銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ポスドクとアカハラ(学者の世界の苦悩)

2009-05-26 22:31:02 | Weblog
 私は前回と、前々回二本続けて、中央大学教授殺しについて書いたわけですが、主人に感想を求めたところ、『この程度の事を書いても構わないが、ともかく、犯人の未熟さには腹が立つほどだ。社会は慈善事業をしているわけではない』とメモ書きを残してくれました。

 ただ、私は次の日の睡眠中に、ポスドク問題(博士号をとった後での、就職が難しい問題)と、アカハラ(学者の世界にあるいじめの問題)について触れるつもりでした。教授殺しは容疑者が大学院へ通学したわけではなくて、学者の世界の話ではないのですが、教授を激しく恨んでいたという側面が詳しく報道されるにつけ、(不思議なことに、週刊朝日のニュースが早すぎるぐらいですが)就職の際に、不満が起きたのではないかとも想像をするからです。

 大学教授と言うものは、企業にコネを持っているものです。私が卒業した1960年代は学生運動が盛んで、産学協同が、激しく、糾弾をされていた時代ですので、それが無いがごとく、みなされていたと思いますが、実際には(特に、理工学部では)、教授が学生に就職口を斡旋するケースは多いのです。その際、教授側にも判断があって、やはり、優秀であり、好きなタイプには、手持ちの企業のうちの、社風もよく、給料も高いところを紹介するでしょう。普通のことです。

 山本某と言う犯人は、勉強した専門の分野(電機関係またはIT産業)ではなくて、食品会社に入社して、しかも販売部門に配置されたので、一ヶ月で、退社したと報道をされています。となると、五年前の就職の際から教授には、疎まれていた可能性もあります。留年もしているそうです。学生運動華やかなりし頃は、留年が多かったのですが、今は時代が違うので、留年は個人の責任となり、優秀ではないとみなされる可能性はありますね。何のお世話もしてもらえなくて、自分で探した勤め口に、就職したのかもしれません。
 内省型で大人しい人間は、活発に絡みついてくる人間よりは一見すると扱いが楽に見えます。しかし、人間とはだいたいが同量の感情と同量のエネルギーを持っているものなので、軽く扱っては、駄目だったのかもしれないのですが、教授はまだお若くて、そこに注意が到らなかったのかもしれません。

 だから、この件は電話で居留守をする程度の問題ではなかったのかもしれません。ただ、殺人、しかもこれほど、大量の血が流れるほどのケースに至らないで済む方法は、やはりあったような気がするのです。

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 で、学者の世界に入って行きましょう。その世界は外から見ると、お医者や、弁護士などと同じく、若い人の憧れの対象でしょう。しかし、四十年以上も前の若い頃、東大に勤めた私の経験からすると、思いがけない陥穽も控えている恐ろしい世界でもあります。

 特に博士号をとった後での、就職の際の困難です。大学院生と言うのは、教授にとっては一種の私兵です。論文は発表の際連名で出されるケースが多いので、優秀な院生が数多くいればいるほど、教授もまた業績が上がるということになるからです。で、教授は大学院に入りたいという学生がいたら、学業が優秀なら引き受けるでしょう。しかし、毎年、一人から三人ぐらいの院生を引き受けるとして、そのうち、何人が就職できるかは大問題なのです。
学者として成功をするためには、組織、特に大学に就職をしなければなりません。在野で塾講師などをやりながら、研究を続けることなど、実際問題としては、至難のわざですから。

 しかし、東大の教授職は、数年間一人の人が続けるので、あぶれる人が大勢出てきます。そのうちの何人かは地方の大学へ転出して行って、教授になる事ができますが、そうではなくて定年まで講師とか、助手のままで年をとっていく人もその当時は大勢いたのです。しかもその選別の基準が教授の胸一つに掛かっています。
 教授の方には、数人の院正がいれば、自分と性格があう可愛い人と言うのが出来るし、その人が家柄が良かったりすると、そういう人を後継者として選びます。臥薪嘗胆の挙句、教授職になっていく人もいるでしょうが、1960年代当時は、留学や書籍代、フィールド調査の費用、実験の器具代等で、やはり、お金持ちの子女の方が伸びると考えられていたのです。

 でね、ご自身で気がついているかどうかは別として、教授と言うものが莫大な権力を握ることとなります。お教室とは、一つの城であり、教授はそこのお殿様です。研究テーマの割り振りから始まって、研究費用の割り振り、使う実験室の割り振り、あらゆる側面で、気に入っている存在と気に入らない存在の差が出てきます。
 労働だって文句だって一手に引き受ける、シンデレラみたいな人も出てきます。結構年の行った男性なのに、小間使いみたいにしてあれこれを、命令される人も出てきます。企業人とは違って、社内ローテーションもないし、その場から、転職と言う形で逃げ出すわけにも行かないのです。

 その教授の下をはなれるのは、学問の世界との縁を切ることと同じなので、それが好き出し、博士号まで何年間かの人生を掛けた選択だったら、そこから逃げるのは自分を否定することになるからです。で、悪くすると、絶望的な状態になり、さらに息苦しくなります。最近、論文を放っておかれたので院生が自殺をしてしまった事件はそういう環境を明示しています。

 その手のいじめ、いじめられの問題が、今では、アカデミックハラスメント、略称アカハラといわれ、それを研究する組織さえ出来たそうです。だけど、中途半端な形で、そういうところに相談しても解決がつかないでしょうから、学者をして、一生を過すのも大変だということです。
傍目に美しく見える世界ほど、入ってしまえば大変な事が数多くあります。
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 結論としてまとめれば、人の上に立つ人ほど、相手の立場に考慮して、相手が人間存在の根本では、自らと対等であることを銘記して、いろいろなことを取り計らわなければいけないということだと思います。相手が自分と同じ土俵にいない人間にこそ、配慮してあげなければならないということです。

うちの主人などビジネス社会に生きてきたので、もっと厳しくて、「甘やかすな。こんな人間」と言う考えのようですが、これほどの事件を引き寄せてしまったのは、学者の世界の上下関係をわきまえていない人間には、それ相応の対処が、必要だということで、また、学問の世界が、その手の苦しみの集積で出来上がっている側面もあることは、だんだん改良をされなければならないということでしょう。  2009年5月26日      雨宮舜
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