まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

いよいよの大晦日に母帰る

2016年12月31日 | Weblog

父帰る、ならぬ母帰る、ってわけだ。

今朝は、この後、リハビリ病院へ、母親を迎えに行くんだけど。

年の瀬も押し迫っての、一時帰宅。

お正月を自宅で過ごせるんだ。

10月の半ば頃に、箱根のスカイウォークで、僕の目の前でこけて、大腿骨頸部骨折。

手術もし、慣れない環境で、精神的にも不安定な日々を乗り越え、さらに、リハビリを。

なんのためにやっているのか、ここにいるのか、というのか、定かならず。

という中、今や、先端のサービス、とも言える、リハビリに関わる方々の尽力で、お正月を家で迎えられる。

というのが、とても、素晴らしいことで。

年の瀬のニュース番組を見ていると、こんなことやあんなこと、ひどい世の中だよね、不安な社会だよね。

みたいな感想を導き出せちゃいそうな、そんなのが満載ではあるけれど。

ほら、ここに、目立たないけど、こんなに素敵な物語があるんですよ、ってのの証明でもあり。

リハビリ担当の理学療法士さんや、自宅へ手すりをつけてくださった業者さんや、ケアマネージャーの方とかね。

もうね、優しさに満ち溢れた、そうした方々が、活躍できる仕組みというのに、感心もし、感謝もし。

という月日を過ごすことができたことは、とても、大きなことで。

ますますね、事業を続けることの、意義や意味、価値をいうものを、明確にさせていただいた。

そんな体験でもあるのです。

なので、年末から年明けにかけてやること、と銘打って、わがノートに書かれたものは。

ヴィジョン、と。

カタカナであることが、ちょっと、不具合でもあるけれど。

本人すら気がつかず、水底に眠るかのような力、パワー、才能、能力、をね、日の本に、日の下に、現出させる。

そんな場を創る、ってことに、腐心する、普請する、って算段だ。

ところで、僕の傍らには、お年賀がいっぱい詰まった袋が置かれていて。

年の開けるのを待っているのです。

カーテン生地を利用したランチョンマットを、和紙とあわじの水引で装い、と。

これ、僕とコーディネーターさんとのコラボ、なんだけど、こんな具合のコラボがね。

年明けには、さまざまなところで始まる、という予感です。

むしろ、そんなコラボが、人生そのものとも言えるし。

世に、ゆとり世代、と言われる高校生の起業家が、オレらは前の世代のように、競争もしてこなかったから。

誰が優れていて、云々よりも、自分たちのやりたいことを実現するために、自分にない部分は、持っている人を探し。

それを補い、という発想です、なんて、いつだったか、語っていて。

それ、ビンゴだな、と。

この間、テレビに出てきた、中島くんといったか、11歳の哲学者、という少年だけど、彼も、世の中には。

チャンスが溢れている、今日しかない、なんて言ってて。

釈迦かイエスの再来か、くらいの面持ちで眺めていたんだけど、もっとも、あなたがブッダ、なんておっしゃる方もいるわけで。

すべての方が、そんなことで。

比較の世界を離れ、人間には原罪があるのです、なんていうお為ごかしを、そう、現在があるのです、と言い換え。

たらね、そこかしこに転がってる話でもあるんだけどね。

さて、大晦(おおつごもり)には、どんなミラクルが待っているのでしょうか。

 

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また来た閃輝暗点

2016年12月30日 | Weblog

昨日、ブログを書き終わった後だったか。

いきなり、マックのモニターがおかしい。

ような感じ、右側の目に、何かが映る。

ギザギザの階段のような光、とでも言うか。

そんなものが映り込み、徐々に、あれか、と、つまり。

表題のようなね。

また、何かの電流が、脳内に流れ込み、ってわけだ。

わけではあるけど、そこはそれ、一体、どうなったんだろう、と言う感想も首をもたげ。

ひょっとしたら、網膜剥離みたいなものか、なんて言う、不安、恐れの小さなものがやって来て。

なので、例の、セルフォを持ち出し、伺いを立ててみた。

わが脳内の、小脳の上だったか、基底核が、指の力加減を司るそうだからね、

この状況はいいですか?なんてね。

明らかに、その質問には、力が入る、と言う状態で、答えをくださり。

なるほど、と。

しかし、ここがまた、脳使いにもたれかかる習性の持ち主だから、なぜ、なぜ、そうなの?

と言うね。

いずれにしても、閃輝暗点は程なく終了。

これね、なぜ?と書いたけど、たぶん、だけど、きっと、でもある、まあるくなってのお月見に。

関係しているかな、と。

同じ月を観る、観月の宴につながるような、そんな予感が。

と言うのも、古代の共同体社会では、そこに暮らす女性たちは、満月の日に一斉に月経が始まった。

と言う記録があるらしい。

天体の運行と人間の生理的な周期が相関関係にあった、と言うことだそうで。

そのあたりは、男性にはとても窺い知れぬことで、ここでも、たぶん、きっと、だけど。

それゆえに、今に至る父権中心の社会は、コンプレックスに満ちた、人工的な仕組みになってしまっている。

と言う解釈も成り立ちそうだ。

なにせ、文学者のような生物学者、福岡伸一さんは、ベタに、「できそこないの男たち」だっけ。

そんな本、書いてるしね。

つまり、人類のデフォルトは、女性であり、男性は、そのできそこないだった、と言うね。

決して、ユダヤ教由来の、あるいは、キリスト教でもいいけど、あの神話、アダムの骨からイブが生まれ。

みたいなのね、あれ、真逆で、と言うのが、彼の論なんだよね。

この時代、つまり、父権優位な、ね。

政治の世界では、女性活躍、みたいな言葉、踊るんだけど、それを踊らせているのが、女性へのコンプレックスに満ちた。

男性たち、ってのが、皮肉なもので。

事業も交友関係も、だけど、劣等意識からは、いいもの、生まれないからね。

後付けで、ああだこうだ、と言う議論は成り立っているように見えてもね。

とはいえ、そこかしこに、澎湃と女性性の復活を実践しつつある姿が、見え隠れもし。

草食系男子、なんてのも、それらの魁である、とも言える。

何千年かの呪縛から逃れ始めた、勇気ある人々が、巷に散見されだし、蛮勇でない勇気。

の姿がね。

年の終わりには、なにか、本質的なことをね、語りたくなるものだ。

日頃、慌ただしく、時間の流れに振り回されているからね。

と言うわけで、閃輝暗点は古代のお月見への魁なのです。

 

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もう忘年会は最後だろう

2016年12月29日 | Weblog

と思うけれどね。

昨夜の、わが社の忘年会、賑やかに挙行。

これで、仕事は納まった。

のだけれど、今日も、二、三件の現場は動き、正確には、明日からが。

年末年始のお休み、となるわけだ。

一年間お世話になりました、と挨拶させていただいたんだけど、まさに。

文字通りで。

一人では何もできず、とは言え、大勢いればそれでいいか、とも言えず。

一人一人が集まった集団が、有機的に、というのか、それぞれがそれぞれの思いを持ちつつ。

ある方向へ向かう、という。

そんなことの中に、事業というものの面白さがあり、人生そのものの面白さでもあり。

一人では叶え難いことを実現していく、というのが、そもそもの、会社などと呼ばれる。

生き物のなりたちで。

それを、数値で表したり、ややこしい言葉で飾ったり、ということは、実のところ、どうでもいいこと。

なんて気もする。

新しいカレンダーに架け替えられ、新しい年を待つ。

のだけれど、まわりの方々が、口々に、なんだか、年の瀬のような気がしない、という言葉を。

聞いていると、ひょっとしたら、と思ってしまう。

新年も旧年も、そもそも、ハナから存在していたわけではなく、人類の長い営為の中から、生まれてきたもので。

なんとなくのメリハリもつき、ということだけど。

それがね、次なるステップに向かいつつある、とも言えるか。

それとも、子どもたちは、もういくつ寝るとお正月、というような心境を、違った歌に乗せて歌っているのか。

どちらでもいいか。

こうして、納まった仕事場にいると、静かな気持ちになる。

明鏡止水などと書いたら、大仰なものになっちゃいそうだけど、もの皆が。

静かに、清朗に、という気分がね、もたげて来るから、これはこれで、不思議なものだ。

仕事を納めた多くの方々が、静かに眠っているのかもしれないな。

眠りについた街、って、こんなことを言うのかも。

そうだ、昨夜の二次会では、久々に、尾崎豊の「卒業」を歌ったんだった。

夜の校舎 窓ガラスを壊してまわった、ってやつね。

来春には、18歳の新入社員を迎えるのだけど、おまえさ、18歳の頃のココロ、覚えてるか?

と目の前の44歳に問いかけた。

あの頃、嫌いだったオトナ、やってるんじゃない?

なんて調子でね。

プロのベーシストの彼、素直に、ほんとだね、というような顔で大受けしていた。

ので、調子に乗って、「卒業」を歌い、マイクを、もう一人、彼は45歳くらいか、まんま、あの頃。

バイクを乗り回し、いわゆる暴走族の頭をやっていたのか、その彼に渡し。

これさ、昔、うちの会社にいた伊勢の男が、よく歌っていたんだ、とね。

そんな中、痛い足を引きずりつつ、わが妻が、北の漁場はよー、なんてのやら、エリー、マイラブ、ソースイート。

なんてのも歌い、29歳の浜松の御仁は、長男坊と、なんとかと言う曲を歌い、と言う具合に。

二次会も盛り上がり、夜は更け、古くからの知り合いに、彼、よんどころなき事情でタクシーに乗っているんで。

多少の無理をいいつつ、自宅までのわが帰還におつきあい願った。

と言うことで、最後の忘年会が御開きとなった次第です。

 

 

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ミッションインポッシブル、無事終了!

2016年12月28日 | Weblog

昏れなずむ歳を傍目に、富士宮、富士、大井川と三箇所を経巡り。

無事、表題のごとくで。

と書いても、なんのことやら、でしょうが。

人生初の、役員選考委員長という役割を仰せつかり、なんとか行脚を終えたわけだ。

んだけど、人生も、事業も、先輩諸氏から伺うお話は、思わず、身繕いし直すようなもので。

深い。

肌身に染み通るような、言葉の数々を体験させていただいた。

世に逸材は、星の数ほど、という思いに至る、という感じでね。

もっとも、僕の観点からしたら、功なり名遂げる、という価値観は、どうでもいいものだけどね。

これ、ここだけの話ですが。

だって、生きてるだけで丸儲け、ということだから。

にしても、同じような人生の時間を、振り返ってみれば、刻苦奮励して生きてこられた、という姿には。

感銘を受けることは間違いなく。

おかげさまで、いい日を過ごすことができた。

有難やー有難や、ってわけだ。

さて、今日は仕事納め。

カーテン工房へも午後に顔出すことになるんだけど、糠漬け師匠のご主人のところのお塩でも持って行こうかな。

いつも携帯している、セルフォ、セルフオーリングテストの道具を持ち出し。

四方を塩で囲い、その真ん中に立って、みんなに、力の感覚を体感してもらおうか、と。

新しい年を迎えるにふさわしい、という気がする。

なにせ、今いるこの場所の四方には、塩で清めた勾玉が置かれているしね。

このオーリングテストね、知らない方が多くて、意外な感じがしている。

どうも、この時代、というのか、見える世界、根拠のある世界を全力で追い求め、という気風が蔓延している。

のかも。

しかも、それは自分がする、というね。

密かに目論んでいる、お月見ね、ってご存知なかったっけ。

縄文人がやったのかも、というまあるくなって、同じ月を見る、っての。

今でも、その名残、お月見の宴、ってのが、あるけれど、あれとは微妙に違って。

同じ月を見る、文字どおり、同じ月、をね。

言葉では、同じ月、と表現しても、その実、各人各様に見える月を眺めている、という。

縄文人からしたら、間抜けなお月見が現代のものだけど、まんま同じの月を見る。

kan.さんという方が話していることによると、それには、足の、ふくらはぎじゃなく、鎖骨じゃなく。

くるぶしか、そこを毎日、お風呂に入るときでもいいから、撫でるといいよ、というんだね。

そこは、今では忘れられているけれど、カラダの中でとても大切な部分です、と。

根拠を求めたがる現代人たる、このあたくしめなので、なかなか、その言い分に承服するには骨が折れるけれど。

いつの日か、そんな日も来るのかも、と。

って、言ってる時点で、そんな日は来ないうよね、だって、明日は永遠に訪れず、だもん。

よし、決めた、この今、この瞬間から、くるぶしを使って月をみんなで見る、とね。

というわけで、今年を終わらせるとしますか。

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ひたひたと年の暮れが迫ってきている

2016年12月27日 | Weblog

明日は、永遠に訪れず、と豪語している割には。

この時期、表題のごとき気分にもなり。

なにせ、もっと仕事したいのに、大方が御用納めで、という次第で。

なんて書くと、ワーカホリックみたいだけどね。

もっとも、年中無休、年中有休なんてことものたまっているんだから、そう変わらないか。

仕事、と書くからだけど、生きる、とでも言い変えてみようか。

吉田松陰の、やむにやまれぬ大和魂、とか、芭蕉の。

そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず、と。

そんな気分か。

たまに、道など歩いていて、神ダァーリ、という言葉を思い出すことがある。

南島、例えば、加計呂麻島とかか、正式な巫女さんになるのに、だったか、なると、だったか。

神に使役されるように、そこかしこを歩き回らされるそうで。

野をいく乞食のように、さまようように駆けずり回り、と。

受動態、みたいだけど、そう見えて、実のところ、ある意味、自動運転みたいなものでもあるかも。

仏教用語を使えば、他力本願、とでも言えるか。

自分がしているようで、その実、なにかに、いってみれば、サムシンググレートのようなものに動かされている。

そのあたりを、命のエネルギー、と言ったり、大元からの力、と言ったり、さまざまあるんだろうけど。

その力を、減衰させるのが、過去への執着、とも言い換えられるかな。

まんま、出るもの所かまわず、風に、放出するに任せれば、そりゃ、とんでもない出来事、事件になるはずで。

昨日、ある銀行の方とお話していて、トップが迷走しているのかも、という感想を持ち、それをそのまんま、伝えた。

シュリンクしたサヤ、早い話が、低金利の中での鞘抜き、というビジネスモデルが、短兵急に。

なんとかファンドとかいうのへ投資せざるを得ず、なのだけど、最前線の営業マンは、あれもこれも、と。

稼ぐ場所を探し求め、というね。

結果、なんのために仕事をしているのか、が、見えなくなり、とも言えて。

人はパンのみに生くるにあらず、ってことがね。

イエスキリストから2016年も経っているのに、相変わらず、イエスは、同じことを伝えなければならず、という絵柄かな。

銀行に限らず、ってことだけど。

そうそう、昨夜は、全体ミーティングの後、個人ミーティング。

この11月が半期の締めになっているんだけど、稼ぎ頭の御仁と、じっくりとさまざま、話を交わした。

現場、やってるね、というのが、率直な感想で、話す内容が、リアルなんだよね。

もちろん、現場の話ばかりではなく、この間の、鹿島アントラーズの健闘とレッドカードを出そうとして引っ込めた。

あの主審のメンタルについても、ね。

世界の王者、レアル・マドリードは勝たなければならない、という予定調和の世界を、壊してしまうかもしれない。

ということに対するたじろぎ。

わが読売ジャイアンツは永久に不滅です、という長嶋茂雄の引退試合でのコメントにあい通じ。

保守本流、というような政治の言葉にも、あるいは、トランプの言動に眉をひそめるエスタブリッシュメントという構図にも。

なんてところにまでは、彼との話は、膨らんで言ったわけではなかったけど。

なにせ、彼、アーセナルの大ファンで、たくさん稼いで、アーセナルの試合を見に行こうよ、というのが、合言葉でもあり。

そうだ、そのうち、社内旅行は、グレートブリテンです、ってことになるかも、だな。

さて、今日は、昨日変更になった、あるミッション実行の日、というわけで。

一日中、出っ放し。

インポッシブルではないけどね、傍目には、ミッションインポッシブルみたいにも写りそうだけど。

というわけで、残り少なくなった本日も、雨の向こうにおひさまは煌々と照っているのです。

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暮れゆく歳は静かなのです。

2016年12月26日 | Weblog

たしかに、静かな朝。

なんだけど、内奥では、実は、夕べ。

昨日もアップした、白川静さんの入門、って新書をパラパラ読みしていて。

さまざまなテーマが訪れ、例えば、一休さん。

「狂雲集」という詩偈集が残されているようだけど、そこには、単なる厳しい道徳、道を説く君、ではなく。

狂おしいまでの、理性の対岸にあるデモーニッシュなものを披瀝している、とかね。

白川静さんは、狂の問題は、民族の精神の振幅の問題でもある、なんて書いてるし。

あるいは、石牟礼道子。

水俣病について書いた、「苦海浄土」が有名だけど、「不知火」という能も書いているらしく。

水俣病患者さんと東京で、座り込みをしている時、頭上から降りてくる言葉が、情報のような言葉ばかりで。

その違和感から逃れるようにポケットの中の「花伝書」の世阿弥の言葉に入って行った、というんだね。

その結果が、「不知火」という能だそうで。

例えば、水俣のジモッティの方言と、東京で降りてくる情報のような言葉。

水俣の患者さんたちは、祈る。

それは、自らの苦についてでもあるし、その原因となったチッソの会社の味わっている苦についても、ということやらね。

このあたりについては、マブダチくみちゃんに、お酒飲みながらきいてみたいところだな。

聞く、というのは、立ち位置があんまりよくないけどね。

どうやらこのままいくと、年末年始のお休みは、白川静特集にでもなりそうな気配濃厚、だな。

とはいえ、現実的には、大晦日に、母親が帰宅、とあいなり、というわけで。

どないなりますやら、ではあるけれど。

今日明日の二日間は、あるミッションを仰せつかっており、その最後の仕上げ作業が残ってもいて。

最終の御用納め、28日には、二つの会社を納める、ということでもあり、そこに。

一休さんの、「狂雲集」の入り込める余地はあるのか、なんてことも、思ったりもするけど。

その前に、今日は、全体ミーティングだ。

というわけで、本日もわが天気晴朗なり、と。

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「白川静入門」という小山鉄朗さんの本を買った

2016年12月25日 | Weblog

断捨離ブームなのに、本を買うというマイブームは一向にさらず。

積ん読の高さは、万里の長城とはいかないけど、気分は、そんな感じか。

積み重なっていく、というのが、実体で。

著者の小山鉄朗さんという方は、共同通信社で文化を担当されていた方だそうで、ずっと。

白川さんを追いかけていて、子供向けの本なども何冊か、書かれている。

ので、読みやすい。

し、白川文字学への畏敬、というのか、愛、というのか、そんなものが、溢れていて。

手に取っていても気持ちがいい。

これは最新刊なんだけど、旧刊は、台湾でも翻訳されているようで、その翻訳の係の女性が言うには。

中国本土でも、白川さんは読まれている、大学の授業で教えられているそうで。

同じ国字を持つ国同士が、今や、仲が悪いことになっているんだよね。

近親憎悪、ってやつかも、なんて書くと、どこぞから、明らかに、民族的に違いますから、くらいの。

ツッコミが聞こえてきそうだけどね。

彼女いわく、漢字は中国人の文化にとって大切なもの、中国人の学者、日本人の学者というのは関係ありません。

学問なんですから、とね。

学問というものの、コスモポリタン的な、そんな気配濃厚で、はやりの反知性主義に対する。

いい立ち位置です。

なにはともあれ、面白いおもちゃ、と言っては失礼だけど、手に入れた感、満載です。

昨日は、それこそ、事務所近くにできた台湾料理のお店で、社員さんと、ランチ。

点心、というのか、小籠包が美味しくてね。

小さなお店だけど、繁盛するだろうな、という予感のするお店で。

このところ、いいお店に出会うんだよね、これも人徳人徳、ってことにしておきますか。

結婚したての彼とは、個人ミーティング、一時間一本勝負、ってのが、9時からお昼までと相成り。

さまざまな情報交換をしたわけだ。

午後の遅くには、自宅へカーテン工房の社員さんがきてくれて、母親の部屋のカーテン選び。

さすがにコーディネーター、選択までのプロセスが手際よくて、決めてるこちらが気持ちよくなる。

まさに、モノを売るんじゃなく、人を売る、って感じ。

これからの展開が、さらに面白く、楽しくなりそうな時間だった。

大晦日に帰ってきて、二日に一旦、病院へ戻り、松の開けるくらいに、晴れての退院。

という運びになりそうで、いずれにしても、めでたい。

昨日も、埼玉から帰還のいとこたちが、子供を連れての見舞いだったかな。

なんだけど、当の本人は、すぐさま忘却の彼方へ、というわけで、その前にも。

おばといとこが行ってくれたんだけど、何日かして、いとこに会って、それが判明する。

というわけで。

このタイムラグが、また、楽しくもあり、忝くもあり。

というような師走、残りわずかですよ、早くお買い求めくださいませ、って日曜日だ。

 

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今朝は瞑想を一時間以上やってしまった

2016年12月24日 | Weblog

これって、単に、寝てただけでしょ。

なんて、ツッコミ入りそうだけど。

iPhoneからの終了の音が、聞こえなかった。

そのくらい、深く入ってしまった、とも言えて、物は言いようです。

おかげさまで、昨夜聞こしめしたお酒は、すっかり抜けて、爽快なイブの朝。

全世界で、多くの人が、さまざまなイブを過ごすんだろうな。

イエスキリストの誕生を、わがことのように感じながら過ごす一日になりそうだ、僕の場合。

なぜか、ふと、そんな気分になった。

自分の中のイエス、というか、イエスである自分、というか。

お釈迦様でもそうだけど。

昨日もアップしたんだけど、大伽藍とか、大道徳、大経文などなどで、伝えようとして、なかなか、伝えきれない。

あるいは、こちらが受け止めきれない、それだけの境地に至らない、それ、についてね。

静かに味わってみたい、という今日のイブだな。

そうそう、昨日、学校のテストで0点を取ったら賞賛される、そんなじゃなきゃ、どうにもならない。

というような話を投げかけ、妻に大受けだった。

そのことを、実は、本日のテーマにしてみむ、と思っていたんだった、のだけれど、思い出せなくて。

の表題、だったのです。

それは、スマップの解散についてのワイドショー見ていて、東京新聞の伝言板が、スマップファンに占領された。

というようなネタで、どれだけ、スマップからたくさんのものをいただいたか、苦しい時に心の糧になった。

という切々たる思いが吐露されたもので。

老子のなんとか、とか、孔子のあれこれが、とかのフレーズだと、なにか、高級文学っぽいけれど、ジャニーズの、芸能の、スマップじゃね。

という、独特な、高踏趣味のような、それ、フラットに見直そうよ、くらいの。

話で。

と書きつつ、それはそれでありつつ、しかし、例えば、太宰の言葉に、とか、村上春樹のなんとかの小説に。

救われた、ってのも、当然あるんで、こんな比較自体、無理があるのかね。

そう言えば、僕も、聖書のね、たぶん、マタイ伝かな。

その中の言葉に救われたことがあるんだ、若かりし頃。

それは、今日一日の悩みを悩め、というようなものだったな。

苦しみ、悩みが、もうね、未来永劫続くような気分でいた時、そうか、悩みは今日一日分だけで、いいんだ、と。

もっとも、今では、そんなのは、この瞬間だけでいいよ、と言えちゃうけどね。

それはともかく、そんな時もあった、って、誰かの歌みたいだけど。

何れにしても、高踏、高等、高級、低級、低脳、なんでもいいけど、人それぞれに、それぞれの生きる道でいいんだ。

生きていることに意味も、意義も、あるんだ、そう、イマル、生きてるだけで丸儲け。

by 明石家さんま、っていうようなことを、イエスの存在が示している、とも解釈でき。

そんなイブの朝、というわけです。

 

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神棚の榊が元気です

2016年12月23日 | Weblog

これがまた、驚くばかりで。

夏前、小芝神社の、なんのお祭りだったか、あるいは、宮司さんにリクエストしたんだったか。

事務所と自宅と、わが後輩の分、三束、いただいたんだった。

保険屋さんの後輩からは、すでに、ひと月以上前か、枯れちゃったので、また、お願いします。

というリクエストが届いているんだけども。

わが方は、一向に、枯れる気配なく、ますます、緑青々と、というわけだ。

宮司さんにお会いするたびに、そんな会話、するんだけどね。

いつでも言ってくださいよ、とおっしゃるんだけど、ありがとうございます。

と言いつつ、元気ですからね、と。

毎朝、水替えをし、その時に、ぬめりを取り、なんだけど、それが、愛でるに通じ。

かな、と、勝手に思っているんだけどね。

さらに、実は、内緒だけど、愛と光を、と瞑目しながら三度、つぶやく、称える。

ま、そういうわけで、never ending story、みたいな感じかな。

もちろん、命としては、枯死というような表現で、見えなくなってしまうけど、そりゃ。

見えない、ってだけで、to be continuedってことにすぎないかも。

今朝も、水替えしながら、つくづくね、榊に、たいしたもんだね、と囁いた、いや、呟いた。

evergreen、とでもいうのか、それが、場の循環ってやつを確認させてくれて。

アレヤコレヤのトラブル、諍い、悲しみなどなど、ありつつ、滞りなく循環しているな、というね。

そこへ行くと、滞りそのものが、表現としてはそうだけど、次のステップを踏んでいる証し、とも言えて。

すべて、起こることは、それなりに因があって果実となる、因果は巡る、ってことで。

どうもね、古来、仏教用語に毒されてきた、とでも解釈できるような歴史があって。

仏教というのか、宗教というのか、世を覆っている空気というのか。

極楽と地獄とかね、そんなもの存在しないのに、あたかも、おどろおどろしい実体としてある、なんて。

勘違いをさせるような類、その一方で、豪華絢爛な建造物によって、精神の内部を表しているかのような錯覚をね。

別に、宗教を腐しているんではないんだけど。

地獄極楽、因果応報、数え切れないくらいの用語の数々に、脅かされ、スカされ、自身を犠牲にし、みたいな。

ひとまず、その連鎖から解き放たれてみましょうか、というくらいで。

もちろん、そうなってきた理由はそれなりにあるんだろうけどね。

少なくとも、当方は、そんなことから、自由になろう、というわけだ。

このところ、急激に親しくなった御仁に、年上だけど、飲ませていただくのが、Glenfiddich。

グレンフィディック。

Glenというのは、谷間、という意味らしく、スコットランドの蒸留所がそこにあるそうで。

シングルモルトのウイスキー、ってわけだ。

かの地でも、シングルとブレンドってのがあるんだな、ということを知ったんだけど。

この谷間、というのから、玄牝(げんぴん)という老子の言葉が思い浮かび。

この玄、昨日のブログにもアップした、玄冬にも通じる、玄い、という言葉ね。

それに、牝、つまり、女性だ。

そこから、すべてのものが生み出され、というウタイのようだけど、ずっと以前に、この言葉に出会って。

よくわからなかったので、覚えているんだけど。

このお酒を、つまり、Glenfiddich21とか書いてあるスコッチをいただきながら、生バンドをバックに。

陽水と玉置浩二の、なんだっけ、男同士のデュエット曲、愛の終わりのハーモニー、だっけ、くだんの御仁がウラをとってくれて。

なにせ、合唱団の現役さんだからね。

僕は気持ちよく、メインを歌わせていただく、という極上の瞬間も味わいつつ、谷間=玄牝。

なんてこと、思ってもいた、という次第で。

昨日だったか、白川静botとでもいうのか、白川さんの名言をツイートする、ってのがあって。

そこに、混沌とカオスについての言葉もあったりして。

東洋の混沌、西洋のカオス、どちらも似たようなものだけど、微妙な違いについて書いてあるんだけど。

混沌は、目も口もない実体そのもの、カオスは、口を開いている真闇の虚ろな空間、というんだけど、わからないでしょ。

しかも、どうでもいいでしょ、くらいの話なんだけどね。

僕的には、谷間=玄牝=混沌、なんてつなげちゃおうかな、なんて妄想しているわけだ。

そこへ、玄冬でも混ぜれば、ついでに、Glenfiddichも混ぜちゃおうか。

ワイヤな感じ満載になりつつあるけど。

シングルモルトから谷間ブレンド、ってわけだ。

そんなわけで、わが榊が元気なのは、玄牝からやってくる、目も口もない混沌由来のなにか、なのです。

って。

たぶん。

 

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父親が亡くなったので母親を引き取り

2016年12月22日 | Weblog

面倒をわたしが見ている。

というのが、夕べの三次会での、浮かれ街の女史。

なので、こうしてダブルワークをしている、というんだから、偉いもんだ。

とね。

ま、普通の感想が出てきたんだけど、ところで。

お母さんはおいくつなの、に、60歳です、だって。

相方と顔を見合わせ、密かに、今日は、歳、サバよんじゃいますか。

ってなもんで。

にしても、そんな方もいらっしゃる、あるいは、そういう心理の方もいらっしゃるんだ。

とでも言っときますか。

ちょっと、驚いたのです、我が身を振り返りつつ。

赤いちゃんちゃんこを過ぎているんで、こちとらも、子どもたちからは、そんな風に見られているのかも。

なので、あんまり気張らず、あとは任せたぞ、くらいの気分で、日々をね、過ごしていけば。

という気にもなるな。

ではあるけれど、一方で、逆ピラミッドの人口構成だから、年寄りに年寄りぶらせない。

今までの、お年寄り像をまんま受け継ぐんでなく、というようなことを、当たるを幸い、わが先輩方には。

のたまってもいるんで、そこらあたり、なかなか、難解な解を解くようなものでもあり。

ということもありつつ、どうもね、老い、というものを、もう一度、改めて解釈し直す。

あるいは、換言する、ってことが必要かも、ですね。

そもそも、人は老いるのか、と。

それなりの歳になった方は、必ず口にする、というサムエルウルマンの「青春の譜」ってやつ。

心が若ければ、幾つになっても青春だ、ってくらいの。

題名が、ちょっと、気に入らないけどね、ほら、青い春に続いて、朱い夏、白い秋、そして、玄い冬、と。

そちらの方が、むしろ、潔い、というのか、そのままを表している。

今朝は、パソコンが自動でアップデート、なのか、OSのバージョンアップなのか、すぐに立ち上がらず、で。

あまり書けず、そろそろ、この辺りで、失礼することにいたします。

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