチボチ、終わりに近づきつつあるかな。

と今朝の我が方の見立てです。

おかげさまで、何もしない、という時間を。

たくさん過ごすことができた。

 

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久々のような感じがするこのポジション

2019年03月28日 | Weblog

ブログへの書き込みの位置。

このところ、身心不如意で、なんて言葉使い、あるかな。

気分はそんな感じで。

気力がいまいち、沸き起こってこない。

もちろん、風邪のような症状で、鼻水・咳・痰の三点セット。

それが長くて、三週間くらいか。

今までだと、しょうが湯、生姜をおろし、お醤油を垂らし、熱いお湯を入れて一気に飲む。

ってやつで、ほとんど、治っちゃったんだけど。

今回は長い。

野口整体の野口晴哉さんじゃないけど、「風邪の効用」。

風邪には風邪の理由がある、って当たり前だけどね。

風邪を経験する、と言う言い方だったな、治すんじゃなく、と。

とはいえ、できることは寝ているだけで、と言う何日かを過ごした。

昨日、熱が出て、たぶん、収束に向かう、と言うことだと思うんだね。

熱が出ないと、劇的な変化にまで至らず、中途半端に、カラダの強張りが残り、やがて。

近いうちに似たような症状となる、ということだ、と勝手に決めてます。

ようやく、長い風邪から抜け出すことができるか、どうか。

そんな今朝ですが。

発熱でカラダが緩んだところで、骨も緩めてみます。

 

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今朝は発熱

2019年03月27日 | Weblog

写楽の絵がかかっている病院にて。

熱がでると、これまた、かったるくて。

不調が続くのですが。

本日は、全ての約束をキャンセルさせていただき。

寝る。

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gooブログさんの入力画面が新しくなった

2019年03月26日 | Weblog
ので、早速、それで投稿してみることに。
昨日は、午前中をかけての大改修だったようで。
おかげで、僕の投稿は、どこかへ飛んで行ってしまった。
ところで、慣れるまでは、ぎこちない感じだな、この画面がね。
 
と言うことで、今朝はお試し投稿とさせていただきますか。
 
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修善寺の大患

2019年03月24日 | Weblog

という言い方があるらしい。

夏目漱石ですね。

今朝は、そんな修善寺から。

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夢の中で咳をしているのか

2019年03月23日 | Weblog

それとも、リアルに、現実の世界で咳をしているのか。

なんて謎が、この二、三日なんだけどね。

妻に聞いても、咳はしてない、と言うんだ。

たしかに、大きな、たくさんの咳をしている割には、喉は平静を保っている。

夢か。

やめとこ、夢になるといけねぇから、って「芝浜」だけど。

今回の、いわゆる風邪、は長引いている。

あるいは、花粉症じゃない?なんて言われたりもしているけれど。

いずれにしても、体調の異変、ってわけだ。

かかりつけのお医者さんは、春になるとこうなるね、とカルテをパラパラ見ながら。

おっしゃる。

さすが、かかりつけ、ってことで。

わがカラダの異変に、このところ、どうだろう、三週間くらいになるのか。

身も心も捧げ、みたいな具合だけど。

似たような、と言うか、彼女は、カラダではないけど、バテレン。

キリシタンの大量の殉教ね、その一人一人の人々が、今でもすぐそこにいるような。

そんな具合に息をしている、ような文章を残している。

彼女、と言うのは、石牟礼道子さんなんだけど。

その彼女も、すでに、この世にはいない。

島原と天草。

そこへ何年がかりなのか。

水俣病の患者さんたちとの過ごし方と、同じように。

いやいや、こんな言葉で表現しちゃうのは、失礼だな。

ただ、彼女の文章を味わうことにします。

が、コンキスタドーレ、と言うんだったか、スペインの、中南米、インディオへの劫掠。

それ、キリストの御名においてだった、なんて文書、残されているんだよね。

金銀の採掘で数えきれないインディオが命を落とし、と言うね。

かたや、天草・島原でも、真逆に見える、キリストの御名において、多くの信者が亡くなった。

時の権力者が殲滅した、んだよね。

なんてこと、汝が先、ながさき、の地から帰ってきて、ながさきがまとまらないのです。

なんて言っていたけど、このあたりのことではあるんだな、喉に棘のように引っかかっていたもの。

昨夜も、サッカーの日本代表戦のあと、少し、彼女の本を読んでいた。

黄泉と現実のあわいを漂うような彼女の文章表現の、すっかり虜になっちゃって、と言う感じで。

こりゃ、夢に見そうだな、と思っていたら、見た夢は、大量に咳き込んでいる自分の姿、ってわけだ。

さて、今日は、修善寺は、桂川ホテル。

最後の晩餐のような宴をさせていただくことになる。

 

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傘は履物のどちら側に置いた?

2019年03月22日 | Weblog

これ、一休さんの言葉だそうで。

この何日か、はまっている。

ある期間修行を終えて、一休さんに会いにきた弟子。

という設定なんだね。

弟子は、喜び勇んで、修行の成果を師匠に認めてもらおう、なんて感じの瞬間だ。

すると、一休さん、表題のような質問をしたわけだ。

弟子は、なんだ、そんな、どこにでもあるような質問か、くらいに思ったのか、どうだったのか。

答えようとすると、?、はて、どちら側に置いたんだったか、というわけだ。

すかさず、一休さん、あと7年間、瞑想してきなさい。

と言ったそうだ。

僕、こんなにすごくなったんですよ、と師匠に見せたかったんだろうね。

まるで、幼子が、ドヤ顔で、例えば、なんだろう、何かができたときに周囲のオトナに見せるような。

気持ち、わかるね。

そんなんばかり、やってきたという気もするしね。

ほらほら、こんなになったんだよ、ってなもんで。

それはわかったから、ところで、傘はどちら側に置いたの、ってわけだ。

この逸話、OSHOは。

「シンフォニーを指揮しているかのように

 みかんの皮をむきなさい」

とまとめるんだけどね。

このあたりは、何日か前にアップした、所作の美しさ、とあい通じるものがあり。

お湯の雫の、ほんの一滴を丁寧に扱う、その所作が、ね。

日常の、一つ一つのふるまいに、全精力というのか、全神経というのか。

言ってみれば、その瞬間にだけいる、という、そんなことを言ってるんだよね、きっと。

そんなことを真似してみようと、昨日の午後は、黒鯛を焼いたよ。

串を打って、炭火の七輪でね。

串打ち、あれは、難しい。

長さによっては、それを持つ手が熱いし、刺し方が悪いと、身崩れしちゃうし。

ってわけで、わが修業は、あと7年、って言われそうだな、一休さんに。

もっとも、これからやろうとしている骨ストレッチは、そんなこと、まったくなしで。

いいから、俺の自由にさせてくれ、って、一休さんにでも言っちゃうよ。

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あんたにゃ、世話んなるな

2019年03月21日 | Weblog

ふと、今朝は、そんなフレーズが浮かんできた。

いとこから聞いた話で。

おじが、老人施設に入所中。

病を得てからずっと、お世話をするようになったんだけど、表題のごとくで。

なかなか、名前を呼んでもらえず、というわけだ。

その前は、家にも寄り付かず、なんて時期もあったりなので、ありがちなパターンではあるんだけど。

息子たる名前、ではなく、あんた、という三人称みたいな。

なんてことを、思い出したわけだ。

名前というのは、そう言った意味では、個人個人にとっては。

とても大事でもあるし、あるいは、大したこともない、と言い放ってしまったら。

随分と楽になる御仁も、そこかしこに散見され、ってな具合でもあるんだよね。

I.D.、アイデンティティ、ってやつ。

いい調子で育てられてくれば、わが名に誇りを、ってなもんだけど、真逆だと。

自己評価、低くなるし。

ある意味、ブランディングなんてことに似ていて、焼きごてで。

背中だか腹だかに、ジュッと、ね。

ブランド、ってやつ。

なのだけど、悲しみ喜びも含めて、ずっと生きてきた、ということには間違いはなく。

誇りからも憐憫からも、遠く離れたところで、生きてあった、とね。

役者さんの芸名とか、飲み屋さんの源氏名、なんての。

あれ、面白いといえば面白いよね。

育ってきた自分ではあるけれど、違う名の人になる、わけで。

引いてみる、というのか、俯瞰する、というのか。

我は我ではあるけれど、世間とは別物の我、って。

社長、なんて呼び名も、そうかもね。

いつの間にか、社長、という人種になっていた、なんて感じで。

社長への、それぞれの思いこみ、こだわり、評価、価値観、ま、そんなことに取り込まれ。

あるイメージを作り上げ、自分なりの社長になる、って次第で。

そんなこと、言い始めたら、女、とか、男、父、とか母、とかも、そうだけどね。

すべからく、後付けの、社会、世間、世の中、みんな、とかの言葉で括られた。

ある領域からのメッセージを携え、と。

ところで、毎朝、こんな具合にブログ書いてると、精神衛生上は、とても良くて。

早い話が、吐き出す、なんだけど。

わが身内に溜まった膿のような思考ブツを、と言ったら、ちょっと、汚いけどね。

膿、ではなく、科学的にいえば、化学反応由来の、とりあえず、今のところは必要のない。

もの、か。

カラダにとって、ね。

あれよあれよという間に、春分の日、だ。

もっとも、あれよ、がなければ、退屈で退屈で、って、志ん生の噺、「あくび指南」になっちゃうけどね。

その退屈から逃れるために日々を生きる、みたいな、本末転倒、ってんもんだ。

さて、骨との対話を始めるとするか。

 

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所作が美しい

2019年03月20日 | Weblog

何日か前、わが菩提寺と同じ宗派の。

静岡では高名なお寺、宝泰寺さんにお邪魔したわけだ。

そこで、和尚の、というのか、ご住職というのか、これまた有名人の東演さんにお会いした。

そのお部屋が、立式の茶室、とでもいえばいいのか。

椅子とテーブル、そのテーブルに囲炉裏が切ってあったかなかったか。

そこで、煎茶を振舞っていただいたのだけれど、その所作が。

今でも目に焼き付いているくらいに、美しくてね。

俺も、このテーブル、欲しいな、と思った次第で。

誰か、作ってくれないかな、と思うと、今は亡き妻の兄、に到るんだな。

彼が存命ならば、というね、ないものねだりだ。

それはともかく、所作で表す思想、生き方、生きる佇まい、とでもいうかね。

おかげで、毎朝の珈琲、淹れる時のお湯の所作、真似する仕儀とあいなり。

学びはまねび、って親父ギャグみたいだけど。

下手な思想やらイデオロギーで、活字や言葉からの影響を受けてのたうちまわるよりも、よほど上等な。

そんな気分だ。

すべからく、世の中、そんな具合なのかもしれなくて、それを実現するために。

あれやこれやの言葉を、おしゃべり・無口問わず、使い倒す、という具合で。

達磨大師の坐禅を、禅の作法まで磨き上げた、この列島の風土というものは。

世界に誇ってもいいものかもしれないな。

少しばかり、規矩にはめる、という不自由さがあるにはあるけど、で。

そのメンタリティが余計なところに向かうと、めんどくさい所作にもなりがち、だけどね。

なんてことを、かの御仁からのご接待由来の考え、として味わっているわけだ。

だから、ゆめゆめ油断めされるな、ってことでもあり。

決して、人様の目を気にする、というのではないけれど、自ずからあふれるものは自ずから伝わる。

とでもいうか。

上記、油断、といえば、比叡山だね。

空海さんへの御灯火を絶やすな、油を断つな、ってのね。

社員旅行だったか、比叡山ではバスから、妻は降りられなかったな。

言ってみれば、妖気にでも当たった、という感じかね。

さて、相変わらず体調思わしくなく、ではあるけれど、骨との対話をしてみるか。

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