酒と畑に戯れるオヤジな私

酒を飲み、土を耕し、人と語り、日々に感動しながら楽しく生きるブログ

年の終わりに。。

2006年12月30日 | 自己紹介
92歳の叔母が亡くなりました

叔母は戦時中に 仕事で中国に渡っていた叔父(母の弟)と知り合い 当地で結婚しました

ふたりの娘が授かったところで 叔父は現地で招集令状

帰らぬ人となりました

そして 敗戦でした

命からがら ふたりの娘を連れ帰り 日本での生活がはじまりました

素人からはじめた小さな飲み屋さんでした

やがて 叔母の気風のよさから いいお客さんが増えてきました

学者 僧侶 政治家 法曹界 警察関係の方々

ボクシングの元チャンピオンも馴染み客でした

この私も 高校時代からご馳走になっていました

料理の上手な叔母でした

季節の はも料理の味が忘れられません


少し間違えば 中国残留孤児にもなっていたかもしれない従姉妹のふたりです

お別れの儀式には 孫 曾孫が見取ってくれました

やっと やすらかなときを迎えた叔母でした

かの地で 先に逝ったみなさんに やさしく迎えられていることでしょう


京都の斎場で 読経を勤められたお坊さんは 叔母の店の馴染み客でした

30年以上 店に通ってくださった大○派の偉いお坊さんです

読経の後 叔母の思い出話をしてくださいました

最後は 涙声になっていました


今年も終わろうとしています

つたないこのブログです

1年間 お付き合いいただきました

ありがとうございました


みなさま よいお年をお迎えください

来年も よろしくお願いします








佐賀の乱?

2006年12月27日 | コミュニケーション
明治新政府の揺籃期に勃発した佐賀の乱です

江藤新平を生んだ佐賀県。。

今回の講習会で 初めて訪れました

佐賀といえば。。。



幕末 維新にかけて幾多の傑出した人物を生み出しています

江藤新平(後列左から5人目) 大隈重信(中列左から2人目)

ほかにも錚々たる人物が顔を揃えていました  佐賀藩の弘道館の写真でしょうか



現代の「佐賀藩」を背負ってたつ管理職の方々です

着物が洋服に 刀がペン パソコンに変わりました

年月を経ても変わらなかったのが 心意気と気構えでしたね

住民福祉のさらなる向上 熱い思いが終始伝わってきました


自ら創生した法制度によって斬首された江藤新平

青雲の志を学問にかけた大隈重信

郷土の先輩たちに負けない”いいツラ構え”もしていました



佐賀到着が夜になったので いつもの観光はできませんでした


そこで 「夕食」は例によって いい店捜しです



ありましたね

<   <


「小草」(おぐさ)です

裕次郎 ひばりに会えました

ママさんのY・Oさんは この道13年

常連も 高齢者 軍隊経験者 夫婦連れが多かったといいます

手作り料理は 自分の畑から収穫した新鮮野菜

野菜談議で 話が弾んでしまいました


ただ 残念だったのが店は今年で閉店するとのこと。。

不況の波は「小草」にも押し寄せていました

これぞ正真正銘の一期一会になりました

これからの お互いの健闘を称えあって店を後にしました  固い握手を交わして。。



講習会終了後の佐賀駅前です

西国九州ですね  5時を過ぎても この明るさでした


そして空港の売店



佐賀県に新たなヒーローが誕生しました

思わず 買ってしまいました ↓




ところで 表題の「佐賀の乱?」

この夜の太平洋岸はかなりの暴風雨でした

飛行機はちょっとしたジェットコースターのように揺れました

そうです  「佐賀の乱気流」だったのです  ジャンジャン~














三ノ輪のアラーキ

2006年12月25日 | オヤジのつぶやき
クリスマスイブの24日  好天に恵まれました



出かけた先は 江戸東京博物館  久し振りです




”東京人生 写真人生 Aの人生”のサブタイトルが光る「東京人生」

写真家 荒木経惟の写真展でした  ブログ友「いっこんまさん」のコメントによって知りました

1960年代から現在に至る 東京風景と時代の「顔」の移り変わり。。。

モノクロ写真が語っていました


興味を憶えたたのが。。。





見覚えのある子供たちの遊びの光景でしたね  これは間違いなく当時の下町原風景です

紙芝居 馬乗り リンボーダンス パチンコ そして洟垂れ小僧たち。。

身の回りに ウジャウジャいました

いいえ これは私たちそのものといっても過言ではないでしょう

写真家荒木とはなにもの?

そうです  かのアラーキは1940年 下町三ノ輪の「にんべん屋」履物店で生まれていました

これは初めて知りました

なるほど 納得です


そして 不思議なものです

同年代 同郷とわかったとき  彼に対して抱いていた ひとつのイメージが一瞬で変わりました

さらに。。



三脚を担いで 足早に移動しながら撮影するアラーキ



都電が出てきました

これで!とどめ”を刺されました

腕前は天と地ほどの違いがありますが ”野次馬根性”は下町人種共通でしたね

おじさんが さらに荒木ファンに変身した瞬間でした


今日から 出張です

「がばい ばぁちゃん」に会えるでしょうか?











禁煙のすすめ

2006年12月23日 | コミュニケーション


22日の研修会場は K県Y市の郊外にありました

土と緑の多い閑静な土地柄です

下町おじさんには うらやましい限りの生活環境ですね



建物の脇はI川です

対岸には畑もありました  研修の開始前に覗いてきました

冬野菜たちが元気に息づいていましたよ  いい光景です



庁舎のエントランスホールも 落ち着いた雰囲気に包まれていました


こんな素晴らしい環境の影響を受けているからでしょうか

「説明能力向上セミナー」での 管理職員Kさんの話には感心させられました

彼の話は 題して「禁煙のすすめ」。。(以下概要です)


「よく言われるように 喫煙は本人の健康のみならず 周りの人に多大な迷惑をかけます

私は それ以外の理由から喫煙の害を申し上げ 喫煙者に いますぐにでも禁煙をすすめたいと思います

職場での喫煙者を見ていると 1時間に1回は喫煙所に行っています

その時間は約5分  1日の勤務中に7回として35分

月に140回で 700分になります」

「これに12を掛ければ1年間。。  実に8400分にもなりますね

時間に換算すると 140時間です  約2日です

喫煙者は意識しないうちに 2日間の有給休暇を 無届で取得していることになりますね

年間で2日間 無断で職場を離れています」

「住民サービスの提供者として 如何なものでしょうか

喫煙者本人の健康維持  周りへの配慮  住民サービスの向上

以上 3点の理由から 私は禁煙をおすすめいたします」


Kさんは3分の説明を見事にこなしてくれました 



わかりやすく 簡潔で 印象に残る話でした

この話が 喫煙者数名に それほど抵抗なく受け止められたのは Kさんの笑顔 誠実な態度と話し振りが大きな力になりました


土と緑ときれいな川の環境 たしかに喫煙には似つかわしくない なにかを感じました











 












プリンターを変えました

2006年12月22日 | オヤジのつぶやき
5年の長きにわたってお世話になったプリンターでした

年賀状を5回も作ってくれました   ご苦労さんでした



人間でいえば 花の70代  経験豊富なプリンターです

リタイヤするには 少し早すぎる気もします

我が家は公○員住宅ではありません  出ていかなくてもいいんです

実に潔よい引退劇になりました


そして これが後継者。。



コピー メモリーカードから写真のプリント スキャナー

なかなかのスグレものです


便利な機械に変わっても 使いこなすのは使用者の私

この若者とどのように付き合っていくか

しっかりと 基本をマスターしてパソコン・ライフを楽しみましょう


マダムに願って購入しました

お返しに ますます野良仕事に精を出して 収穫に励みます




昨日のYさんです

収穫して保存していた里芋です

消費者に 旨い野菜を提供しようと精を出していました

















信長の声

2006年12月20日 | オヤジのつぶやき
ここにも「一度は来てみたかった城」がありました

国盗り物語の表舞台 稲葉山城 その後の岐阜城です 



JRの車窓から望む「岐阜城」です (右の金華山の頂にあります)



JR岐阜駅です  現在の岐阜は変なことで”有名”になってしまいました



市営バスで15分  岐阜公園にあった 山内一豊と妻の千代の碑です  



永禄10年(1567) 信長 稲葉山城を奪取 中国の故事にちなんで岐阜城と改める



翌年 将軍足利義昭を美濃に迎え入京しています



天下布武! いよいよ信長の天下一統の”グランドプラン”の始まりでした



いまでも 不世出の英傑と称される信長の肖像です



舅の斉藤道三  平 幹二郎の「国盗り物語」が懐かしく思い出されます



道三の愛娘 濃姫  信長の正妻です

謎の多い女性で いまもって墓らしいものが見当たらないようです



信長の天才たるところは 決して「武」だけの人物でなかったことでしょうね



関所を廃止し 楽市楽座を設けました

城下町は活気に溢れ 宣教師のルイス・フロイスは「バビロンの賑わいのようであった」と述べています



これぞ日本の食事です  「三丁目の夕日」の時代までは 同じような献立でした



天守閣から長良川を望みます  雨で霞む井の口の街並みです

440年前 信長も同じ景色を眺めたことでしょう

15年後の本能寺の変 歴史に”もし”は禁物ですが。。 



日常生活を送っていた信長居館跡地。。

もし 彼が現在まで生存していたなら。。



「現代版刺客」やら 「復帰」やら 変なことでで有名になったこの「井の口」をどう思ったことでしょうね



「ちょうちんを掲げ 闇夜を切り裂け!」



明るい農村ならぬ 明るい日本の未来を目指す信長の叱咤激励の声を聞きました

岐阜城見学 長年の夢がまたひとつ実現しました


* 焼酎は「るるぽ」のカウンターより *



  






「一期二会」

2006年12月18日 | コミュニケーション
先週に続いてのA県での研修会でした

タイトルは間違いではありません



朝の新幹線の窓 富士市からの富士山です

なにか前途の幸運を予感させます


内容は前回と同じですが 対象の職員さん方が異なります。

今回の受講者のひとり T市からみえた管理職Mさんの話が印象的でした

彼の担当は「公共用地の買収」です

26年間に渡って買収に応じなかった 地権者Nさんを説得されたそうです

上司からの要求は 交渉期間6ヶ月が限度でした

その間 行った交渉は29回

5~6回目までは 土地買収交渉の話は一切しません


7回目くらいだったでしょうか 逆に相手がニヤリとしながら買収の話を持ち出してきました

それでもMさんは内容の核心について おくびにも口にしませんでした

いつもと変わらぬ世間話に終始しました


「いやぁ Mさんには参ったなぁ」

地権者のNさんが 実に嬉しそうな表情で語り始めたのが 交渉開始から5ヶ月と16日目のことだったそうです

「は なんでしょうか?」いぶかる課長のMさんです

「いや なに これがね。。」 いつも脇に座っている奥さんを見やりました

「自分のことを まともに扱ってくれたのは 課長さんが初めてだというんだよ」


いつも主人の横で 話を聞いていた奥さん

実は Nさんの後妻さんだったのです

年齢の差が30歳以上あります 

縁があっての結婚でしたが 近所の目は冷たいものがありました

その奥さんに対して M課長はいつも顔・目を合わせて話をしていました

目配りの割合も 主人7 奥さんには3くらいだったようです

近所では 無視に近い扱いをされ続けてきた奥さんです

挨拶をしても そっぽを向かれ続けていたそうです

Mさんの会話中のアイコンタクトがよほど嬉しかったに違いありません

「これにも薦められてね 契約に応じることにしたよ」


Mさんは 手柄話を威張るでもなく淡々と話してくれました

これがコミュニケーションの実践です 話には相手がある  その相手の人格を認める

もちろんNさんが説得に応じたのは M課長の熱意 人柄によるものが大だったことでしょう

いい話を聞くことができました



そして この研修のあと 実に嬉しくも びっくりすることが待っていました



昨年と同様に 研修担当の方々との懇親会

手羽焼きの店「Yちゃん」で開かれました

なんと この懇親会に 前回の受講者の方々男女4人が参加していただけたのです


左からT市のNさん うれしそうな私 ご担当のIさん 昨年も参加していただいたMAさん

県職員のKさん K市の新婚さんHさん 県職員のNさん ご担当の変わらず清楚なOさんでした

これは 長い講師経験のなかでも初めてのことです

4人の職員さんが中心になって 研修同期会を立ち上げるそうです

コミュニケーション研修を 教室だけでなく仕事をはじめ 一般社会のなかで機能させていただけるようです

これほど講師冥利につきることはありません

今後 都合がつけば「私的な参加」を約束させていただきました


人好きな方の多い土地柄とはいっても 一期一会が 二会にも三会にもなる可能性を示唆してくれた 嬉しい研修会でした


そして コミュニケーション研修の成果が このような実践の場にまで高められたのは 研修担当の方々のご尽力の賜物です

みなさまに 心からお礼を申し上げます




次回は 若き日の信長像が迎えてくれた 岐阜城見学の記です






















号外!

2006年12月17日 | 江戸検定
尾張から帰ってきました

信じられないほどの「びっくり」を体験できた研修会です

詳細はのちほどご報告させていただきます


家で待っていたのは マダムだけではありませんでした

認定証とバッチでした



実に 何年振りかの試験でした

参級試験に合格しました   

この歳になると 学校の入試結果よりも嬉しいものです


マイぐい呑み 認定証 そしてバッチ

三役揃い踏みです

飲み会での「うんちく披露」が楽しみです

ただし くどくなって嫌がられないように。。

みなさまの暖かいご支援に感謝しています




復帰しそうな コッコですが。。

2006年12月13日 | 無農薬野菜作り
11日のコッコです



1週間振りの対面でした

太ったようです 人相も(鳥相も)よくなりました

Yさんの愛情で力強くもなりました

この日収穫した大根の葉っぱを食べています


こちらは集団。。



止まり板の上にいるのが”極悪コンビ”のようです

可愛い気がありませんね~ 昔の悪役”上田吉二郎””吉田義夫”に似ています(笑)

コッコも元気になりました 年内の復帰もできそうですが にわとりの世界はどうなのでしょうか 

受け入れてくれるとありがたいのですが。。
 

今日からでかけます

今度は 信長です  コッコのためにも 勇気を貰ってきましょう

関ヶ原  その2

2006年12月12日 | オヤジのつぶやき


日本のほぼ中央に位置する関ヶ原は 北を伊吹山脈 南を鈴鹿山脈に囲まれた盆地にあります

古くから東西の交通の要衝として 軍事的にも重要な役割を果たしてきました



慶長5年(1600)9月15日 前夜に大垣城を出発した石田三成率いる西軍が

関ヶ原西方に布陣を完了したのが 午前5時ころのことでした

笹尾山 三成の陣営です



家康の代わりに 熊が出没するようです

しかも この看板は真新しいものです  最近出たのでしょうか  ビビリました

当時の武将 兵たちの勇気に尊敬の念を強くしました



「三成に 過ぎたるもの二つあり 島の左近に佐和山の城」とうたわれ 三成が

かって自分の禄の半分をわけ与えて召抱えた 島左近勝猛

この名のとおりの猛将で 左近の馬上姿を見ただけで東軍兵士たちが恐れ慄いたといいます



開戦地です  合戦場のほぼ中央にあたり 東軍の福島正則が 井伊隊の抜け駆けに怒って宇喜田隊を攻撃した場所です

後に八丈島に流され 84歳の生涯を全うした宇喜田秀家でした

ちなみに 後輩で秀家の子孫がいますよ  やはりなかなかの人物です



この辺りまで来て 気づいたことがありました

この古戦場 想像していたよりかなり狭いのですね

ここへ兵士だけで20万人!  兵糧担当の者たち その他を入れると大変な数になるはずです

映画やテレビの関ヶ原合戦は 雄大なスケールで描かれています

実際の場面では 新宿・渋谷のような雑踏の中での大混戦になったのではないでしょうか

三成が島津義弘の出陣を促しに行くのも お約束の場面です

その距離が 意外に近いのです  ほんの隣近所のようなものでした



小西行長の陣跡です 京都から来ていた女子大生のふたりでした

歴史が好きなふたりには「影武者徳川家康」(隆 慶一郎)を紹介しました

熊の件は事実らしいです  レンタサイクル屋で注意するように言われたそうです

大谷吉継陣跡あたりにも出没したらしい

冬の日は短く 道にちょっと迷ったり 日も落ちてきました

残念ながら このあたりで帰路につきます

負ける戦と覚悟しながらも 三成との友情に殉じた敦賀藩主の墓には もう一度訪れます



家康に一斉射撃の催促をされ ついに寝返った小早川秀秋隊が布陣していた松尾山です

若干19歳の武将の決断が 関ヶ原の運命を決めました

彼は2年後に 狂死したと伝えられています



西首塚です  戦死者が埋葬されました



ホームから見た夕日です

関ヶ原の駆け歩きが終了しました

長い記事を読んでいただきまして ありがとうございました

百聞は一見にしかず。。いろいろ感じた「関ヶ原」でした


翌日からのI県の研修。。

スムースに入ることができました