というのは、なかなかに厳しいものらしく。
生まれてからずっと、可愛がられていた子どもたちが、ある日、突然。
母親は、獰猛とも言えるくらいの態度で、冷たく、突き放す。
らしい。
独り立ちしなさい、という暗示、メッセージを行動で示す、というんだね。
もちろん、巣から、つまり、家庭、家族から追い出され、というわけだ。
子どもからしたら、その時のトラウマ、ってのは、凄まじいだろうな。
獅子はわが子を千尋の谷へ突き落とす、なんてのもあるよね。
それほど、社会、自然というものは厳しいものなんだ、という人間への。
教訓、訓示みたいな感じでよく使われがちだけどね。
その真逆が、落語の「薮入り」。
落語には、ベタに「子別れ」なんてのも、あるけれど。
丁稚奉公に出た息子が、薮入り、つまり、年に一回なのかな、お休みで家に帰ってくる。
その時の様を、待ち構える親の側から描く、ってのが、噺なんだけど。
前の晩から、熊さん、眠れず、女房に、いま何時だ、と何回も女房に聞いたり。
いつもは朝寝坊だけど、早起きし、家のまえを掃き清め、近所の友達から笑われる、とか。
帰ってきたらきたで、昼飯は、どこそこのうなぎに刺身に、あと、なんとかとなんとかを食わせ。
明日は、川崎大師さんから、大山さん、それから、駿河のなんとかへ連れて行って、とかね。
とにかく、目一杯甘やかしたい風情、満載、って次第。
最後は、子どもに諌められ、みたいなオチだったかな。
教訓としてどちらを取るか、ってのも、ちょっと違うかも、だけど。
キタキツネや獅子の話を、わがホモ・サピエンスに置き換えて、ってのも。
考えてみれば、随分に乱暴な話だな。
どっちでもいいよ、って感じかな、熊さんでもキタキツネの母親でも、とね。
いずれにしても、そんなお為ごかしに縛り付けられている、その無残さ。
ってのも、どこか、片隅に置いといてもいいかな、というわけだ。
キタキツネの話を紹介していた御仁が、若い頃、二年間、精神科へ通ったことがあるそうで。
とてもいい先生で、懇切丁寧に処方、処置をしてくださって快癒に向かい。
その最後の日、先生にお礼を申し上げ、というタイミングで、くだんの先生。
一気に、厳しい、鬼のような形相で怒鳴りつけ、なんてことになり、くだんの御仁は。
二度とこんな先生には会うまい、と心に決めたらしい。
んだけれど、のちにその先生の著作に、かくかくしかじか、自分に依存しないように。
そんな態度にしている旨、書いてあったそうだ。
依存、ってのは、目に見えないから、やばいといえばやばいけれど、ね。
ま、いろいろと、難しいです。
というわけで、こちらの今日は、シンプルに行くとします。