まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

今朝は糸を切らなかった。

2021年09月30日 | Weblog

ネタとしては、ちょっとくどい感もあるけれど、「蜘蛛の糸」のことね。

学習能力が、なんて少しくさしたので、たぶん、伝わったんだろうな。

んじゃ、やめるわ、ってなもんだ。

伝わり方というのは、そんなの表に出てきたら、つまり、宇宙の秘密が開示されたら。

そりゃもう、上を下への大騒ぎだろうな、今まではなんだったんだろう、とね。

ひょっとしたら、とてつもない記憶力の持ち主かも知れず、蜘蛛くんが。

あん時のお前さ、顔はこんな具合に笑っていたけど、心の中では、苦虫を噛み潰してたろ!とかさ。

インドかどこかにあるというアカシックレコードは、未来予想図、というか、未来がまんま書いてある。

そうだけど、「蜘蛛の糸」には、過去の歴史、自己史の、しかも表に現れるイベントだけではなく、意識の流れも。

なんてことに、とかさ。

清々しい朝からの妄想、とも言えるし、あるいは、もう一つの世界、パラレルワールドでは、ごく普通のこと。

かも知れず。

どのみち、歴史に限らず、現代、現在、にしても妄想合戦でもあり。

ところで、この妄想の妄ね、ふと、白川静さんに聞いてみた。

すると、デタラメ、みだり、仏教では煩悩に乱された心を妄念という、とある。

迷いの心から物事に執着することを妄執という、ともあり、いい言葉としては使われてないな。

当たり前か。

ここで、時事解説ならぬ言葉解釈をしても仕方ないけど、ついでに言っちゃえば。

迷う、とか、みだり、とかよくない言葉みたいだけど、ビジョン、なんてことになると。

また違う受け取り方だな、その実は、似たようなもので。

カオスから、混沌から物事が生み出されるとすると、妄想の妄も満更でもなく。

そんな時に、小林秀雄に倣って、かむかふ、考えるとは物に向かうこと、を真似てみるか。

ということで、「蜘蛛の糸」は別の場所に移動したのでした、たぶん。

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「蜘蛛の糸」は芥川龍之介か

2021年09月29日 | Weblog

あらあらの筋は覚えているけれど、詳しくはわかってない表題の作品だけど。

このところ、何日か、玄関を出ると蜘蛛が糸を張っていて。

それを毎朝、僕の頭で切る、というひどいことをしてるんだけどね。

懲りないな、とか、おいおい、とか、ごめんごめん、とかの内部の言葉とともに、ってわけだ。

我が家の蜘蛛評は、総じてよくて、娘たちは蜘蛛を飼っている気分じゃないかな。

ゴキブリを撃退してくれるらしくて。

僕にとっては双方とも、お友達とまではいかないけれど、彼女たちにとってのゴキブリは。

なんだろう、天敵、いや、おどろおどろしい魑魅魍魎の世界の住人くらいか。

出現すると、大騒ぎだからね。

はともかく、せっかく張った糸をね、そんな具合で。

彼らの学習能力向上に縋るしかないんだけど。

毎朝、忘れちゃうしね、そこに蜘蛛の糸があったなんてこと。

いい気なものでもあるね、芥川の作品みたいに、地獄からの脱出のための唯一のアイテムだとすれば。

そりゃもう、合掌はするし、お供物はするし、祈るし、感謝するし、あとなんだろう、ま、そんな具合だよね。

涙のひとつも流すかもしれないな。

今朝は、ルーティンを変えて、骨ストレッチではなく、縄跳びをやってみた。

このところのマイブーム、小倉重成さん曰く、みたいな風情で、縄跳び5000回への挑戦、とね。

もっとも、今朝は、1050回。

律儀でしょ、数え方が。

1分間で150回、それを7分間、って仕儀で。

かの御仁は、難病の方への治療の一つに縄跳びとかランニングとかを取り入れて、ということで。

それに食養生だ。

もっとも、この間の漢方薬局さんとの会話で、やりすぎ、ストイックすぎるのも良くないよね、と。

くだんの先生、脳梗塞で三途の川を渡ったらしく、それをお聞きして、市倉定さんのことも思い出した。

例の、経営コンサルタントにして塩の本、「正食と人体」書かれた方。

かの御仁も、わりと呆気なく川をお渡りになったんだよね。

にしても、戦後の塩化ナトリウムを塩だと販売した専売公社、って絵柄、ほんまもんの。

命をつなぐ塩、というウタイの塩には、たくさんのミネラルが入っているのに、それ、どこかへ捨てちゃって、と。

あの本で知った時も、衝撃的だったな、今の、西洋医学と東洋医学の違いについて知ったのと似てる感じ。

ま、そんなこんなの本日を始めるとします。

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巴川水面をスレスレに滑空する白鷺。

2021年09月28日 | Weblog

いつもながら、白が美しい。

カアカアと鳴くカラスは、わが身の黒を呪うのか。

んなことはないよね、気持ちよく黒を過ごしているんだろうな。

白鷺の前は、例の、カワウくんかな。

しかし、彼は旋回はしないからな、僕の記憶の中では。

違う鳥なのか、鳩たちも気持ちよく舞っている。

今朝はちょっとしたお祭りだな、鳥たちの。

どこからかヒヨドリか、鳴いているし。

風は秋の風だし。

今日からの第47候は、虫蟄(かく)れて戸をふさぐ、虫たちが土にこもって穴をふさぎ冬支度を始める。

と解説してくれている。

ふさぐ、という字が、土に不の下に一、なんだけど、変換できません。

いずれにしても、虫たちもこもり始めるのか。

毎朝、わが農園、といっても、数種類のハーブだけど、そこを眺めて車上の人になるんだけど。

そこへ行くまでのほんの少しの道中、虫の鳴き声がなかなかいいんだ。

なく虫の名前はわからないけれど。

昨日は、漢方薬のお店にお邪魔して、小倉重成さんのことなどなど、いろいろとお聞きした。

結果、玄米用の土鍋を購入、その足で、お米屋さんに行き、人気のあるオーガニックの玄米も購入。

いよいよ、玄米菜食生活への第一歩、ってわけだ。

時折、川面を跳ねるのはボラか。

流石のカラスも食指を動かされないのか、川っぷちの手すりに止まったままだ。

そうだ、夕べは、久々に小林秀雄の文庫を手に取ってんだった。

「かむかう」と言っていたか、かんがえる、というのを、そんな具合に解釈したのが本居宣長だそうで。

向かう、物事に向かう、向き合う、ものの本質とでもいうか、そんなところにまで至る向き合い、だったかな。

自分の内側に籠るのとは違って、向かう、ものとの対話、ってくらいの話かな。

ほんの数行、読んだだけだから、わけわかんないけれど、記憶に残っているんだよね。

知識を上積みしていくのとは違うあり方、とでも言っておくか。

昨日もちょこっと書いたけど、知識の上積みには辟易している今日このごろ、ってなもんだからか。

そうだ、上記、漢方薬屋さん、その店先で読んだ自家製の新聞に、薬剤師さんが書いていて。

ヨガだったか、とにかく、100%を目指すと苦しくなるから70%くらいがいいです、なんて記事。

すべからく、ってやつだな。

どこかの政党は、ゼロコロナ、なんて言ってたな。

おいおい、あんたのからだ、ウイルスだらけでしょ、微細菌だらけ。

そもそもミトコンドリアだって、外部からの来訪者だし。

なんてツッコミ入れたくなっちゃうくらいの世相でもあるね。

藤田紘一郎さん、腸内細菌の学者さん?、きれいは病気だ、だっけ、そんなこと言ってたよね。

そんなことはともかく、鳥たちの鳴き声とともに「秋分・次候」の始まりです。

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今朝はまた秋まんまの空だな。

2021年09月27日 | Weblog

天高く馬肥ゆるの秋、なんてよく言ってたな。

こちらは、走りが功を奏したのか、あるいは、どうなのか、カラダは締まりつつあり。

かつ、そろそろ、玄米菜食、ってのに移るか、なんてタイミングで。

とはいえ、流行りの、ダイエットという感覚ではなく、食さえもカラダとの対話、ってわけだ。

あくまでも、カラダね、頭ではなく、と。

頭偏重の時代を生きてきた当方としてみれば、もちろん、頭に敬意を表しつつも、五感に帰る。

ってなもんだ。

先ほど、骨ストレッチの始まる前、磯ヒヨドリだろうな、鳴いていた。

カワウくんもすでに巴川で漁をしていたか。

彼岸がすぎ、昼夜の時間が逆転しつつある朝、いつもの定時たる僕の時間は、彼らにとっては少々早いのか。

ということは、今までが遅かったので、彼らの朝のルーティンには間に合っていなかったのかもな。

なんてことを考えつつのブログ。

昨日、このところのパンデミック由来のことごとについて、文章にしてみた。

ので、今朝の瞑想後の左右の頭蓋骨、左が大きくなっていた。

素直なものだね、わが頭くんも。

使い過ぎだぜ、ってわけだ。

そんな朝は、ブロウニーさんのマスターご自慢の、グアテマラ、キアマバラ。

上記、玄米菜食の話、小倉重成さんからの拝借になる考え方、それをわがカラダを持って実験道場。

江戸時代の中期くらいから玄米を精白するようになったそうで、同時に一日三食が始まる。

同じく、江戸患いってのも。

代々の徳川の将軍たちは、その病で斃れた、というんだね。

ま、それは僕の得た知識にすぎず、それをまさに肚に落とす道場を開設、ってなもんだな。

今回のパンデミックでもそこかしこで見かけられたことだけど、知識、ってのは、ほんと、始末の悪いもので。

知識合戦、空中戦、ってのが繰り広げられ、映画のように眺めてるのは面白いけれど、我がほうへ飛んでくる。

火の粉は振り払わにゃならぬ、ってことになるからね。

というわけで、雀の鳴き声も聞きながら本日に向かいます。

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草刈りは気持ちいいものだ。

2021年09月26日 | Weblog

昨日、旧三保駅までの走りの後、午後から隣家の、地の神様へ通じるあたりを草刈り。

名前も知らない、外来種じゃないかと思える草が多かったな。

次男坊によると、その実を鳥たちが食べにきていたそうで。

そりゃ、申し訳ないな、人間の都合で、こちらから見たらきれいになりました。

なんて感想を述べているのだからね。

昭和天皇じゃないけれど、雑草という名前はありません、ってことだよね。

なので、一応、仁義は切らせていただいた次第。

それはともかく、地の神様への通路は確保されたわけだ。

話は、源頼朝さんが逝去した頃に遡る。

七人衆だっけ、六人衆だっけ、源家の、ね。

もともと、梶原景時がリーダーだったのかな、なのだけど、お館さま、頼朝、亡き後の内紛が始まり。

景時さんは、京へ落ち延びる、あるいは、再起を期す、ということで、東海道を進むんだよね。

その道中、高橋村に差し掛かったあたりで、土地の豪族、入江や吉川や高橋や、の氏名(うじな)をもつ。

集団と合間見え、今では梶原山と名付けられたあたりで、一族自害、という顛末。

その合戦の最中に、わが母方の屋敷でも、配下の侍が切腹。

その方が、甲州韮崎城の武士、韮山三左衛門、享年44歳。

祀られているのは、他に梶原家臣七士の墓石。

ということが伝えられている。

僕の幼い頃には存命だった、石塚さんとおっしゃる、地元では、信心者(しんじんしゃ)と呼ばれていた。

その方が、たぶん、今の言葉で言えば、チャネリングしたのかな、と。

そんな地の神様の石碑を整えたのが、おじおば会の同行者、母の弟のおじ。

というわけで、気持ちが良くなった次第。

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旧三保駅まで走ってきた。

2021年09月25日 | Weblog

久しぶりだな。

少なくとも、草木が芽吹く季節には走ってなかったか。

歩道上の何ロックと言ったか、その隙間から草が生えていたのが目立った。

遊歩道は、当然の如くに、日常道路と交差しているところがある。

そこは、車が通り、遊歩道用の横断歩道になっているのだけど、驚いたことは。

そこを渡るときに、車の皆さんは、実に丁寧に止まって待っていてくれた。

街中との違いを少し感じたな。

もちろん、街中でも待っていてくれるんだけどね。

いずれにしても、久々の旧三保駅だった。

となると、3時間ばかり、道路とわがカラダと遊んできたわけだ。

まだ、わがご先祖様方が大型動物なんかの狩をしていた頃は、こんなもんじゃなかったんだろうね。

なにせ、スピードのあるランナーたる猛獣たちを、熱中症にまで追い込むくらいの走り、だったそうで。

こちらは、ゆっくりのんびりと有酸素運動、と。

なんてことも思い出しながら、やってきた思考、というのか、ひらめき、というのか、は。

「行動すること」なんていう言説に脅かされないように、というものだった。

知らぬ間に、思わぬ間に、行動していることと、「行動すること」という言葉に憑依されての。

は違うことだからね、なんてことが訪れたんだよね。

してみると、走ることもまんざらでもない。

 

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宮沢賢治は37歳。

2021年09月24日 | Weblog

中原中也は何歳だったかな。

「地獄の季節」を残したランボーも40歳前だったか。

夕餉の時のテレビ番組が、今年の富士山登山で、普通のスラックスに革靴、手提げのカバンを二つぶら下げ。

なんていうおじさん、66歳だった。

そのあとで出てきたのが、91歳のおじいちゃんと娘さんとお孫さん。

うちの父親、昭ちゃんは63歳で、あちら側に渡った。

当方、すでにその齢を超え、なんてわけだ。

年齢。

この間は、118歳のおばあちゃんがテレビに映っていたな。

歴史上で言えば、武内宿禰(たけのうちのすくね)は900歳だったか。

北陸の、福井の港での伝承、その昔、ジュゴンを食した女史、名前忘れたけど、そのおかげで。

600年の生を得た、だったか。

もっとも、人間を遺伝子操作して作った、という言説のあるアヌンナキの一族。

彼らは、60万年だったかな、桁外れの寿命。

セミは一週間の短い命を燃やして、なんて言葉遣い、あるけれど。

その実、彼らの生命の概念がわかっているわけではないので、ひょっとしたら。

人間的に言えば、セミという名前の人物が、何回も何回も我々の前に姿を見せているのかもしれず。

生命とか寿命とかで言い表すと、何百年です、かもね。

とにかく、考え方ひとつ、物語の解釈一つで、如何様にもなるって次第で。

なんてことを、清々しい秋の朝に考えている僕って何?と、昔の芥川賞の書名を気取って、ってことだな。

今朝も、いつもの男性・女性のランナーが走り過ぎて行った。

磯ヒヨドリの鳴き声が、ちょっと、遠くの方から聞こえてくる。

さて、今日を始めるとします。

 

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シルクロードには言葉を失った。

2021年09月23日 | Weblog

たまたまつけたテレビ番組、NHKのBS。

1983年だったか。

アーカイブ。

しばし表題の如く、言葉を失い、すごいすごい、と連発していた。

何百、何千年前からのことなのか、砂漠の中のオアシス、どこぞの遺跡を発掘する日本人の教授。

事細かな話はわからないけれど、あれがある時代の東西の交易のシーン。

小さなことにうつつを抜かしてるな、なんて柄にもない反省を少しして。

なので、ちょっと大きなことのキーワードだけ、並べてみるか。

すべての人は天才。

潜龍。

仮想現実としての地球、カラダ。

五感の解放。

アカシックレコードとの常時接続。

やっぱり、病気が治る会社、未病が浮上する会社。

もっとたくさんありそうだけど、書こうとすると、出てこないもので。

言葉なき会話。

自然というもの、自然としての人間。

今度、ノートしておくか。

ノートといえば、トモエリバーのノートをオーダーしたんだった。

このブログのタイトルも、トモエリバーなんとか、なんて改題すると、かっこいいかもな。

しないけど。

まわりで起こっていること、って曖昧でありふれていて、しかし、深いといえば深くて。

気に入ってます。

というわけで、今日は、Dとの会話をしてみるか。

D?

ざっくりな言い方だけど、松果体を呼び覚ます、って感じかな。

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十五夜さんにへそもちをいただき

2021年09月22日 | Weblog

という夜だった。

お月見というと、吐月峰(とげっぽう)と読むのか。

そこを思い出す。

月を吐く峰、なんていかにものネーミングだよね。

幼い頃、そこに父母に連れられて行った。

沢蟹と言ったかな、小さな蟹が食膳に出てきて、それがいつまでも、ハタチ過ぎてからも。

母親との会話に出てきたな。

あれは、たぶん、待月楼(たいげつろう)だったんじゃないかな。

これまた、名前がいいね。

そんな中、今月の終わりには、「月の教科書」なんて本、マドモアゼル・愛さんの。

それが届く算段。

月は、7歳までに見せられた、幻想の自分というものを強化し続け、なんて類の本です。

せっかくの、待つ月の館とか月を吐く峰とかの、ちょっと素敵な話題の後になんですが。

ま、いろんな様相で、ものごとを眺めているのが、当方の、人間たる所以でもあり。

今朝は、一番にベランダへ磯ヒヨドリがやってきていた。

こちらも慣れたもので、ただ、じっとしていた。

もちろん、秋波というのか、周波というのか、そんな波は送りつつ、だったけれど。

巴川沿いをいつもの180spmの女史が走り過ぎていく。

駐車場に着いた時には、最近ノーマスクになったランナーと遭遇。

みたいな感じで、僕もどこかを歩いたり走ったりしている時に、どこかの誰か、名前も知らない。

そんな方が、そんな具合に眺めているのかもしれないな。

なんてことに、若い頃は、悩まされていたな、きっと。

誰かに見られている自分、なんてのを意識して、そんなものは存在もしていないのに、ね。

なんて自意識過剰のわたくしめをご披露して、次なるルーティンへ向かいます。

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ひんやりした朝、秋だね。

2021年09月21日 | Weblog

その昔、人間も冬眠してたのかな。

食べるものがある時には溜め込み、冬に向かう。

脂肪というものに蓄え、寒さの冬はじっと耐えて、なんてね。

今でもその名残は、蓄えられた脂肪にあるのかも、と。

そういう意味では、体脂肪率10云々なんてのは、かなり人工的な、アンチ自然的な、かもね。

冬眠なんてのは、やったことないのでわからないけど、死へ向かうみたいな感じなのか。

それとも、しばしの休息の後に再生があるということなのか。

ということもありで、そんな秋は、肩甲骨の内側が動きにくくなり、そこに溜まる。

何が溜まるかわかりませんが、例えば、鬱症状のような、逡巡とかためらいとか。

いずれ、動きが鈍く、循環が遮られ、みたいなことかな。

なので、秋はさみしい、とか、哀切、とかと表現される、という仮説です。

それを科学的に、医学的にきって棄てる、ってのもいかがなものか風だけどね。

それにしても、秋の空だ。

隣家の瓦に小鳥が止まっていた、いつもの磯ヒヨドリより少し小さいかな。

なんて感想を述べながら、十五夜の、旧暦8月15日に入っていくとするか。

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