戦国時代の武将で レキジョたちにも人気の高い大谷吉継です
越前敦賀五万石の大名として 石田三成に請われて関ケ原に出陣 戦場で戦死した唯一の武将です
先日 愛知県の友人Kさんから手紙をいただきました
近況のお知らせとともに「資料」が入っていました 冊子「歴史研究」のコピーでした
機関紙への寄稿者は 全国歴史研究会本部会員の大谷幹伸氏です
”大谷刑部吉隆と その孫刑部吉刻の石碑が 埼玉県東松山の無量寺にあります
しかし それは忘れさられています”
これは驚きでした 大谷吉継が関東 それも埼玉県と所縁があったとは!
それも畑の近くです! 早速行ってきましたよ
寄稿文の内容の概略です
大谷吉隆(吉継)は 天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏攻略の一環として 武州松山城攻めをしたとき「無量寺」に程近い「八幡神社」に布陣したとされています
大谷吉継が 松山城攻略時に布陣した「八幡神社」です
420年前 この神社で 吉継はなにを思っていたのでしょうか
10年後の関ケ原合戦 自分の運命を想像していたでしょうか
そして こちらは神社に近い「無量寺」です
南無阿弥陀仏・・・大きな石碑が建っていますね
石碑の裏面を近くで見ると・・・
”大谷吉隆(吉継)の姓は平で 従五位下に叙せられ形部少輔と称し 大谷平次郎盛冶の子である”
これで 秘かに抱いていた夢 「吉継は秀吉の隠し子 ご落胤」の夢が消えました
”豊(秀吉)太閤に仕え 越前州敦賀城主となり五奉行に列せられた
慶長五年九月十五日に美濃州関ケ原で戦死”
その吉継の石碑がなぜ現在の東松山に・・・?
これも 石碑に記されていました
”吉継の孫 吉刻が武蔵州比企郡野本(埼玉県東松山市上野本)に来て没した
文政三年(1821) 祖先を祝うために碑を建立した”
関ケ原から221年経過したとはいえ 世は徳川幕府の時代です
徳川の敵 西軍の武将の石碑です 幕府はよくぞ建立を許可したものです
敵の武将とはいえ 吉継の律儀さ 男気が当時から評価されていたのでしょうか
ともあれ 吉継の石碑が意外なところにありました
これも 年に一度お会いしている愛知県のKさんとの交流のおかげです
歴史には まだまだ意外な事実が隠されているんでしょうね~
そして 突然ですが・・・
八幡神社・無量寺を掘ったわけではありません
見学のあと 畑でナス用の畝を掘り始めました 例の「塹壕」です
この日は 朝六時に出発しました
大谷吉継の石碑を堪能し 畑仕事は九時には開始! 気分よく畝作りに励みました
Kさんに感謝!
越前敦賀五万石の大名として 石田三成に請われて関ケ原に出陣 戦場で戦死した唯一の武将です
先日 愛知県の友人Kさんから手紙をいただきました
近況のお知らせとともに「資料」が入っていました 冊子「歴史研究」のコピーでした
機関紙への寄稿者は 全国歴史研究会本部会員の大谷幹伸氏です
”大谷刑部吉隆と その孫刑部吉刻の石碑が 埼玉県東松山の無量寺にあります
しかし それは忘れさられています”
これは驚きでした 大谷吉継が関東 それも埼玉県と所縁があったとは!
それも畑の近くです! 早速行ってきましたよ
寄稿文の内容の概略です
大谷吉隆(吉継)は 天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏攻略の一環として 武州松山城攻めをしたとき「無量寺」に程近い「八幡神社」に布陣したとされています
大谷吉継が 松山城攻略時に布陣した「八幡神社」です
420年前 この神社で 吉継はなにを思っていたのでしょうか
10年後の関ケ原合戦 自分の運命を想像していたでしょうか
そして こちらは神社に近い「無量寺」です
南無阿弥陀仏・・・大きな石碑が建っていますね
石碑の裏面を近くで見ると・・・
”大谷吉隆(吉継)の姓は平で 従五位下に叙せられ形部少輔と称し 大谷平次郎盛冶の子である”
これで 秘かに抱いていた夢 「吉継は秀吉の隠し子 ご落胤」の夢が消えました
”豊(秀吉)太閤に仕え 越前州敦賀城主となり五奉行に列せられた
慶長五年九月十五日に美濃州関ケ原で戦死”
その吉継の石碑がなぜ現在の東松山に・・・?
これも 石碑に記されていました
”吉継の孫 吉刻が武蔵州比企郡野本(埼玉県東松山市上野本)に来て没した
文政三年(1821) 祖先を祝うために碑を建立した”
関ケ原から221年経過したとはいえ 世は徳川幕府の時代です
徳川の敵 西軍の武将の石碑です 幕府はよくぞ建立を許可したものです
敵の武将とはいえ 吉継の律儀さ 男気が当時から評価されていたのでしょうか
ともあれ 吉継の石碑が意外なところにありました
これも 年に一度お会いしている愛知県のKさんとの交流のおかげです
歴史には まだまだ意外な事実が隠されているんでしょうね~
そして 突然ですが・・・
八幡神社・無量寺を掘ったわけではありません
見学のあと 畑でナス用の畝を掘り始めました 例の「塹壕」です
この日は 朝六時に出発しました
大谷吉継の石碑を堪能し 畑仕事は九時には開始! 気分よく畝作りに励みました
Kさんに感謝!
レキジョでないことを自認していますが、故郷に残る歴史上の人物は気掛かりでした。
北畠親房の墳墓に行って、どうしてこんな寂しい山の中にひっそりと・・と思っていましたら、思わぬ土地に神社が建立されていることをつい最近知ることができました。
オヤジな私さんの今日の記事を拝見して、それを思い出したのです。
http://yamato1936.at.webry.info/201003/article_26.html
ちょっと事情があって、ごく短い間こんなことを書いていました。
お時間があるときご覧ください。
畑への出動気合を入れて早い時間のご出陣でしたね。
歴史って、意外と知られていない事が多いですよね。テレビとか本などとは違うことが発見されたりすると、楽しいことがありますね。
じい様も、歴史が好きで、ドライブは、もっぱら神社、お寺、方面です。
吉継公のお墓のあたりの雪ももうすでに溶け、緑がイキイキとしてきていることでしょう・・。
あの時、お車に貼られたシールはいずこへ???(お車が変わったのですよね。)
お湯飲みは活躍されておられますでしょうかしら(笑)
のこたんは、もう少々春眠するつもりです。
大谷公好きのオヤジな私様には堪らないKさんからの情報提供、感謝感激ですね。
O町や師匠Yさんとご縁も大谷公が導いてくれたのではないかなんて思ってしまいます。
ところで、あのマイぐい呑みは今でも大切にしてありますか。
畑仕事、ナスの苗床作りも腰痛なんてなんのその、意外な喜びで勢いづいたことでしょう。今年の目標は何個ですか?
>anikobeさんへ
わが町の霊峰宇津峰山(うつみねさん)にも「星が城」またの名を「雲水峯」ともいう南北朝時代の山城跡があります。
北畠氏の三つの祠が祀られていて、今月29日がそのお祭りと山開き(登山大会)になってます。
皆さんの話題とは離れて少々恐縮ですが、塹壕堀 ご苦労様でした。幅の長さが気になりますが、写真から見て1m位でしょうか?こちらは せいぜい幅50㎝程度、長さ2m位の一畝のみです。そうなんです、ナスの苗は5,6本の予定ですので… 後は キュウリ、トマト用に 二畝 肥料を少なめに作ってみました。
茄子の畝の準備を始めましたね。
我が家も少しでも始めて欲しいと思いますがなかなか重い腰が上がりません。
今年も遅くなるでしょう。
多少遅くてもそれなりの収穫ができる夏野菜に期待してます。
南北朝時代の日本も同じような状態だったのでしょうね。
「つぶやき」を拝見しました。anikobeさんの側面を拝見できました。演歌もいいですね。
井沢元彦の「逆説の日本史」シリーズを愛読しています。第七巻「太平記と南北朝の謎」があります。いま一度読みたくなりました。
交通機関もままならぬ時代です。どうしてこの場所に? ミステリーですね。想像と好奇心が広がるばかりです。
平日でも"早朝出勤”なら意外に早く到着することを知りました。
これからも、ときには試してみましょう。
意外なところに意外な人物の足跡が・・
嬉しいですね。堪りませんね。
自分が歴史学者になった気分になります。
ご主人も歴史好きですね。
歴史はロマン、夢を運んでくれます。
人間関係の勉強にもなります。
お元気そうですね。なによりです。
関ケ原の吉継公のお墓もレキジョをはじめ。みなさんの献花で華やかになってきたでしょうね。訪れたときを思い出します。
湯飲みは使っていますが、シールはテラノとともに去っていきました。
関ケ原・・また行きたいですね~
いましばらく春眠ですね。ゆっくりしてください。目覚めをお待ちしてます。