まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

時代は変わる……?!

2016年10月31日 | Weblog

今朝の表題は、英語のね。

The Times They Are a-Changin' 、これにしようか、という気分だったんだ。

昨日のブログの続き、みたいな感じでもあり、どこかの新聞だったか、サイトだったか。

当のボブディランが、ノーベル賞受賞の報に、言葉を失った、というような。

コメントが紹介されてもいて。

つまり、ありがたく頂戴いたします、というような意味なんだけどね。

まあ、物語的には、西欧基軸の、ノーベル賞すら拒み、ほら、ドゥテルテだって、そうだし。

反西欧のようなトランプも出現し、というようなキャストで眺めると。

なんてことになりそうな、ね、そんな物語が。

わかりやすくて、時代の転換、ってことでは。

どうも、そんなシンプルなストーリーでもなさそうだ。

夕べも、ニュース番組で、ドゥテルテ大統領について、何人かのコメンテーターがアレヤコレヤ。

と評論していたけどね。

なんとか劇場の出演者としてのコメンテーター、って位置付けでもあって。

鼻白みながら、眺めていたわけだけど。

なかなか、米国大統領選の話題に進まず、途中で、チャンネルというか、スイッチを切った。

のだけどね。

あれだけの大ニュースが、つまり、クリントンのメール事件が蒸し返された、というね。

それがネタにできない、という騒動、できれば、なかったことにしたい、というような。

トランプのような暴君、では絶対いけません、と言いつつ、その相方が、ヒラリークリントン。

どうやらガダフィを殺し、リビアの国家の富でISを製造してしまった、というような事実が、出てきちゃうかも。

とね。

劇画作家でも書かないような、ベタすぎる展開の可能性もある、そんな物語が、かの国では起こりつつある。

という刹那、のコメンテーターってのも、実のところ、やりにくいんだろうな。

いずれにしても、They Are a-Changin' 、ってわけだ。

そこに、さまざまな陰謀論も交え、おどろおどろしく語る、って手もあるけれど、それにすら。

辟易感、満載でもあり。

暑い暑い、と言っていたのに、晩秋の訪れ、漂う、月曜の朝。

なんの高ぶりもなく、落ち込みもなく、と書いてきて、そうだ、今朝は、五木寛之の。

ふさぎの虫、ってのを、事務所への車中、わが脳内に漂わせていたんだった。

彼は、しきりに、そんなこと言ってたな、とね。

なにせ、彼、時代の空気感を感じ取るの、得意でしょ。

ポジティブシンキング、ってのが、そのあとに、病、という言葉をつけて、語られたりする。

そんな時代に、そのアンチとして、ふさいじゃっていいじゃん、みんなふさぎの虫を持ってるんだから。

というような、くすぐりがね、美味いんだよね。

感心します、が。

長寿社会だから、みんな、いつまでも若くいようね、という時代に、たしか。

玄冬、というような言葉を持ち出し、これ、青春、朱夏、白秋に続く、人生最後の門、ってことらしいけど。

この話を展開していくと、わがチャリンカーを思い出すんだな。

「青春の門」に刺激されてか、「青年は荒野をめざす」に、だったか、北の大地に旅立った、彼ね。

と言ってもわからないかも、だけど。

今は、旗を振ってる御仁なんだけど、と言っても、未だに全学連をやってるんじゃなく。

今や、「玄冬の門」ってわけだ。

そうそう、ふさぎの虫、だった。

これね、わが母親の、入院ライフでは、しばしば、お目にかかれるスタイルで。

昼間は明るく調子良かったのに、夜行ったら、妻さえ怒らせるような、ネガティヴモード全開。

だったりね。

感情はぶれ続けるのですが、ネガにしてもポジにしても、命の表れにはかわりなく。

そういう意味では、めでたさも中ぐらいなりおらが春、by 一茶、くらいの感じでもあるんだけど。

そんなことを、ふさぎの虫、って肯定してあげることで、安心感を創出し、というのが、くだんの。

五木寛之の手法、なんて書いちゃうと、叱られそうだけどね。

その、ふさぎの虫の起こる所以、ってのを、実のところ、見切る、ってのが、禅の作法でもあるんだ。

と思うんだけどね。

グーグルでも取り入れられている瞑想、ってのにも、そんな時代の萌芽、があるような。

つまり、虫はいつも生き生きと生きている、その虫を、ふさいで解釈しようが、踊って解釈しようが。

それは、各人の自由ですが、そこにたしかにあるものは、虫、つまり、命の動きです。

って、結論なんだと思うんだけどね。

さて、そんな虫を本日も動かすとしますか。

 

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カフェ369に行ってきた

2016年10月30日 | Weblog

名刺に、薪ストーブのある大人の隠れ家サロン。

とある。

そんなカフェに、行ってきたのでした。

玄米の酵母液がらみ、なんだけどね。

しかも、隠れ家なのに、妻と同行、って、隠れ家になってないけど。

369、と言うのは、そう、その通り、弥勒だそうで。

この間、沼津で、くだんの酵母液の作り方を教えていただいたんだけど、いまいち、わからず。

と言うのもあり、お邪魔したわけだ。

美味しい珈琲をいただきながら、南に面した大きな窓から庭を眺め。

玄米の発酵米の作り方なぞをご教授いただき、彼女、一升炊くらしく。

たしか、三日か四日か、保温器で発酵させるようで、柔らかく、もちもちして、と。

たぶん、そうなれば、おかず、いらないよね、なんて会話にもなり。

そのうち、訪れたお客さんが、ピアノを弾きだし、ご主人はトランペット、娘さんはピアノ。

というご家族らしく、どこかで聞いたことあるな、ひょっとしたら、今はまっている。

パガニーニかも、なんて思いながら、お聞きしたら、ベートーベンの「悲愴」だそうで。

曲名だけは、聞いたことがあるし、どこかで聞いたこともあるんだろうな。

しかし、いくつかのフレーズが、パガニーニに似ていたんだよね。

そんなことも言おうと思ったけど、こちら、付け焼き刃だし、やめといたんだけど。

外にタバコを吸いに出たら、店主のご両親が、柿をとっていて。

僕、熟したの、大好きなんです、というこちらの言葉に応じてくださり、たくさんの熟柿ガキをいただいた。

キノコだけ、だしも取らないスープも美味しかった。

どうも、この時代、あるいは、これからの時代を暗示するような、そんなお店との出会い。

そうだ、フクロウのふう君もいて、iPhoneで動画にし、その後、母親に見せてあげたら。

その昔、母親の生家の裏庭にやってきていたそうで、曽祖母が、彼女から見たら、おばあちゃんが。

子供達が悪さをすると、なんとかかんとか、とフクロウをネタに、諭されもし、なんてことを。

何十年経っても、昨日のように語る、それが十八番の一つでもあるんだけど、一気呵成に。

その世界に飛び込む、iPhoneの画面のフクロウに触れるかのように、画面を撫で、ということがね。

あったのでした。

母親との面会、面談、見舞いは、瞬間瞬間が、まるで、絵描きのような、コメディアンのような、創造行為で。

観察行為と創造行為の連続、とでもいうか。

人生は爆発だ、と言ったのは、岡本太郎か、そのでんで、人生は芸術だ、とも言えるね。

ところで、今朝、新聞受けから昨日の夕刊も一緒に取り出し、見出しに、クリントン氏捜査再開。

とあるんだね。

おいおい、とうとう、やってきたか、くらいのインパクトある見出しで。

大統領選挙まで、一週間余りのこの時期に、FBIが、とあるから、トランプの全米各地への浸透、ってのは。

ほんとなのかもね、という、そんな気分ですが。

ドゥテルテといい、習近平の「核心」といい、こりゃ、世界大騒乱、新秩序の始まり、かもね。

この秋は、雨か嵐か知らねども、けふの勤めの田草とるなり、という例の、二宮金次郎ね。

そんなことでもあるけれど。

この先は、地に足をつけずの空中戦ばかりの御仁には、なかなかに、ご苦労の多い季節になりそうだね。

って、言っても、いつの世にもあった構図ではあるし、ほとんどの人士がたには、無縁のことでもあるけれど。

さて、霜月まじかな朝の風鈴のなっている中、今日というミラクルな日をお出迎えするとしますか。

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東京は寒かった

2016年10月29日 | Weblog

そぼ降る雨の中、ビッグサイト、国際展示場駅下車。

サンゲツ、川島織物、トーリ、ニチベイ、住江織物、立川ブラインド、などなど。

他にも数多の展示で、うっかりすると、オーバーフローしちゃいそうな。

そんな展示会でしたが、たまに行くと、面白い。

今まで、あんまり、こうした類は、お勉強したことがなかったんだよね。

もう、感覚、感性、なすがまま、みたいな、小さな世界から眺めた世界で勝負、みたいな風情だったからね。

これからは、ちょっと、意識的に、こうしたところへも参加しよう。

落語の「薮入り」じゃないけど、あそこもここも連れてって、とクマさんが、丁稚奉公からおひまをいただいて帰ってきた。

その朝に、おっかあ、に話すくだり、あんな感じで、花の都大東京へ来たからには、なんてね。

でも、実際は、一日の時間は即座に過ぎ去り、という感じで、当たり前だけど。

結果、帰りがけ、苦労して新宿の、紀伊国屋書店へたどり着き、最近知ったばかりの、万能酵母液の本を探したんだけど。

見当たらず、というのも、二三日前の講演会で、アマゾンでは売ってません、というか、まだ、準備ができてません。

が、紀伊国屋では、100冊くらい、平積みになってるかも、なんてことだったのでね。

くだんの酵母液、35度から40度くらいが、適温です、発酵するのにね、ということを思い出したんだけど、まんま。

体温だよね。

命の適温、ってことでもあるね。

なので、僕が幼かった頃、というか、歩きもしない頃か、曽祖母が、着物の懐に入れて温めていた、という。

わが母親からの話も思い出し。

ガンも何も、36度5分であれば、恐れることもない、というような、くだんの酵母液説明者からの話もあり、で。

そういえば、Facebookのフォロワーが、1万人ごえ、という、メディアやネット上では、キチガイ医者。

とも呼ばれている、らしい、内海聡さんと一緒に本を出されている、真弓定夫さん、というお医者さん。

当年とって81歳、という方なんだけど、人間は動物なんだ、とね。

当たり前のことを繰り返されていて。

われわれは、サルの一種で、基本的に、北海道の南端くらいまでしか、棲息できない。

サルの住めないところには、人間は住むことはできず、それでも、住まざるを得ない、ということで。

カラダに悪い、とわかっていても、例えば、北欧の人たちは、牛乳飲んだり、パンを食べたりしなきゃならない。

と言うんだね。

ワクチンが病気を生み出すんだ、と言うことも、しっかり知っておいてください、ともね。

神武天皇以来、この列島ではワクチンなぞ、打たずに人々は生きてきた、なんて。

それとか、子どもは能力高いから、親のやっていることを見ながら、それをするようになって行く、とかね。

なので、「しなさい」と「してはいけない」と言う言葉は、禁句だ、と言うんだね。

さっそく、わが孫娘の親たちに、伝えてみようか、と言っても、親たちにとっては。

くだんの「してはいけない」言葉になっちゃうわけで。

なんてことは、ああだこうだ、と考えることもなく、神経質に考えすぎると、アトピーになっちゃいますよ。

と、上記、酵母液説明者も、おっしゃっていた。

ドリフターズの、加トちゃんが、チャンチャカチャンチャ、と「タブー」の音楽に乗せて、ストリップの真似をして。

子供達には受けて、親たちには顰蹙を買った、ま、あの、タブー、ね。

未開の民族には、タブー、禁忌、ってのがあって、なんて人類文化学者は研究もしたんだけど。

なんて未開な、劣った民族だろう、くらいの慨嘆とともに。

なんだけど、われわれのこの時代にあっても、タブー、ってのは、そこかしこにある、と言う感じがするね。

「タブー」なんて意識もせずに、なんだけど。

そうだ、今日は、中国が1800年代だったか、その前か、世界の3割だか4割だかのGDP、と言う超大国だった。

と言うこととフィリピンのドゥテルテ大統領の物言い、について、書こうと思ったんだった。

西欧列強の、と言う言葉が、明治維新とかについて語られるときの常套句だけど、いかに、その彼らの洗脳システムに。

毒されているか、ってのね。

わかりやすい例題かな、と。

もっとも、これだけ書けば、終わりか。

さて、今日は、酵母液の中で微細菌さまがたに、活躍してもらうとするか。

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玄米酵母液を作ってきた

2016年10月28日 | Weblog

昨日は、沼津。

ついこの間までの、この列島には満ち溢れていた菌たち。

玄米と黒糖と塩と水で、発酵させて作る。

もともとが、天然酵母パンのお店をやってらっしゃった方のレクチャーで。

万能酵母液、というウタイでね。

これはSTAP現象だ、と、残念ながら自ら死を選んでしまった、かの、教授ね。

彼とも交流があったそうで、くだんの彼が、そう発言していた。

というんだね。

ちょっと、詳しくは聞き取れなかったんだけど。

つまり、変容したDNAが、旧に復す、というのか、もともとの形に戻る。

もちろん、好転反応の末に、例えば、アトピーにしても、なんにしても改善していく。

ということなんだね。

2時間半、大きな声の講演を聞いた。

最後に、上記の液を、霧島天然水で、シャカシャカ、と作ったんだけど、この時期だと、35〜38時間。

発酵を待ち、それを26倍に希釈し、出来上がり。

パンを焼いた時も感じたけど、天然の時間は、かかるものはかかる。

こちらのスケジュールに添ってくれない、当たり前だけど。

なんて時間を過ごし、僕は万能の液体を手に入れることになる。

微細菌の世界は、かの天才児、南方熊楠も研究して、そこに壮大な宇宙の真理を見た。

というんだけど、今回の液体の紹介者は、寺田酒造だったか、房総の。

何も削らず、100%の玄米からお酒を作っている、寺田さんの話も出てきて。

点と点が繋がっていく、という感覚も味わったのでした。

なんでもやってみないと気がすまないタイプなんです。

と伝えたのは、講演会場の目の前にある、一階がギャラリー、二階が、カフェ、というお店の。

ママさん、と呼んでいいのか、ご主人とお二人で、道楽のようなお店、と言われちゃうんです。

というようなカフェでのことで。

時間調整、喫煙タイムのために入ったお店。

来週からは一階のギャラリーで、書道展なんです、ということで、ご主人が、何かと準備をされていた。

鄙には稀な、なんて言い回しがあるけど、東京圏の三島ならいざ知らず、この沼津でよくも、なんて感想を。

漏らしてしまったお店なのでしたが。

そこでも、話の展開から、骨ストレッチの、伝道師みたいな役回りを演じ、というのも。

カウンターに、猫背が治ります、だったか、そんな本があったのでね。

くだんのママさんが、自分の猫背を治したくて、というわけだ。

それぞれにそれぞれの課題、テーマを抱え、にこやかに人生を送っている、という絵柄。

にこやか、といえば、このところ、骨ストレッチのルーティンは、笑顔でやってる。

なるべく、ね。

笑うと鼻骨が動き、尾骨にも連関し、というようなことを、創始者の松村さんが、書かれていて。

心の何処かに残っていたんで。

たしか、昨日の話でも、感情を差配しているのは腸、なんての、あったような。

脳ではなく、95%がた、腸内なんだ、というのね。

腸内細菌の世界だ。

いくら、目くじらたて、目を三角にし、道徳本、自己啓発本を読もうが、トレーニングしようが。

それが、脳発信のものである限りは、大元の感情コントロールには至らず、ってわけだ。

これ、実感として、わかるんだよね。

社内教育や理念の共有や、世には、MBA発祥のさまざまな、ハウツー言葉が溢れているけれど。

そのどれ一つとして、人間存在そのものの真髄にまでいたらず、というね。

にもかかわらず、如何にせんむ如何にせんむ、焦燥感だけをつのらせ、と。

この間も、ある御仁といっぱい飲みながら、そんなことより社長のトラウマ、に目を向けた方がいいのにね。

なんて会話をしたものだった。

くどいけど、素直な心で、という幸之助さんの言葉でね。

って、幸之助さんじゃなくても、おばあちゃんの、でも、隣のおじさんの、でもいいんだけど。

形容詞のように、幸之助さん、と使っているだけ、ってことですが。

人生で大事なことはすべて幼稚園の砂場で教わった、なんての、あるでしょ。

さて、本日は、花の都、大東京、ビッグサイトへ。

JAPANTEX2016、と銘打たれた、カーテンがらみのね、イベントで。

おべんきょう、してまいります。

 

 

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今朝の月と星々はきれいだった

2016年10月27日 | Weblog

玄関を出て、思わず、見とれてしまった。

くらいで。

曇り空のような予感の中、見上げた空に、細くなった三日月と、名前も知らない星々。

たくさんたくさん、の。

数え切れないくらいの人々が、この空を、今も眺め、過去も眺め、未来も眺め。

なんて、多少、おセンチにもなるような。

そんな空から始まった本日。

昨日は、病院のはしごで。

おじのところで、リハビリを、ちょっと覗き、そのまま、母親のところへ。

完全看護、というわけだから、なんだけど、この時期が。

大事かな、と思ってね。

こちらからあちらへ辿り着いちゃうと、そりゃ大変、ってなもんで。

こちらにいるときには、こちらの言葉で、態度で、表情で、という具合を維持するように、と。

なので、できることをする、という態度です。

あとは、ご本人様の決意、というのか、そりゃ、こちらの人生じゃないからね。

無理くり力んで、こうせよああせよ、というのは、よく言われがちな。

過去と他人は変えられない、ってわけで。

それをしようとするところから、不幸のズンドコが始まる。

ほとんどが、そうだからね。

世間を、社会を、歴史を、って。

ところで、夕べ、ある御仁が、タバコは休煙、というんだね。

理由を聞くと、歯が痛い、お医者さんがタバコが悪い、ということらしく、それで、やめてみた。

すると、痛みが緩和され、と。

ちょうど、そのときに、陰陽医学とでもいうのか、どこの歯が、どの臓器と関連している、というような。

本を持っていたので、その絵をお見せし。

どうやら、第四臼歯とでもいうのか、胃と膵臓、となっていて、彼、すかさず。

糖尿かな、というわけだ。

膵臓ってのは、例の、インシュリンの出どこだからね。

なんてシーンがあった。

すべてが繋がっているというわけだ。

表に出たものだけが、そのときには真実のような気配、がするんだけど。

その実、その裏側にはさまざまなことがあり、というね。

母親ネタになるけど、ご飯が食べられない、ので、点滴で栄養補給、その針を無意識に外そうとするので。

手には、大きな手袋のようなものがはめられ、しかも、ベッドに縛りつけ、と。

これ、逆に回すと、ご飯を食べれば、点滴が外れ、手袋も、縛り付けも、外れ、という流れになるんだけど。

なかなか、そこが、本人は、理解できない、というのか、実践できないで、邪魔だ、鬱陶しい、とか。

あるいは、なぜこんな仕打ちを受けなきゃいけないのか、早く家へ帰りたい、ということになる。

ことを、日常に応用して見ると、そりゃ、しこたま、そこかしこにありふれた話で。

ご飯さえ食べれば、というところが、なかなかね、ってわけだ。

だから、松下幸之助さんは、素直な心で、と言ったんだ、ってところにまで行き着きそうで。

何かに囚われている、心が縛られている、思い込んでいる、ということがね、自分ではなかなか、気づけない。

ので、人様がいて、気づかせてくれる、教えてくれる。

くらいの話なんだろうな。

そこを、なんでこんな仕打ちを受けるのか、と嘆き節モードに入るのか、どうなのか、人生の分かれ目です。

って、昔流行った、漫才師のクイズ番組だっけ、あったような。

もっとも、それもこれも、自分の選んでいるストーリーなんだろうけど。

そんなわけで、って、どんなわけなのか、今朝の骨ストレッチは、お休みにしようかな。

 

 

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ミシャグチ神社は駿河の地にも数えきれないくらい

2016年10月26日 | Weblog

あるようで。

世の中には、酔狂な御仁がいらっしゃって、いや、学者さんだったか。

そんなサイトを運営されていて、静岡県の「左口神社」を調査し、それをアップし。

というね。

遠州から駿河、伊豆、相州にかけての神社が網羅されていて。

平たい石にとんがった棒、という組み合わせが、ほら、男女の象徴としての。

というのが、パターンらしいけど。

そりゃ、女性から命が誕生する、ということは、何にも代え難い、神秘、深謝、畏怖だっただろうからね。

その前段階の行為は、神聖な、神の代理行為とも言えて。

それを崇拝の対象にするのも宜なるかな、というか、むしろ、現代の拝金とはちがう、より人間の感性に近いものだった。

んだろうね。

民俗学の泰斗、柳田國男が、「石神問答」という本を書いていて、そのあたりの、つまり、石信仰。

についてね、だけど、結果、よくわからなかった。

というくらい、ミシャグチとか石神とか、古い古い、わが列島の古層には届かずじまい、だったようで。

もちろん、文献なんて、残されてもいないんだろうから、現代的な、根拠を積み上げ、的な態度では。

説明しきれない。

第六感でなきゃね。

それにしても、旧東海道をガイドしていただきながら歩いてから、そのキーワードが離れず。

今朝のブログでも、こんな書き方になっている、というのが、楽しくもあり。

時間があれば、サイトをサーフィンして。

と、千鹿頭神(ちかと、またはちかつかみ)に行き当たった。

ここからは、コアな方向へ行っちゃうけど、諏訪のね、縄文の香り溢れるモレヤ神。

出雲からタケミナカタさんがたどり着く前の。

諏訪神社前宮の近くにある、神長官守矢資料館、そこに今に続く、守矢さん。

そのご先祖の洩矢という狩猟の部族が諏訪の地にはいて、そこへ、大和からの外来の民が、理由はともかく。

タケミナカタという名前と稲作農耕を持ってやってきた頃、上記、千鹿頭(ちかと)さんは、洩矢さんの末裔として。

居住していたようで、しかし。

外来の文化を受け入れず、山伝いにそこかしこに散って行った、というのが、関東一円に広がる千鹿頭神社から。

うかがい知れる、というね。

福島まで広がっているようで、なんだけど、結果、融合していくことになる。

今でも似たような現象は、ありだね、一番わかりやすいのが、外来のスマホかな。

俺は、そんなもの、使うか、男は黙ってガラケーだ、なんてのは、あんまり、言われないかも、だけど。

ほら、電車の中でスマホの画面を見ている若い者を見て、本当に、日本も困った国になっちゃった、なんていう。

嘆き節が標準になっちゃってるような御仁、というか、思考回路をお持ちの方、よく見かけるでしょ。

あれは、まさに、山伝いに散って行った、ちかと神、まんま、って感じだね。

しかし、なぜ、こんなこと、書いてるんだろうね。

どこから、この関心はやってくるのか。

なんてこと、始めたら、きりがないか。

いずれにしても、蒲原から始まった旅は、当分、終わりそうもない。

すでに書いたかも、いや、書いてないかも、だけど、蒲原(かんばら)というのは、シャンバラ、だ。

というのが、ずいぶん前に清水を訪れた超能力者の弁でもあり。

あながち、それも、外れてはいない、というような、そんな予感もしているわけで。

そもそも、全世界に残るオーパーツね、中には、まがい物もあるんだろうけど、例えば、ピラミッドにしても。

どうやったらあんな構造物ができるんだ、ってくらいのものなんで、この文明の前には、違った文明が。

あったかも、というのはありだよね。

ということで、本日のブログ、終了します。

 

 

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車椅子に座り、平行棒を伝い歩きし、次は。

2016年10月25日 | Weblog

歩行器で歩きましょうか、というのが。

昨日の母親の現況、といったところで。

このところ、母親日記、みたいだけど。

毎日が、新しく、部屋も映って、スカイラウンジで、だけど。

暑いからカーテン下ろして、と身も蓋もないこと言うんだよ、というのは。

ちょうど、その時間、付き添ってくれていたおばの弁で。

リハビリに入る前は、帰る、帰る、というようなネガティブなモードで。

そこへ到着した僕が、それはこれこれこうでできない、ということを、ノートに書いて伝え。

たという気に、こちらはなっているんだけど、結果、通じず。

半ばふて腐れて、寝るからいいよ、という次第だったのが、リハビリのお姉さん、ま、理学療法士。

という方が来ると、瞬間に変化し、まさに、変幻自在の人間の原点、みたいな風情でね。

表題のごとき顛末だったのでした。

その後、夕方、妻が行ったときには、すっかり、元のモードに戻ってしまったのか、車で来たなら乗せてって。

というわけだ。

当方、夜は、某大手さんの役員会で、二次会まで。

大手さんは、なんだかんだと言いながら、リクルートがうまくいっている、というのか、採用計画が。

で、新陳代謝が鮮明で。

早い話が、若返り、世代交代が進む中、こちらはこちらで、年嵩だけ増えていって、という体たらく。

ということを実感もするんだけど、そこはそれ、亀の甲より年の功、だっけ。

そんな具合に、時は過ぎ、最終前の電車内。

古くからの知り合いの女史にお会いし、こちらは、悪魔のトリルを聴いていたイヤホンを外し、話が始まった。

401Kのセミナーで、東京からの帰りだそうで、いろいろとご教示いただき。

そのうちに、首にかけられたペンダントが、クロスで。

つまり、十字架だね。

受洗するんです、というわけだ。

詳しい仕組みはわからないけど、神との契約を結ぶ、という言い方になるのか。

そりゃ、いろいろとご苦労されてきたんだろう。

なんとか瞑想というミャンマーだったか、チベットだったか、そんなのも、何年かやってきて。

というんだよね。

にしても、以前と比べて穏やかになっていた、その雰囲気から、通り過ぎてきた道のりが、感じられもし。

という時間を、清水駅までの、ほんの少しの間、過ごしたのでした。

今朝はまた、母親ネタに戻ると、病院のケアマネさんにお会いし、この先の過ごし方についてのご意見をお聞きし。

ということでね。

まわりを見渡せば、そんな話に満ち溢れ、建物も働く人も、多くがそちらの方向へ転換していて。

深刻な顔をしながらの、人口減少が、限界集落が、成長率が、などなど、気がつけば。

時候の挨拶のような、ね。

ところが、人類初のテーマに立ち向かっている、とも言えて。

中国でも、ジェットコースターのような、急転直下の人口減、なんてのも、何回も繰り返してはきたようだけど。

それは、戦乱で焼け野原、統治が聞かず、農耕生産ができない、というような事情だったんだろうから、ちょっと。

わが列島で、今起こっていることとは違い。

なので、人類を代表して、このテーマを受け止め、受け入れ、生きていく。

くらいの気概で、いきますか。

このところ、気に入って、気になってるのが、老子の。

大木の話、他の木が切り倒されたのに、どうして、この大木はそうならないのですか。

と聞くと、あれは、大きいだけで、何の役にも立たないんだ。

枝は曲がり、ふしくれ立ち、家具も何も、作ることはできず、と。

それを聞いた老子が、弟子に言う。

人間もあのように生きなきゃいけない、だから、暑さの夏の木陰もでき、鳥も虫も寄ってくる。

くらいの話だったか、無用の用、とでも言ったか。

俺が俺が、あたしがあたしが、がデフォみたいな世の中には、ちょうどいい話と思えるので、もう少し。

正確に覚えておきます、そのうち、たぶん、きっと。

このところ、書きたいことはたくさんあるような気もするんだけど、さて、この前に座ると、出てこない。

相変わらず、パガニーニとタルティーニを聴いている、というのは、たしかなことで。

アマゾンのプライムミュージックとyoutubeからclipboxと言うのが、僕の日常です。

 

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犬が歩けば棒に当たり、さて人間が歩いたら

2016年10月24日 | Weblog

というわけで、東海道ウォーク。

やっぱり、コテコテのジモッティの方に解説いただきながらの道歩きは。

楽しいもので。

いろんな発見がある。

コテコテの、ということは、学説的に曖昧なものは、どうにかして地元誘導、というかね。

まず、郷土愛ありき、の学説解釈。

そこが、また、楽しくて。

だって、記録に残されてないでしょ、この解釈も成り立つでしょ、ってなもんで。

とはいえ、山部赤人の、

田子の浦に うち出でてみれば 白砂の 

 富士の高嶺に 雪は降りつつ

で有名な、田子の浦は、今の、富士市ではなく、蒲原と興津の間にあった、というのが、学者の間では、通説になった。

というようなこともあるようで。

あるいは、通説としては、伊能忠敬が、初めて日本地図を作り上げた、ということになっているけど、実はですね。

と。

それより、50年前に描かれた日本地図も、渡邊家の蔵には残されていて、その方の名前は、忘れましたが。

もうね、にわか民俗学者みたいな風情で、蒲原から由比までを歩いたのでした。

ボランティアのガイドさんに案内していただきながらの旅は、楽しかった。

やめられません、止められません、って感じだな。

この式の旅は、若狭への旅でも体験済みだったんだけど。

どうやら、蒲原から富士川沿いに北上するコースには、コアな、遺物が残されているようで。

なんとか、そんなツアーを企画したいものであります。

上記、渡邊家の当主、ボランティアガイドさんの頭目、当の渡邊さんからのキーワードが。

大生部多(おおふべのおお)、白髭神社、星山の倭文神社、縄文と大和政権、おしゃもじさん、ミシャグチ、などなど。

まだまだ、数え上げたらきりがないけれど。

おおふべのおお、という人ね、邪教を広めたかどで、富士川のほとりで、秦河勝(はたのかわかつ)という。

たしか、聖徳太子の右腕のような人だったと思うけど、彼に、斬り殺された。

と、古事記だったか、日本書記だったかに、あって。

その彼、というのか、彼らの勢力は、聖徳太子一族が滅ぼされた頃には、大和、つまり、奈良だね、そこまでの。

勢力となっていた、なんて、渡邊さんはおっしゃっていた。

って、だからなに?ってなもんですね。

ま、いいか。

この虫を拝めばみんな幸せになれるよ、という邪教を広めた、というのが、おおふべのおお、の罪科、なんだけど。

くだんの渡邊さんは、その虫は、蚕だろう、と自説を述べられ、なるほど、それもありか、とね。

彼の奥方、渡邊家の蔵で、さまざま、解説くださったんだけど、もうね、好き好きオーラ、出まくりで。

もともとが、木屋、つまり、材木屋さんか、で、ブログも書かれているようだ。

木屋江戸資料館、というサイト、後で、行ってみるか。

帰りがけ、木屋江戸日記、という後当家のご先祖の書かれた日記をまとめた冊子も、300円で買い求め、その奥書には。

彼女の名前が書かれていてね。

由比の宿を説明くださった御仁は、土木関係の仕事一筋で、定年後、いろいろと研究を始められた方で。

時折出てくる、「と書かれたものが残されている」、というような言葉が、印象的な。

そんな御仁で、好印象、と書きつけておきたい、そんな方でした。

というわけで、次なるツアーが始まっちゃった感、満載の、東海道ウォーク第一日目、終了です。

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お天道様が見ているからね

2016年10月23日 | Weblog

昨日の院内風景、といったところで。

朝方は、手にはめられた手袋のようなものが、邪魔で邪魔で、なんでこうなるの。

調の、繰り言めいたものから始まっていたんだけど。

お昼近くになり、ご家族の方がいらっしゃれば、ということで、それも外され。

午後に二度目の見舞いに行った時には、いとこたちも来てくれていて。

絶好調の、ほとんど一人舞台の喋りで、その時に度々出てきたのが。

表題で。

二人のいとこたちに、あれやこれやと独演会のような。

ご託宣。

日頃、時候の挨拶程度の会話しかなかっただろう、いとこたちも、面食らっているような。

喜んでいるような時間が流れ。

実は、昨日は、宮田律先生の、イスラムについての講義があったんだけど、そんなこんなで。

そちらはスルーさせていただいて。

夜の部に突入、というわけで。

いつものお蕎麦やさんから始まって、わが山の師匠の奏でるキーボードを堪能したのでした。

妻も初めて初めて、といたく気に入り、もちろん、妹も、さらに。

同行の榛原の御仁も、かなり深く感心していて、もともと、バンドでボーカルをやっていた彼のようで。

そのうち、他の方も交え、何らかの展開となるのかも、という気配濃厚。

師匠のキーボードも、聞きしにまさるもので、変な言い方だけど、安心して感心しながら聴いていた。

そのうち、悪魔のトリルでも、演じてもらいたいものでありますが。

それらの間隙を縫って、ヘアーカット。

いつもの大将の、ご子息に選手交代なって、何回めになるのか。

カットが若返ったようで、カーテンのお客様をご紹介いただいた、馳走さんのおかみさんに。

褒められてしまった。

若返りの秘訣、とかの言葉があるけれど、なんだろう。

哀愁、とも違うし、哀惜、とも違うし、そうそう。

その場で、このブログのコメンテーターのtoshさんの話題になり、僕がお店に顔を出すときには。

かなりの確率で、なんらかの形で、かの御仁が、登場しているようで。

不思議だね、という空気の中、前世で近しい何か、があるんだよ、というようなことを、大将がつぶやいてもいて。

なんて情景もあったんだった。

噂をすれば影、とかね、わが列島には、そんな言葉がそこここに、ちりばめられていて。

ネトウヨ、っぽく言うんじゃないけど、ニッポン、スゴイ的な、そんな気分になる。

くしゃみをした時、誰かが噂してるな、なんて言い回しとかね。

微妙な、科学的に証明される、という世界とは違う、そんな世界に慣れ親しんできてもいて。

言葉の考古学、ってわけだ。

現代に使われている言葉の中に、古い古い時代からの名残が、残されてもいて。

何回も書いたかも、だけど、元気?、なんて言葉ね、あれなんか、とてつもなく深い言葉かもしれず。

なにせ、大元からの気に気がついているかい?みたいな投げかけを、年がら年中、日常茶飯事として。

使い倒してるわけで、この列島の歴史の奥行きを指し示してもいるわけだ。

そんな日曜日、さて、元気に東海道ウォークといきますか。

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インドの聖者が富士の裾野に集まっているらしい

2016年10月22日 | Weblog

昨日、伊勢の御仁との電話のやりとりで。

そんな情報を手に入れ、サイトをちょっとばかり、覗いてみたら。

どうやら、長渕剛の、10万人コンサートの会場のようで。

ふもとっぱら、の文字が出てきていた。

そこを全部貸切にして、明日、23日の、なんていうんだろう、祈り、なのか。

エネルギーの調整、とでもいうのか。

そんなイベントが、昨日から始まっているらしい。

インド聖者、っていうと、いかにも、って感じもするけどね。

明日の朝、7時から8時までのメディテーション、ま、瞑想だね、があるようで。

ちょっと走れば、の距離なんで、行ってみようか、なんて、電話での会話ではあったけれど。

よくよく考えてみれば、明日は、東海道を歩くイベントなのでした。

なので、その時間帯は、リモートビューイングならぬ、リモートメディテーション、と決め込むか、と。

朝一番の電車に乗って、彼の地、つまり、蒲原ですが、そこへたどり着き、どこか。

オームと勘違いされないような場所を見つけて、そこで、1時間、やってみるか、という算段ですが。

昨日の母親の手術は、無事終了し、妹も東京から来てくれて、おばたちもね。

母親自体は、なんでわたしが縛り付けられなきゃならないの、という気分もある中、その外側では。

なかなかに、華やいでもいた時間だったのでしたが。

ちょっと、疎遠にもなっていた、おじの子供、つまり、わがいとことも、彼の病室で話もでき。

昨日もアップした、おじの三男坊も、めでたく帰還なって、それなりの、小さな幸せを手にし。

なんてことを眺めながら、おばたちと、怪我の功名、なんて言葉で、語り合ったものでした。

いわゆる認知症、手術、入院、看護婦さんの処置、というキーワードをつなげてみて。

母親の対応、反応、感情の揺れ動き、それに対する外側の我々、を俯瞰してみると、人間、という存在の仕方の。

奥深さ、とでもいいましょうか、素晴らしさ、とでもいいましょうか、そんなことも感じつつ。

の時間が流れてもいて。

入院なんていうのは、ある意味、ネガティブな捉え方にもなるけれど、それにまつわるさまざまな関係が。

新規に始まる、という言い方もでき。

入院、つまり、病院に入る、ということだけど、学校へ入る、とか、会社へ入る、とか、入滅、なんてのは。

それこそ、黄泉の国へ入る、わけで。

新しいことではあるね。

そういった出来事は、こちら側を新しくもしてくれて。

そこにまた、新たな出会いが生まれる、わけだ。

ところで、鳥取で、地震があったね。

ちょうど、その時、7階の待合室、病院のね、妻とおばたちと、手術から帰ってきた母親の処置の終わるのを。

待っていた時で。

僕は居眠りをしていて、その揺れで起こされた。

その後、ニュース番組を見ていて、気の毒に思ったのは、東大やら東工大の地震学の教授方のコメント。

一応、学、とついていて、それなりに切磋琢磨もされているんだろうけど、なにせ、相手は大自然。

大宇宙、大大地、ってわけで、わからないことの方が多い中、これからどうなりますか風の質問を投げかけられてね。

困ってはいないだろうけど、口をついて出てくる言葉は、煎じ詰めれば、気をつけましょう、ってことしかなく。

関東大震災で、大地が揺れに揺れ、家屋も潰れそうになる中、自分の予想が当たった、という学者さんが。

ガッツポーズした、というようなシーンが、吉村昭の小説に出ていたけど、それが全てを語っている。

とも言える、地震予知、ってやつで。

なので、気をつけましょうね、って、学者さんと同じコメントになっちゃうね。

今宵は、山の師匠の、シャーク団というバンドのイベントがあり、妻と妹と、榛原の御仁で出かけるのだけど。

それが、9時からなんだよね。

僕の寝る時間だけど、そこはそれ、時間ってのは、あってないようなもので、だから、明日の東海道ウォークのためにも。

飲みすぎないようにします。

というわけで、今日という日が始まります。

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