興味深い本を読みました
絹田幸恵著「荒川放水路物語」です
著者は 足立区の小学校の教諭でした
学校の近くを流れる荒川放水路 人工の川です
子どもたちは この大きな川が人間の手で掘られたと聞いてびっくり仰天
これが契機になって本の執筆にとりかかった著者でした
私にとっても荒川放水路は身近な川です
小学校時代の遊び場でした
夏は西新井橋の下で水泳 ボート遊び 土手でバッタをとったり餅草を摘んだり・・
自然の恵みを満悦させてもらいました
あまりにも身近な存在であった放水路です
埼玉県川口市から東京湾までの24キロ
川幅455米~582米
放水路の開削前 1302戸 2500名を超える住民が生活をしていたのです
東京・埼玉が明治40年 同43年と続いて大洪水に見舞われたのが放水路計画の契機になりました
現在の隅田川 当時の名称荒川がその名のとおり大荒れしたのです
荒川に人工河川放水路を! 水量を分派する
大正2年から土地の買収と移転の相談が始まります
3か月で目標の8割5分の契約を結んだといいます
最後まで移転を拒んだ人たちがいましたが 最後は裁判で決着 泣く泣く移転していったそうです
土地の買収価格は坪1円が平均価格で 安いところでは90銭の提示もありました
土地買収費については悲劇も生まれています
10万円近くの保障を受けた大地主さん
いろいろな人が寄ってきて 投資 新規事業等を薦められいいなりに・・・ほとんど無一文になったといいます
また 買収金を銀行に預けていたら その銀行が倒産!
通帳を眺めては「この金があったなら・・」
東京都北区 埼玉県川口市に架かる東北本線の鉄橋から開削が始まったのが明治44年
東京湾までの24キロ 完成は昭和5年でした 19年の長き期間です
総工費は2945万円 当時の軍艦一隻の建造費3200万円に匹敵しています
これで 隅田川に流れる水量の4分の3を荒川放水路が担いました
以降 隅田川の大洪水被害は皆無になりました
これも 住み慣れた愛着もある故郷から立ち退いていった2500名の方々のお蔭です
ちなみに 我が家の親戚のj・tさん 後に足立区の議長を務めました 早期に立ち退きに応じて子孫は現在地に居住しています
自転車で出かけた放水路河川敷です
高速道路下の日陰に寝そべり いまは水底に沈んだ小学校 民家など100年前の下町風景に想いを馳せるオヤジな私でございました
絹田幸恵著「荒川放水路物語」です
著者は 足立区の小学校の教諭でした
学校の近くを流れる荒川放水路 人工の川です
子どもたちは この大きな川が人間の手で掘られたと聞いてびっくり仰天
これが契機になって本の執筆にとりかかった著者でした
私にとっても荒川放水路は身近な川です
小学校時代の遊び場でした
夏は西新井橋の下で水泳 ボート遊び 土手でバッタをとったり餅草を摘んだり・・
自然の恵みを満悦させてもらいました
あまりにも身近な存在であった放水路です
埼玉県川口市から東京湾までの24キロ
川幅455米~582米
放水路の開削前 1302戸 2500名を超える住民が生活をしていたのです
東京・埼玉が明治40年 同43年と続いて大洪水に見舞われたのが放水路計画の契機になりました
現在の隅田川 当時の名称荒川がその名のとおり大荒れしたのです
荒川に人工河川放水路を! 水量を分派する
大正2年から土地の買収と移転の相談が始まります
3か月で目標の8割5分の契約を結んだといいます
最後まで移転を拒んだ人たちがいましたが 最後は裁判で決着 泣く泣く移転していったそうです
土地の買収価格は坪1円が平均価格で 安いところでは90銭の提示もありました
土地買収費については悲劇も生まれています
10万円近くの保障を受けた大地主さん
いろいろな人が寄ってきて 投資 新規事業等を薦められいいなりに・・・ほとんど無一文になったといいます
また 買収金を銀行に預けていたら その銀行が倒産!
通帳を眺めては「この金があったなら・・」
東京都北区 埼玉県川口市に架かる東北本線の鉄橋から開削が始まったのが明治44年
東京湾までの24キロ 完成は昭和5年でした 19年の長き期間です
総工費は2945万円 当時の軍艦一隻の建造費3200万円に匹敵しています
これで 隅田川に流れる水量の4分の3を荒川放水路が担いました
以降 隅田川の大洪水被害は皆無になりました
これも 住み慣れた愛着もある故郷から立ち退いていった2500名の方々のお蔭です
ちなみに 我が家の親戚のj・tさん 後に足立区の議長を務めました 早期に立ち退きに応じて子孫は現在地に居住しています
自転車で出かけた放水路河川敷です
高速道路下の日陰に寝そべり いまは水底に沈んだ小学校 民家など100年前の下町風景に想いを馳せるオヤジな私でございました
涼しくなりましたでがんす。
誰かが寝てますね。ここは虹の広場。四季を通じて花が咲いています。
荒川放水路は昔からの遊び場でした。
著者の絹田幸恵さんのお蔭で一気に謎が解けた想いがしています。
HRの完成、おめでとうございます。
退院後に訪問させていただきますね。
雨の合間を見て、今日も自転車で放水路の土手におりました。
今日は防災の日。
関東大震災から92年です。
大震災のこの日も懸命に放水路開削に従事していたのでしょうね。
江戸湾に注がれていた利根川を、人力で銚子へ向かわせた家康。昔の人はスゴイ!
誰かが寝てるじゃないですか~
先人達の努力や軍艦一隻の建造費3200万円に匹敵
する膨大な資金投入などがあり、放水路が整備され
今の安全な暮らしが手に入ったのよね
青空の下で思いをはせるオヤジさんが見えるようです
婆のHP完成で~す
考えてみたら、昔は重機なんてなかったから
いろんな大きな工事なんかは人の手で作られたのですよね。
そう思うと昔の人はすごいなと思いました。
今の人には無理ですよね!!
ここには書きませんでしたが、本にあった悲惨な出来事。
開削中に発生した関東大震災でした。
直後に飛んだデマ。
朝鮮人が井戸に毒を入れた。
パニックになった住民、軍隊によって大勢の朝鮮人が殺害されたそうです。
水害がなくなった下町ですが、多くの犠牲者が生まれた放水路です。
現代のような機械のない時代です。
足立区の歴史館に放水路開削時のジオラマが展示されています。
小型蒸気機関車・人力トロッコが主体ですね。
凄いものです。
どこの立ち退きでも最後まで頑張る方があるのですね
裁判まで…
保証金 もちつけない大金を持ち その結果がには悲しくなります
100年前の地権者のおかげ 今は水害もなくですね
感謝しなければいけませんね
こんな広い川が人工とは驚きました。
今は様々な重機がありますが、無かった時代ですよね。
先人の知恵と努力に脱帽です。
だいぶ涼しくなってきましたね。
現代のように重機がない時代です。
小型の蒸気機関車はあったようですが、基本は江戸時代の工法とそれほど違ってなかったのでしょうね。
明治・大正の先人のねばりに脱帽!
感謝の念しかありません。
涼しくなりましたね。
治水は為政者の大きな仕事です。
戦国武将も治水には力を注いできました。
家康の利根川東遷も有名な話ですね。
まだ完全に安心していません。
東京都の予測では、荒川上流が集中豪雨のとき、氾濫が予想されています。
防災に完全はありませんね。
だいぶ涼しくなってrきました。
放水路のおかげで昭和になってからは大きな水害はありません。
これも先人の地権者、施工者(犠牲者が出ています)
の努力の賜物です。
忘れてはいけませんね。
それにしても小型機関車はあったようですが、トロッコを主体とした人力による工事だったようです。
すごいことですね。
涼しくなりましたね。
あの猛暑はいずこへ?
いまの荒川は人口の河川とは思えませんね。
河川敷ではサッカー、野球。
誰にも迷惑をかけないで思い切り運動を楽しんでいますね。
これも100年前の地権者のおかげです。
語り伝えていかねば・・・
荒川区の古い写真で明治43年の大洪水の様子を見ました。足立区・荒川区が大被害を受けました。
縄文時代は海の底。
日暮里の高台で貝塚が発見された土地です。
放水路のお蔭でいまの生活があります。
治水は大変な事業だったと思います。
忘れられないように、語り伝えていきたいことです。
隅田川も水害をおこす川だったのですね。
治水といえば信玄、こちらはまだ歴史が浅いのですね。
いろいろ勉強になります。
そんな上に立って今水害の心配なく過ごせることを、これからも後々の人に伝えられていくことがとても大事ですね。
今は放水路だとは分かりませんね。
河川敷では野球やランニンググランドが出来て皆さん
運動に励んでますね。
余りブルーシートのは見かけませんが
やっと涼しくなりましたね。
荒川放水路、江戸川によって関東地方の水害は忘れたものになりました、新潟県でも愛知、岐阜でも、大昔の人が大々的な治水工事を行って、現在の地があるという話はいいですね。