銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

(山ジャスミン)の下で・・・・・続、中央大学教授殺し事件考察

2009-05-25 23:57:58 | Weblog
「定家かづら(山ジャスミン)の香りの下で」
・・・・・続、中央大学・教授殺し事件・考察・・・・・

 我が家の東北の隅に、スダジイ(細いどんぐりができる)の大木があり、その上に絡まっていて、美しい香りがでる、定家かづら(山ジャスミン)があります。この植物は、この山の石段の途中にも生息をしていて、今の季節は芳香を振りまきます。

 特に夕方に芳香が強いように感じます。夕方は、木戸周辺の片づけをしなければなりません。今は、ひみず(もぐらの一種で美しい毛皮と、見事な体臭=芳香を持つ)が出る季節で、それを追って猫が外へ出てしまうからです。

 あまりに賢くて、人懐っこいわが家の猫は、相手のお宅に取り込まれるという形でトラブルを引き起こすので、残念ながら、木戸を作って行動の制限をしているのに、もぐら(ひみず)が立てるかさかさと言う落ち葉の音に、誘惑されて、木戸を自分の手で開けてしまうので、いちいち植木鉢で、頑丈に防衛しているのです。その木戸傍で、昼間なら、書留を運んできた郵便やさんが大声で、私を呼びますし、夕方は主人のために、そこを開けておかなければなりません。

 で、毎日、夕方外へ出ますが、今は山ジャスミンの香りに驚かされる毎日です。

 人生の途次で、諦めたことは一杯あります。でも、諦めて静かな範囲での生活をしているからこそ、落ち着いて、この香りを味わう日々も訪れたわけです。

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 若い日々と言うのは、さまざまな選択の可能性が残されているので、それだけ、悩みも深いのです。悩みがあるときに、人はメンター(賢者)と言って、自分より優れた人の忠告を仰ぎます。私は人生の途次において、それには恵まれてきた方だと考えています。それに対してお返しをしたいと思うのが文章を書く事なのです。

 ところが、最近では疲れがひどくなりました。さきほどの、中大教授殺しについて一文を書いた後でも、送信する前に、パソコンをつけたまま、二時間ほど、昼寝をしたほどです。布団に入ってから、「あれ、パソコンのスイッチを落としたかしら?」と疑問が起こりましたが、点検にいかれないほど、あれを書くのに疲れました。

 そんなに、エネルギーを掛けてもまだ、書き足りない思いがあります。

 それは、T教授が亡くなったことがやはり「とても、残念だった」という思いが強いからです。学校の評判が悪くなると言う側面でも気の毒ですが、ともかく、教授とその周辺の人々が気の毒だからです。

 今のところ、報道をされている限りでは、恨みによる犯行となっています。でも、そうなると、教授がひどい事をしたような感覚を受けます。そうじゃあなくて、教授はとても良い人だったのです。良い人だから、相手から、心理的に、とりすがられたのです。が、その最後の部分で、教授は芥川龍之介描くところの『蜘蛛の糸』のカンダダ状態に(少しですが)なってしまったのです。100%の善人にはなれなかった。

 『彼に会えば、一時間では済まない。面倒くさい。僕にはその義務はない』と教授は考えたでしょう。でも、犯人山本某にとっては、大学時代がシャングリラ(桃源郷)だったはずで、そこが、ざらついた外の社会と同じ事になってしまうわけで、それが、耐えられなかった・だけ・なのだと思います。

 人は誰でも、安心してその場にいられる居場所が欲しいです。私みたいに年をとれば、過去の経験があるので、『現況では不満だけれど、それなりに、未来に希望を見出して生きて行こう』とか、柔軟に思うことが出来ます。それなりに諦観も持っていますしね。しかし、二十代だと悩む季節です。

 血の海になるほど背中を刺したと報道されていますが、それほど、ひどい事を山本某に対して、やったという意識は教授の方には無かったはずです。

 そして、山本某自身も、自分の真意(犯意)を他者に説明できないでしょう。それは、彼に理性が残っていれば、やはり、他者が、自分の思いを不審に思うだろう、理解できないだろうという判断はできるはずで、それゆえに、真実を話すのを、ためらっているのでしょう。

 ノートや日記の類が出てきて、日常生活への反省の言葉が連ねてあったそうです。主人が「内省的な人間なんだなあ」といいました。今の日本はそういうタイプを、からかって、普通以下とみなすムードがあります。お笑い芸人などがもてはやされていて、その芸はほとんど、他者をからかいぬく、運びになっています。

 『めちゃ、めちゃいけてる』と言うお笑い番組があって、子供が家にいる時代は、チャンネルをそこに合わせていました。面白い週もありました。で、最近のことですが、その番組が開港150周年で沸く横浜を訪ねるという新聞の案内があって、数年ぶりにチャンネルをそこに合わせたのです。横浜市民ではなくなって、40年近くが経ちますが、未だに横浜市の市歌を歌えますし。

 だから、結構楽しみにして見始めたのに、すぐ、ぞっとしました。ある一人の女性芸人をいじめるのに、すべての出演者が集中して徹していました。そのいじめられる芸人は、英語が出来るみたいなのです。自分の身を守るために、とっさに出てくる言葉が日本語ではなくて、英語だから、帰国子女かもしれないのです。

 そこが、少しでしょうが、普通の日本人とずれている・・・・・それだけで、つねったり、馬鹿にしたり、騙したりする・・・・・いじめの対象となっています。『何と嫌な設定だろう、ちっとも面白くない』と私は思いますが、広告がついている、公共の番組として、そういう演出がなされています。「もちろん、その設定をいじめられる女性芸人・本人は事前に納得をして受け入れているはずだ」と主人は言います。でも、それにしても、いやな感じの映像です。下品すぎます。

 そんな番組に比べたら、NHKの『コンカツ、リカツ』など、一万倍ぐらいに上等なできでした。でも、視聴率としてどうなんだろう。それが、現在の日本です。今現在の若者は、地域社会とか、親世代から、大切なことを学ぶということが少ないです。テレビやゲーム、コミックから社会について刺激を受け、それを基準として学んでいくのに、そのテレビが未だに低俗極まりないです。

 若者は、今現在六十歳以上の世代とは、まるで違った環境で育ちあがっています。だから、極く基本的なこと、『会社を一ヶ月で退社したら、将来の自分が困るのだ』と言うことすら知りません。立花隆や、沢木耕太郎などの、後日有名人になっていく人が、「会社を一日で辞めた」などと言う話が喧伝をされていますが、彼らは特別な根性と才能がある人たちで、それなりに見通しを持っていたのです。飛びぬけた才能がない人間が、初手から成功者のまねをしては駄目です。

 山本某を囲んでいる両親(出てこないけれど、いるみたいですね)他の誰もが、『お前が悪い』と思っていて、彼には救い手とはなりません。そんな中、唯一の希望と言うか、神のごとき立派な人としてのT教授に、彼は相当な期待をしていたのでしょう。

 でも、彼なりにわきまえている部分もあって、・・・・・つまり、自分が社会人としては、平均以下の落ちこぼれであると言う意識もあって、・・・・・普通の卒業生のように、フラッと先生を訪ねるわけにも行かなかったのです。だから事前にアポの電話を掛けた。それも一度や二度ではないはずです。

 しかし、教授は三度目辺りから居留守を使い始めたと、私は想像します。助手や秘書、大学院生、または事務棟のスタッフなどに、彼の名前を告げて「取り次がないように」と、頼んでいたはずです。

 『遠慮をして遠慮をして気を使っているのに、それでも、教授がそれに乗ってこない。僕をそれほど嫌っていて、認めてくれていない』と言う事が、山本某を絶望させ、それが、深い恨みに繋がったのでしょう。たとえば勤務先の上司が同じ事をしても、この青年は事件を起こさなかったはずです。T教授を慕いぬき、尊敬しぬいているからこそ、反動としての絶望が深かったのです。

 高村薫さんが、『照柿』のなかで、熱さ(融鉄の熱さと、夏の暑さの重合)が人間を狂わせると描いていますが、こちらでは、絶望が青年を狂わせました。やるせないことです。世田谷一家殺害事件ほど、闇が濃くは無いけれど、切ないこと限りがない事件で、それゆえに、私は考えるのにも書くのにも、疲労困憊をしたのでした。むしろ、犯人が現れない方が良かったかなあと報道から一日経った今では思うほど、切ないです。

 でも、書かないでは。おられません。山ジャスミンのつるの下に住んでいて、勤務と言う形では働かないで、生きていかれる私の使命は、『人間とは何か?』を追求することにあるのですから・・・・・スダジイの大木の下で、誰にも覗き込まれない食堂で、随意の時間パソコンを打つことの出来る私の、それが現在の使命なのです。・・・・・まあ、この際は、以上の様な大口を叩かせて置いてくださいませ。T教授への哀悼の意味があるからです。                       では、2009年5月25日   雨宮舜
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