酒と畑に戯れるオヤジな私

酒を飲み、土を耕し、人と語り、日々に感動しながら楽しく生きるブログ

胸突き坂で鍛錬?

2015年02月02日 | 坂道


文京区目白台にある「胸突き坂」です

名称のとおり かなりの急坂です



愛車の電動アシスト自転車”オジ3号”も押しながらゆっくり下ります



胸突き坂を下れば神田川

神田川といえば松尾芭蕉です (かなり強引な展開になりましたが)


というのもこの神田川  芭蕉が延宝5年(1677)から8年にかけて神田川改修工事に参画し

「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられているのです

後に世人は「関口芭蕉庵」と呼びました





深川の芭蕉庵に移る前 奥の細道出立に備えて この胸突き坂で足腰の鍛錬をしたのではないか?

江戸時代 深川は埋め立て地で平坦な土地でしたからね


愉快な想像をしながら 帰路 椿山荘でコーヒータイムを楽しんだ冬の一日になりました


なお その後の「芭蕉論争」ですが AR区はJR常磐線の南千住駅前に「芭蕉奥の細道出立の石像」を建てることになりました

広報の一面は芭蕉だらけ 果たして相手のAD区はどう出てくるか

今後とも目が離せません

鷺坂 (さぎざか)

2014年12月25日 | 坂道
久しぶりの「坂道」登場になりました

東京文京区音羽界隈です

講談社 護国寺 音羽会館 椿山荘 フランスパン発祥の地と名所旧跡がありますが いずれのご紹介といたしましょう



鷺坂」(さぎざか)です

鋭く折れ曲がった坂を 鷺坂と呼んだのは堀口大学 三好達治 佐藤春夫といった近くに住んでいた文人たちでした

久世大和守の江戸屋敷であったことから 一帯を久世山と呼び 京都山城国にあった久世郡になぞらえて

万葉集に詠まれた「久世の鷺坂」と同じ名を与えました

両側を石垣に囲まれ 坂の美しさでは京都に優ると言われています


文京区内100か所近くある坂の中でも 景観随一の鷺坂です

江戸時代 広重が描かなかったのが不思議な思いがしますね


そこで 代わりといってはなんですが 鷺坂の近くにある神田川


ここはしっかり作品に残していましたよ

               

              <せき口 上水端はせを庵椿山>     江戸川橋より望む神田川

               関口上水端 芭蕉庵 椿山

幕府が江戸への水を供給するために掘った神田上水でした

伊賀上野の藤堂家が上水の改修工事に当たりました このとき 伊賀上野出身の芭蕉も旧家の縁でこの工事に従事しています

後年 芭蕉を師と仰ぐ人たちが上水沿いの台地に芭蕉庵を建てました

この絵の右端に描かれていて 現在復元されています


さらに「椿山」は椿山荘としていまに名を留めています


このところ 図書館に通っては浮世絵の本を借りることが多くなりました

竹村公太郎氏の歴史本の影響でしょうが 新しい発見の喜びを感じています

ひとつのご縁の広がり 面白いものですね


振袖火事 本妙寺の変だな

2014年09月23日 | 坂道
江戸の大半を焼きつくし およそ10万人が焼け死んだといわれる明暦の大火

通称 振袖火事は明暦3年(1657年)に起こりました 火元は本郷にあった本妙寺といわれています

名刹本妙寺には江戸後期の町奉行 遠山の金さん 北辰一刀流の祖千葉周作の墓もありました

寺は 明治43年に豊島区へ移転しています



現在 本妙寺坂の跡地にはマンションが建っています


明暦の大火がなぜ振袖火事と呼ばれるのか 伝承されている由来によれば・・・

① 麻布の質屋の一人娘梅野が母親に連れられて 菩提寺の本妙寺にお参りをした

  そのときすれ違った寺小姓風の美少年に魅せられた

  梅野は母親にねだって その少年が着ていたのと似た振袖をあつらえて 少年を恋し続けるが

  明暦元年1月16日哀れにも17歳で亡くなってしまう

  両親は梅野の棺を振袖で覆い本妙寺に納めた

  住職は前例に従って古着屋にこれを売った

② ところが 翌年の梅野の命日に上野山下の紙問屋の娘の葬儀があったが 奇しくも同じ振袖が

  本妙寺に納められた

  住職は同様に古着屋に売った 娘は梅野と同じ17歳だった

③ 翌々年の梅野の命日 今度は本郷元町に住む娘の葬式があり またその振袖が寺に納められた

  この娘も17歳であった


住職はあまりの偶然に驚き 3人の娘の親と相談して明暦3年1月18日 大施餓鬼をして

最後に振袖を供養のために焼いたのだが その振袖が空中に舞い上がって 本堂内の経文や

障子などに燃え移り 屋根を焼きたちまち周囲に燃え広がったという

江戸城天守閣まで焼失したこの大火は 3日間燃え続けた


以上の挿話が 現在まで伝承されている「振袖火事」です



しかし これだけの大火災の火元であったにかかわらず 何故か本妙寺にはなんのお咎めもなし

本能寺の変ならぬ「本妙寺の変だな」

誠に変な話ではあります なにか裏があるのではないか? 勘ぐりたくなりますね


やはりありましたよ ある噂が・・・

実は火元は本妙寺に隣接した さる大名の屋敷ではないかというんですね 火の不始末 お粗末

対面を考え 犯人を本妙寺にすり替えた?

本妙寺は失火の身代わり?

幕府も真相を知っていた?

さらに 噂には尾ひれがついて 明治維新までの長い間 本妙寺には毎年その大名家から

莫大な寄進があったというのです  200年以上にわたって寺へのお礼が引き継がれてきのでしょうか


いまとなっては かの本能寺の変と同様「本妙寺の変だな事件」の真相は深い霧の中です

これが歴史の面白さでもありますね

跡地に建てられたマンションを眺めながら しばし瞑想にふけるオヤジな私でございました

本郷金魚坂

2014年09月11日 | 坂道


樋口一葉ゆかりの本郷「菊坂」の一角を右に曲がったところにある その名も「金魚坂」です

細い道で先は ゆるやかな上り坂になっています

実は この坂には名前がありません  「金魚坂」というのは 坂を上がり切ったところにあるカフェの名です



「カフェ金魚坂」 食事 コーヒー 中国茶が楽しめます  なぜか葉巻も・・

経営者の本来の仕事は 金魚の卸売りと小売りです



カフェの奥で ランチュー りゅうきん ピンポンパールなど約30種類 5万匹の金魚が飼われています

最近 姿を見せなくなった”金魚売り”のオジさんたち 昔はここが出発点だったのでしょう

「金魚~エ~~きんぎょ~」 風鈴の音とともにオジさんの売り声が懐かしい

夏の風物詩でした その鍛えられた声を聞いただけで涼しくなったものです



というのもこの店 江戸時代からなんとなんと350年続き 当代は7代目の女将です



カフェは14年前から始めました

「金魚にもっと親しんでほしい」というオーナーの思いが カフェ開店につながりました



散歩のTV番組で 若大将加山雄三さんが立ち寄っていました


それにしても金魚坂 坂の名称を個人で命名したかのようです 

一見 あの細い坂道が金魚坂かと思わせますね

もちろん公の地図には載ってませんが 坂の名前でなくカフェの名前なのだから まぁよろしいのでしょう


これぞ 近くに住んでいた樋口一葉にも愛されたであろう 金魚業350年の歴史と貫録というものですね

弥生式土器 危機一髪!

2014年08月28日 | 坂道
「自転車散歩」の達人 中村雄昴氏曰く

「文京区はひとつの城である いたって堅固な要塞に見える

理由は 全体の大半が台地にあって あたりを見下ろしているからだ」

なるほど 文京区は23区の中央にあって高台に位置して 坂の多い街です

区がまとめた冊子「ぶんきょうの坂道」によれば 坂の数はなんと113

”下り坂は人生最高”(火野正平さん)であっても上り坂の自転車は難儀をします


113か所の坂のひとつ ここは暗闇坂です



なだらかな下り坂で 右は東京大学です

道幅も広く 穏かな坂ですが 江戸時代は暗く恐ろしげな坂だったのでしょう

なにしろ名称が「暗闇坂」ですからね

そしてこちらが暗闇坂の近くにある「弥生坂」 明るい春の息吹を感じさせる坂です



この坂は根津 谷中 鶯谷~ 浅草の言問橋に通じています


ところでご存じ「弥生式土器」

縄文時代の次が稲作の時代で「弥生時代」になります

土器・時代の名称は 実はこの地の町名から採られました

ここの町名は 新住居表示(町名変更)以前は文京区向ヶ丘弥生町・・・現在は文京区弥生です



明治17年 東京帝国大学の三人の学生が 弥生坂付近の根津谷に面した貝塚から

縄文式土器とは異なる赤焼きの壺を発見 弥生式土器と命名されました

以来 ”縄文の次なる時代”は発見地の町名に定着しました 弥生時代の誕生です


ところが 昭和40年頃 弥生時代と弥生式土器危機一髪の事態が発生!

時代は旧町名を改める”新住居表示”の嵐が吹き荒れていました

都内の由緒ある町の名が消えていきます

ここ向ヶ丘弥生町も 隣接の”根津”に統合される計画が判明します

立ち上がったのが 当時文京区の住民であった詩人のサトウ ハチローさんと作家の玉川一郎さん

当時の首長さんの部屋に駆けつけ直談判です

「弥生の町名を残していただきたい」

首長さんも即決断されて”弥生”の町名が復活することになったのです

あわや”根津式土器”になりかかった弥生式土器でした



いまに残る閑静な住宅街の文京区弥生地区です

ハチローさん 一郎さんに感謝してるような佇まいでした


米 カテゴリーの「坂道」 久しぶりの登場でした オジ3号活躍のチャンス 坂道尋ねる自転車紀行を続けてみます ※

ほうろく地蔵尊

2013年03月04日 | 坂道


この坂の正式名は「浄心寺坂」といいます

”小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方 本郷駒込東片町へ上る坂あり

 浄心寺坂といふ (新撰東京名所図会)

浄心寺近くの坂なので この名がつきました

また 坂の下には「八百屋於七」の墓所 円乗寺があることから「於七坂」の別名もあります

現在では「お七坂」と呼ぶ人が多勢を占めています





天和二年(1682)に起きた天和の大火のあと 恋仲になった寺小姓の吉三郎恋しさに

放火の大罪を犯して火あぶりの刑を受けた八百屋お七

数えで16歳であったといいます

円乗寺の門前に供養の地蔵尊がありました

いまでも参拝客が絶えません


この地蔵尊の存在は以前から知っていました

この日の散策で 偶然にもお七関連の新たな地蔵尊を発見!



旧中山道に面した「ほうろく地蔵尊」です



寺の由来によると お七の罪業を救うために 熱した焙烙(ほうろく)を頭にかぶり

自ら焦熱の苦しみを受け入れたお地蔵様とされています


いまも昔も放火は大罪です

火災で生命・財産を一瞬にして失ないます

その 放火の罪を犯したお七に対するこの優しさは どこからきているのでしょうか

罪を憎んで人を憎まず

よく耳にする言葉ですが 江戸人の心意気と優しさ ここに極めり!

こう感じるのは このオジさんだけでしょうか?


人と人との関係 人情が希薄でなかった時代だったのでしょうね


湯島・小石川を歩く  (2)

2009年02月16日 | 坂道
「富坂」を登りきって右に曲がると 伝通院に突き当たります



伝通院は 徳川家所縁の寺院で 家康の生母"於大の方”孫の"千姫”の墓等があります

また 幕末に浪士隊を結成 結果的に新撰組の「生みの親」となった清河八郎も眠っていました

そういえば 浪士隊が京に上るとき 近藤勇 芹沢鴨をはじめ数百名の浪士が集められたのが ここ伝通院でした

庄内藩出身の清河八郎の墓があるのも頷けますね

* 柴田練三郎  佐藤八郎の墓もあります *


オジさん三人は さらに「善光寺坂」へと向かいました 

すると・・

道の真ん中に大きな木が



そうです  ここが かの「小石川の家」でした

大木の左側が 現在 作家の青木玉さんの家です



彼女の祖父幸田露伴 母の幸田文さんの時代には この大木は家の敷地内にあったようです

青木玉さんの著作「小石川の家」がテレビ化されたとき(露伴役は森繁久弥さん?)は 画面の庭にあった記憶があります

ただいま老人大学で 幸田文さんの研究をしている仲間のAさんです



「うん うん なるほど・・これは仲間に自慢できるな」 大喜びしてました


ここまでで 万歩計は8000歩に達しました

「旅」は まだ続きます

印刷と製本業がひしめく街並を歩いて 到着したのが「小石川植物園」でした



小石川療養所(山本周五郎 赤ひげ診療譚)跡地に残る井戸です

吉宗の時代から幕末まで 140年余り 江戸庶民の療養施設として機能しました



平日だからでしょう こちらは一眼オジ・オバ大集合の「カンザクラ」です





早速 同世代の桜のごとき六人組に撮影を依頼されたAさんです



彼女たちからのお返しの写真ですが 人間よりも桜が主役に見えるのは僻みでしょうか

はたまた 足の短いのをカバーしてくれたオバごころか いまだ謎です


ま 気を取り直して ・・



梅の剪定です シルバーセンターの会員さんです 頑張っていました  元は植木職人さんでした

先輩方の元気な姿を見るのがいちばんですね



湯島の梅に始まり 植物園の梅に終わった今回の友の会

先日 事故で亡くなった仲間のKさんを偲びながらのカメラ旅でした


湯島・小石川を歩く  (1)

2009年02月13日 | 坂道
三人のオジさんたちで 昨年結成された一眼レフ友の会です

全員が充分暇なはずなのですが 七ヶ月振りに集まりました

坂の街 文京区巡りです



まずは お馴染みの湯島天神「男坂」・・・梅祭りです

男坂はかなりの勾配です

会員の平均年齢は 67、33歳になりました

迷うことなく 穏やかな「女坂」を選びました  異を唱えるものはいませんでした

* 実はあのとき 私は反対だった・・こじれてしまいますからね

坂の下で いつものように 店を開いていたのがこちらの方でした



書き出された鑑定実績が凄い!

美空ひばり 森 進一 松田聖子 ビートたけし 志村 けん 山田邦子・・・

人間国宝の貞水さんの名前も書かれていました

写され慣れているんでしょうね~  一眼レフのパシャパシャ音にも泰然自若

じっくり小説?を読んでいました  信頼感のおける態度といえましょう

変にお世辞を言ったり 笑顔をみせたら「軽く」思われるんでしょうね

ま オジさんたちの将来は たかがしれてるようですから そっと離れました



梅園は 平日にもかかわらず五分の入り・・

梅は 三~四分咲きというところでしょうか



暖かい甘酒を飲んでからの撮影です

(酔ってませんね  ピントは合ってるようです)



天神様名物の猿回しです  大ジャンプに成功の瞬間です

大きな拍手を送った若い人たち・・

合格お礼に出かけてきたのでしょうか


多いに笑わせてもらって 天神様をあとにしました


岩崎弥太郎邸の脇を通る「切り通し坂」を昇って「菊坂」に着きました

同好のAさん Sさんが大喜びしたのがこちらです



この近くに 宮沢賢治が下宿していたと伝わっています

木造3階建ての昭和 いや 大正時代らしき家屋です

ふたりは あらゆる角度からシャッターを押していました

そして・・・「菊坂」といえばなんと言っても・・



樋口一葉も使用したであろう井戸です

いまだ現役であり 災害時には大活躍しそうですね

オジさんたちより先輩なのは間違いないでしょう

Aさんは 井戸の周りをやさしく撫でたりしてました  同年輩に親しみを感じたんでしょうね


いまだ現役真っ盛りの井戸から勇気をもらった一眼レフ友の会の面々

「富坂」に近い”いろは寿司”で昼食になりました

ちらし700円 熱燗300円 おしんこ 味噌汁付きです

ガソリン満タンとはいえませんが これで勇気凛々

「富坂」を一気に駆け上りました


以下 小石川編につづく


胸突坂  (都電 荒川線を歩く その2)

2007年02月22日 | 坂道


請願の署名活動も胸突き八丁に差し掛かっています みなさまの ご協力に感謝いたします  そしてここは胸突坂。。 前回の続きです

「胸突坂は牛込家の屋敷の脇なり 此坂を下れは上水(注・神田上水)のはたなり

あまりに坂のけはしくて胸をつくはかりなれは名付という」(ご符内備考)

昔から 急な石段坂で有名です  急なけわしい坂には 江戸の人がよくつけた名で 文京区内にはほかにも2ヶ所あるそうです

神田川を背中にして 登りはじめました  激を飛ばしてオッチラと。。

降りてくるおじさんにも精一杯の笑顔で「こんにちわ!」



神田上水を守護する「水神神社」です  これから先の歩きの安全祈願!



勢いをつけて登り切りました  そして 左にあったのがこちらの建物

旧熊本藩 細川家下屋敷跡です  細川家所蔵の美術品が集められています

今日は素通りしました  折をみていつかまた。。。


目白通りにぶつかりました  なんの変哲もない児童公園ですね  ところがこれは。。。



30年前には かの永田氏の屋敷がありました  大映映画  オリオンズのオーナーでしたね

「永田ラッパ」のニックネームが よく似合った方でした

ベンチで休憩  また歩き始めます



児童公園の前には ポンジョ  そうです日本女子大学です

女子大生がワラワラと闊歩しています  おじさんの姿は見えません

おじさんの心境としては なぜか”すまない  ごめんね  早く消えるね”

妙に 謝りたくなる気持ちがフツフツと湧いてくる 不思議な環境・風土でしたね(笑)


やっと 落ち着きを取り戻したのが こちらの門前でした



どなたの邸宅でしょうか

そうです  かの 今太閤と称された御仁のカクさん  スケさんではありません(笑)

”ま その~ よっしゃ よっしゃ”の角栄さんの邸宅でした

このとき 疲れた全身に 突如 降ってわいたようにエネルギーが満たされたのです!  

バスで目白へ出る予定が 一気に変更になったのです  恐るべきマキコ・パワー

あなどれません  自然に足が 目白の反対方向に向けて動きだしたのでした


さすがに 休み休みでしたが パワーに押されて着いたところがここです



梅が 真っ盛りの湯島天神です



特別に設けられた「絵馬展示特別出張所」です  展示しきれないので ほかにも
2ヶ所の”出張所”がガンバッていました

道真公も 絵馬をかきわけ かきわけ受験生の願いを叶える  ご苦労さまです


そして さしもの長距離お散歩が 終着を迎えます



上野 不忍池に出てきました  疲れを しのいで歩いてきたのに しのばずの池(バシッ)



鴨たちに 餌をやるやさしいおじさん  奥さんと娘さんがソッポを向いてたのが気になりました

誰でも 家庭の事情があるのでしょうね  これぞ人生です(笑)



この 石段を登れば京成電車は すぐそこです  胸突坂の石段から再開した今回の散策

石段坂道で終了です  

茶店で休んで 帰路につきました

いい 散歩になりました  これも車検のおかげです

使ったお金は 都電160円 自販機コーヒー120円(茶店) 京成150円

〆て430円の”省エネ”プチ旅行といってもいいでしょう


省エネといえば エコプチテラス存続請願署名のご協力の数々 ありがとうございます

再度 お礼を申し上げます

Hさんのところには 多くのブログ友の方々からの署名用紙が郵送されています


<おまけ>

今回登場の 細川・田中邸は 歴代の総理縁の建物でした

実は この区には ほかにも総理をされた方がいます

戦後の総理大臣 鳩山一郎氏です

たまたま ブログ友の東京老人さんが 訪問されていました

ご訪問ください  一般開放されていました



追記

2月22日の夜 Hさんから連絡がありました

署名をいただいた方が1200人を超えました

この場を借りて お礼を申しあげます

ありがとうございました














 





富士見坂  人情の蛸八

2006年11月25日 | 坂道
来週の研修準備のため 今日は家で過ごしました

運動不足にならないために 夕方になってから自転車で出かけました

行った先は「富士見坂」  名人 故古今亭しん生さんの家の近くにあります



ここは都内でも 有数な富士山の鑑賞地です

残念ながら 富士山との対面はなりませんでした


自転車のハンドルを坂の下に向けました

下町ウォッチャーと 買い物客で今日も賑わう 谷中商店街です



さらに 競い合う。。



よみせ通り商店街です

どちらも 昔ながらの商法で お客の気持ちを捉えています


その代表ともいうべきは こちらのお店です



ラーメン店の 蛸八(たこはち)です

私の現役時代は スナックでした

ママさんが ひとりで切り盛りをしていました


そんなある夜 酩酊した私はトイレに財布を落としました

気づかず 家に帰ってしまった酔っ払い。。

電話が鳴りました  ママさんからでした

見知らぬお客さんが拾ってくれたのでした

洗面台に落ちていたそうです


こんなエピソードが いくらでもある下町の商店街です

人と人との昔ながらの交流が それぞれの店の繁栄を支えているのでしょう