と言えるか。
それとも、日々、あんまり、四方八方へ動いていないのか。
気がつくと、江尻城跡、今では小学校沿いの桜が、満開の風情。
帰りがけに通る道すがら、桜を愛でながら、なんだけどね。
山の師匠のFacebookには、身延のしだれ桜が、なんて見事な写真がアップされていた。
どこかの山の帰りに寄った、ということだったけど。
桜も紅葉も、なかなか、ジャストタイミングで、というのは、難しいからね。
頭の中に、河津桜の桜色が残っていて、山桜の淡さがいいな、なんて気分がもたげてきたり。
にしても、あの川沿いの桜は見事だし。
いずれにしても、桜咲く季節は、いいね。
入学式なんかもあって、もの皆、新しい季節に向かう、という感じで。
桜の樹の下には屍体が埋まっている、と書いたのは、誰だっけ。
梶井基次郎でもなく、明治の詩人だったか。
萩原健二でもなく、萩原井泉水でもなく、ま、そんな人がいたね。
相変わらず、意味、わからないんだけどね。
いつか聞いたかも、だけど、忘れたのか。
今日は、復活なった新芽の会。
その前に、カーテン工房のミーティング。
夜には、同友会の支部の総会。
ぎゅっと詰まった一日ではある。
新芽の会は、メンバーが半分以上、入れ替わっているから、まるで、なでしこの代表メンバーみたいな。
ざっくりとした意図は、異種格闘技、ま、戦いじゃないんだけど。
その昔、日常が重く、変わりばえしない村にやってきた、まれびと。
あるいは、異形の民。
今の言葉で言えば、異業の民が集い、そこに、新しい文化文明が生まれる。
「文明の衝突」、というと、イスラムとキリスト教の戦い、みたいだけど、とても。
大きな話にしちゃえば、蝟集するそれぞれが、それぞれの文化文明を背負って。
その場に登場する、という絵柄でもあり。
かけがえのない時間、というわけです。
黙って座ればピタリと当たる、じゃないけど、素直な心でその場にいるだけで、なにごとかが招来し。
なんだよな、きっと。
ものごとは、小さな意図が基点となり、オートマチックに、動いていく。
あとはお任せの世界、とでも言えるか。
心してみれば、万物皆我が師なり、ってわけだ。
この文節では、心してみる、というのが、大事なところで、それがあれば。
学校なんか行かなくても、まわりはボランティアの先生だらけ、時には、大金までいただける。
って算段で。
学ぶ、という言葉が、まるで、いやいやをしている幼児の首に縄をつけてね。
ひきづりながら、という絵柄のような、干からびた魔物のようにも感じられるような。
そんな今日この頃、ってことだけど。
一度、学び舎について、明らかにしておく必要、あるかもだね。
というのも、誰かとの、どこかとの、彼我の差を際立たせるのが、学びではない、ってことをね。
あれ、どこまで来ちゃったのか。
そうだ、桜を見逃している、ってことだ。
そりゃ、残念だけど、いわゆる心の眼で、ま、心眼ってやつだね、では、愛でている。
とでも言っておきましょうか。
さてさて、希望とともに目覚め感謝とともに眠る一日を始めるとしますか。
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