「美しい村」の議員日記

南アルプス山麓・大鹿村在住。自給自足農業、在宅ワーカー、2011年春より村議会議員。

飯舘村報告会など

2011年08月08日 | 脱原発
 お隣の中川村で、8月5~7日の2泊3日、原発事故で全村が計画的避難区域になった福島県飯舘村の人たちを夏祭りに招いた。
故郷離れた気持ち共有を 中川の夏祭りに飯舘村民招こう
飯舘村民 中川村の竹灯籠がお出迎え 祭りに合わせ招く
福島県飯舘村の住民を招き「中川どんちゃん祭り」
 同じ「日本で最も美しい村」連合の一員でもあり、大鹿村、大鹿村議会も報告会を共催という形でかかわった。せっかくだから、報告会だけでなく、できるだかかわりたいと思って、お迎えのキャンドルナイトから参加。

 横向きになっているけれど、ガラスびんに入れたキャンドルを飯舘村のマークの形に並べてある。真っ暗になる前の薄暮の時間帯、柔らかなみつろうキャンドルの光がとてもきれい。


 竹灯籠がたくさん並べてある。節のところを目の形にくり抜いて、かわいらしい笑顔のよう。


 こちらのオブジェには、右側は「絆」、左側は「結」の文字が彫り込まれている。
 これらの約1000個のキャンドルの優しい光に包まれて、ミニコンサートが行われた。フルートや歌やらいろいろあったけど、西洋のこぎりのような楽器の不思議な響きが面白かった。最後には、大きな輪になって、飯舘村の村歌をみんなで歌う。

 6日の午前中は、菅野村長と、よさこいソーラン「いいたて愛」の長谷川さんのお話をお聴きする。
 菅野村長からは「『おカネの世界』から『いのちの世界』へ」と題して、飯舘村がこれまで進めてきた「までい」(※)という言葉に象徴される村づくりの話、原発事故を受けてのお話をいただいた。外から見ていると、ホットスポットになってしまった飯舘村から、なぜもっと早く遠くに避難しないのかと心配になるけれども(もちろん、汚染状況が分かっていながら知らされず、当初、避難区域にもされなかったことの、政府の対応のひどさは言うまでもないが)、何せ6000人の人口の村に3000頭の牛がいたところだ。仕事の問題や、家族がばらばらになってしまうことの大変さ。周囲の先に避難したところの状況を見ると、特養や病院などの高齢者は、避難自体の大変さで亡くなられる人も多かったとのこと。それでも、今はほぼ全村避難が完了し、県外に500人くらい、移転した役所近辺に5000人くらいが移り住んでいるという。村の消滅は何とか避けたいということで、特養など屋内作業の事業所が8~9社残り、また防犯パトロールも実施しているそうだ。そういう話を聞くと、従事される方の被曝量が気になってしまったりもするし、本当に状況は厳しい。
 せめてあの原発事故が、経済優先、足し算の世界ではなく、引き算の豊かさ、いのちの世界、人の絆の素晴らしさが気付く一つのきっかけになっていただかないと、私たちの苦しい厳しい避難生活があまりにも空しくなるというお話に頷きながら、改めて、何としてもこの「3・11」を、みんなで日本の社会のあり方を変えていくきっかけにしないといけないという思いを強くする。
 長谷川さんは、かつて「若妻の翼」という、若いお嫁さんたちをヨーロッパ研修旅行に派遣する事業でヨーロッパに行かれた方で、「村が人を育ててくれた」という言い方をされていた。村長さんのお話が概括的、理念的なお話が多かったのに対して、長谷川さんのお話は原発事故時の具体的な状況が伝わってきて、涙がこぼれる。報告会には役場の車で行ったので、いったん大鹿に帰ったけれども、ぜひとも彼女たちの踊りを見に来なくてはと思って、夕方また「どんちゃん祭り」に出かける。


 飯舘村の虎捕太鼓の皆さん。女性ばかりの太鼓のグループ。


 「いいたて愛」の皆さん。
 どちらも、避難生活でばらばらになっていたのを、中川村のお祭りがきっかけで再び集まって練習されたという。


 飯舘村のみこし。いろいろなメッセージが寄せ書きされている。
 
 両日とも、大鹿村を出るときはどしゃぶりの雨だったけれども、ダムの所のトンネルを抜けると、路面が乾いていて、5日は虹もかかったとか。6日の夜は一時少し雨も降ったけれども、大したことなく、お天気もちゃんと応援してくれているのだなと思った。

※「までい」については、ぜひ本棚にも登録した『までいの力』をご覧ください。本の帯に「繋がっていれば、決して負けない」という言葉がある。飯舘村の人たち同士の繋がりとともに、今回みたいな飯舘村をはじめとする被災地の人たちと他地域の人たちの繋がり、ネットワークが広がっていくことが、きっと大きな力になるに違いないと思った。

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