「美しい村」の議員日記

南アルプス山麓・大鹿村在住。自給自足農業、在宅ワーカー、2011年春より村議会議員。

鳶ヶ巣復旧治山工事

2019年12月19日 | 地震・防災
 昨日は午前中、治山工事の、午後は砂防工事の現場視察があり、治山事業所や砂防出張所の方々から工事の現場を見ながらお話を伺った。
 最初に行った場所が鳶ヶ巣復旧治山工事の現場。治山事業は大崩壊地の中腹より上部で行われているが、下部の河川区域で今、リニア残土を活用した事業が計画されていて、その安全性について第三者機関により検討されている。
 この崩壊地(昔はアカナギとかオオナギとか言われていたらしい。崩壊発生時期は不明で、明治以前からの崩壊地)では、昭和39年から復旧事業が延々と行われているが、蛇紋岩化したかんらん岩で、強アルカリのため植生が定着しにくい上に鹿の食害もひどく、さまざまな緑化工法の試験を行いながら復旧を図っているという。毎年6月定例議会の会期中に治山懇談会が行われていて、パワポを見ながら説明を伺ってはいるが、今回は現地で間近に見学することができた。日頃、対岸の上蔵からは見ているものの、崩壊地の中まで入って事業の様子を見るのは初めてで、改めて本当に大変な工事を延々と続けられていることが実感できた。
 緑化が大変厳しい中で、木の緑がちょっと見えるのはアカマツで、こうした厳しい条件下でもアカマツだけは定着しているものがあるそうだ。
  

 奥に見えるのは上蔵集落。


防災訓練など

2011年07月24日 | 地震・防災
 17日に地すべり地を見学した後、19日には、農業委員を決めるための臨時議会の前に、治山懇談会が行われた。

 この日、昨秋村内で撮影された「大鹿村騒動記」の主演、原田芳雄さんの訃報を、全員協議会の場で村長よりお聞きする。映画が公開になったばかりで残念というほかないけれども、その後たくさん報道された記事等を読むと、撮影当時も癌の痛みと闘いながらだったそうで、5月の試写会での挨拶、そして、11日のプレミア試写会に車いすで参加された姿といい、この映画に原田さんが寄せてくださる思いがひしひしと感じられて、本当に感謝の念でいっぱいになる。遺作になってしまったこともあって、「大鹿村騒動記」は各地で大勢の人に見ていただいて、とても好評のようだ。私も翌日、5月の試写会に行けなかったつれあいと一緒に、飯田のセンゲキまで見にいった。「大鹿村騒動記」のツイッターアカウント(@ohshika_movie)もできて、連日、見にいかれた方々の感想などがたくさんリツイートされている。

 さて、話は戻って、治山懇談会では、前々日に見学したばかりの小塩の地すべりはじめ、村内で行われている林野庁の森林管理局・治山事業所の管轄する治山事業の説明があった。治山事業所も伊那谷総合治山事業所と小渋川治山事業所とあって、民有林は小渋川治山事業所、国有林は伊那谷総合治山事業所の管轄になっているとのこと。小渋川治山事業所からは、大西山、鳶ヶ巣などの大規模崩壊地で行われている山腹工や土留工などの説明や、桐の久保、河合など、日常的に見ている場所の説明があった。担当者は今春赴任したばかりで、地理的事情にあまり通じていなくて、通り一遍の説明という感じだったけれども、村議の方から気になる所などあれこれお話しする。
 大西山や鳶ヶ巣の上の方で行われている工事の説明を聞くと、こんな大規模な崩壊を人間の微々たる力で止められるものなのかなと思ってしまったり、一方、こんな急な崩壊地でも、鹿の食害対策をしなくては緑化が難しいらしくて、金網でカバーしていると聞いて驚いたり、それも、四角い網だと駄目だけど、亀甲金網だと足が引っ掛かって嫌がるようだとか、細かいところに感心したりする。
 伊那谷総合治山事業所からは、小塩のGPSの話のほか、つい先日崩れた、塩川ルートの登山口である塩川林道の崩壊地の説明があった。最近は登山バスも鳥倉林道に行くので、利用者は少ないのかなと思っていたら、冬季は鳥倉林道が閉鎖になるので、むしろ塩川ルートを利用する人が多いらしくて、早期の復旧をお願いしたいとの声があったが、昨年の調査で地すべりが発生しているのではないかとのことで、そうなると、ただ崩れた土砂をどけただけで通すわけにはいかないので時間がかかるとのことだった。
 また、事業実施効果の説明もあり、城山沢、手開沢、大沢のかつての崩壊箇所の緑化の様子を見せていただいた。

 24日は、三六災害50年の事業の一環で、天竜川(小渋川)合同防災訓練が行われた。早朝には各自治会で避難訓練、その後、交流センターで、国の中部地方整備局や天竜川上流事務所、県、村では役場や消防関係の人たちが参加しての机上訓練が行われ、見学自由とのことだったので、ちょっと様子を見にいった。総雨量300ミリ以上の手中豪雨によって、村内で土石流が3か所、がけ崩れが3か所、国道152号線が寸断、小渋線も法面が崩落して、大鹿村が孤立、小渋川では大規模崩壊により天然ダムが形成という想定の下、ロールプレイング方式による訓練が行われているとのことだった。交流センターのホールが、プレイヤーである大鹿村、中部地方整備局、天竜川上流河川事務所のコーナーに分けられていて、それぞれで動いている。見学者は真ん中の通路とステージから様子を見られるようになっていて、係の方がいろいろ説明してくれた。中部地方整備局の防災ヘリが飛んでいて、ヘリからの画像が通信衛星などを経由して、画面に映し出されるようになっていたが、中継点が多いせいか、時々ちゃんと映らなくなったりもしていた。連絡調整会議が行われて、合同記者会見というプログラムも組んであったが、その前に帰ってきてしまった。報道担当者の席も設けてあったが、私がいた時間帯には報道関係者はいなかった。
 防災GISの画面も見せてもらったけれども、実際、固有名詞の入った仮想情報が出ていて、かなりリアル。非常に過酷な想定だなと思いつつも、三六災害を思えば、決して現実にあり得ない想定ではないわけで、改めてこの地域の、急峻、脆弱で、土砂災害が起こりやすいという特殊状況が認識される。同じ国交省の交通の担当者はこの現実をどこまで認識しているのかな。10年前に作られた村の土砂災害危険区域図を見ると、本当に至るところ、土石流危険区域、急傾斜地崩壊危険区域、地すべり防止区域、地すべり危険箇所、崩壊土砂流出危険地区などの色塗りや囲みがある。

小塩の地すべり地

2011年07月17日 | 地震・防災
 今日は伊那谷自然友の会主催の自然探索ジオツアー「大鹿村の巨大地すべり地で山の動きを探る」で、鹿塩の小塩地区の地すべり地を見てきた。実はこの小塩地区については、6月議会の産業建設委員会の中で、GPSを設置するためにカラマツなどを伐採しているという話を聞いていて、実際の様子を見たいなと思っていたところだったので、ちょうど良い機会だと思って参加した。
 村内で行われている地すべり防止事業は、国交省の天竜川上流河川事務所管轄のものと林野庁の中部森林管理局伊那谷総合治山事業所、小渋川治山事業所管轄のものがあって、どちらも似たようなことを行っているらしいが、小塩地区は林野庁の方の事業。ここは国内でもトップクラスの大規模地すべり地で、昭和40年代には年間1m50cm~2mくらい動いていたそうだ。それに対して、集水井や集水トンネルなどで水抜きをしたり、アンカーを入れたりといった対策工事を行ってきて、現在は動きが止まってきているそうだが、今度はその上部が動いているらしくて、そうした動きを精度よく把握するためにGPSを13基ほど設置したそうだ。

 しかし、GPSは複数の人工衛星からの信号をキャッチするため、空が開けていないといけないので、周囲をかなり伐採しなくてはならない。なるべく伐採が少なくて済むような開けた場所に設置するようにしたそうだが、こんなふうに伐採したところも何カ所かあった。

 真ん中辺に重機があって、その右横に小さくGPSの受信装置が写っている。


 集水トンネルは下の方と上の方に2か所あって、すごい量の水が流れている。第2隧道を掘ったら、地すべりによって破断してしまって、別の個所から掘り直して回しているという話だった。ここは第三隧道と書かれている。右手の斜面から土砂が崩れてきて、トンネルから流れる水路を埋めてしまっていて、水がたまっていたけれども、これは下見のときにはなかったそうで、つい数日前の夕立で崩れたらしい。


 アンカーで止めているところ。25~30メートルくらい斜面の奥に向かって入っているらしいが、アンカー自体に力がかかって、頭の部分が数メートル飛んだところがあるとか。危険なため、人が立ち入らないようにロープが張ってあった。


 上部ブロックの方で、深さ180mのボーリングを行ったところで説明を聞く。パイプみたいなものがボーリングで、横にあるのは縦型伸縮計。180m掘っても、いい岩が全然なく、全体が破砕されていて、どこが滑り面か特定するのが難しいとおっしゃっていた。180m掘るのに6か月かかっていて、中でも130~140mのところを掘るのに1か月かかったそうで、掘っては崩れ、掘っては崩れしてしまうのだとか。セメントミルクを注入して固めようとしても、水が大量にあるので薄まってしまって、なかなか固まらなかったりしたそうだ。


 地すべり地上部の線状凹地といわれるところには、細長い池が何カ所もあった。また、地面が動いているので、傾いている木がたくさんある。ここでは斜面の崩れる向きに傾いている木と、反対側に傾いている木がある。

 この小塩地すべり地をずっと登っていくと、青いケシの畑に出た。大池高原は沢井の上という印象があったけれど、東西で見ると、小塩から上ったところにあるというのは新たな発見だった。 
 

三六災害50年

2011年06月29日 | 地震・防災
 今年は伊那谷の各地に大きな被害をもたらした昭和36年の災害から50年ということで、19日に飯田でシンポジウムが行われたり、各地で語り継会等が行われ、今日は大鹿で語り継ぐ会が開催された。
 19日のシンポジウムでは、サイドイベントとして「演劇的記録 三六災害五十年」が上演され、大鹿村からも40人が合唱で参加した。子どもたちの作文の朗読や、大西山崩壊のときのエピソードを基にした芝居、合唱により構成されている、ふじたあさやさん作の演劇で、一部、子どもの朗読の声が小さくて聞き取りにくいところもあったが、東日本大震災のすさまじい津波被害の様相も思い起こされて、リアルに迫ってきて、涙が止まらなかった。
 式典に入ってからは、時間がどんどん押して、楽しみにしていた松島信幸先生の講演では、興味深そうなところが端折られてしまって、ちょっと残念だった。最後の方、主人公は自然であり、災害に遭って、自然を恨むのでなく、自然から生かされる住み方をということ、また日ごろから周囲を観察して、自然感覚のようなものを体得しようというお話は、松島先生らしいと思った。演劇の中の子どもの作文で「大西山が憎い」という言葉があった。自分の家族を奪った自然に対して、恨みや憎しみがわくのは当然の心情ではあるけれども、一方で、やはり自然が先に存在して、人間はそこに後から生まれてきたものにすぎないので、自然を恨んでも仕方ない。自然の脅威は人間には計り知れない大きなものであることを、今回の東日本大震災でもまざまざと見せつけられたばかりだ。その中で、どう生きるかというとき、前兆現象的なサインを見逃さず、危険を感じたらすぐ逃げることができるような、松島先生の言う自然感覚的なものを身に付けることが大事だろう。

 今日の大鹿の語り継ぐ会の方では、三六災というと、すぐ大西山の大崩壊が浮かぶけれども、まずは集団離村するに至った北川地区の方々の体験談を聞く映像を見た。中央構造線の露頭がある北川地区に、多いときには110戸もの家があったという。36年の災害当時は38戸だったそうだが、そこが鉄砲水や土石流で数戸を残してほとんど破壊されてしまったとか。3名が濁流に巻き込まれてしまったそうだが、「この狭い谷間の土石流災害にもかかわらず、3名の犠牲者であったことは、隣近所の声かけや避難指示に迅速に対応した北川集落の共助の賜物であり奇跡的な状況でした」(資料から)。道路も通信も途絶えた中で、この地に救援の手が入るまでに何日もかかっており、山の中で、まさに共助で生き延びた方々だ。壊れた家から米俵を運び出し、泥で炊き込みご飯のような色がついたご飯を食べたという話もあった。
 大西山の崩壊で被災した今井積さんのお話で印象的だったのは、田んぼの中を腰まで泥につかりながら、命からがら逃げて助かった後、清水地区の集会所でお世話になったそうだが、その避難生活の中でいただいた鍋とまな板とお椀を今でも大事に使っているということで、持参してくださっていたこと。鍋は穴があいても修繕して、まな板は半分になって、厚みも本当に薄くなるほど使い込んであった。このお椀で飲まないと、味噌汁を飲んだ気がしない、これらが50年前のお世話になった日々を語り掛けてくれるという。そういう気持ちで三六災後の50年間を生き続けていらっしゃるということを、本当にすてきだなと思った。過疎・高齢化が進む中で共助が難しくなりつつある現実もあるけれども、共助の心は大災害を経験した村の人たちの中にしっかり受け継がれている。

 その他、河川事務所や治山事務所、三六災当時、隣の生田で中学校の先生をしていたという信大の北澤先生のお話など聞く。
 またプログラムの予定時間をだいぶ過ぎて終了し、その後、大西、文満の慰霊碑に移動して、献花・焼香。
 

地震

2010年01月17日 | 地震・防災
 今日は阪神・淡路大震災から15年の日。地震といえば何よりもハイチの被害の大きさには本当に胸が痛む。人口1000万人くらいの国で死者が10~20万人、家がつぶれたりした被災者が300万人とかいうのだから、国自体が壊滅状態といってもいいかもしれない。しかも、世界がすぐに救援に乗り出そうとしても、空港や港湾、道路などの交通インフラがやられているので、救援物資などもなかなか届かないという。何とか助かる可能性のある方が一人でも多く助かり、支援の手が一人でも多くに行き届きますようにと願わずにおれない。

 本当に甚大な被害をもたらした地震だけれども、地震自体は地球の自然の営みなので、人間のレベルではいかんともしがたい。ハイチはいわば空白域になっていたそうだから、地球のレベルからいえば起こるべくして起こった地震ということになってしまうのだろうと思う。ハイチは中南米で最初に独立した、世界初の黒人共和国でもあったのに、その後は政情不安が続いたり、独裁政権などで、経済は停滞し、西半球最貧国ともいわれる国なのだそうだ。さらに、「山がちな地形で、かつては緑豊かな国だった。しかし、燃料用の違法伐採が横行し、現在では森林は国土のわずか2%に減少。丸裸になった山の急斜面にぜい弱な構造の住居が密集、大雨が降るたびに洪水や地滑りで甚大な被害が出る悪循環となっている(東京新聞1/15」となると、これだけの被害がもたらされたことにはやはり人災的な側面も少なくないのだろうと思ってしまう。

 私のところには地震や防災絡みの仕事が結構よく来る。一口に地震・防災といっても、その研究領域は地球物理から耐震工学から被災後の自治体の対応等々、実に多岐にわたる。最近はよく「減災」という言い方がされて、防ぎようのない天災が起きたときに、いかに被災を減らすかという視点で研究や対策が進められている。地震自体の研究でいえば、科学技術を駆使して地震のメカニズムを探る研究がいろいろ進められても、いろいろなことが分かれば分かるほど肝心なことが分からないという側面もあるらしい(例えば予知はなかなかできない)。そういう意味では、やはり自然に対する謙虚な気持ちを忘れずに、個人でもできる「減災」対策はしっかりと取っておきたいと改めて思う1月17日である。

地震

2009年08月11日 | 地震・防災
 朝、布団の中で、地震の揺れで目を覚ます。結構揺れてるな、震度3ぐらいかなと思っていたら、つれあいが「初期微動が長い。もしかしたら、どこかで被害が起きているかもしれない」と言う。起きてテレビをつけると、震源は駿河湾ではないか! しかも、長野県南部に震度5弱の表示が出ている。えー?そんなに揺れたかな。もしかして東海地震?と一瞬思ったけど、想定東海地震ならこんな揺れで済むはずがない。(県内の震度5弱は泰阜村だけで、飯田などは震度4、大鹿は震度3だったようだ)
 子どもはいつものように部活動で学校に行く。でも、新幹線も止まっているみたいだし、飯田線は動いているのかしらと思いつつ、カーラジオでニュースを聞きながら駅まで送っていく。つれあいがJR東海のサイトか何かで調べて、止まっているみたいだと携帯で知らせてくれたらしいが、ラジオの音で気付かなかった。でも、そのころにはとっくに動いていたようで、駅には普通に電車がいた。
 本番の東海地震との関係が一番気掛かりだったけれど、取りあえず関係ないらしいとのこと(といっても、直接東海地震に結び付く前兆すべりが観測されなかったという短期的なことの意味らしい。中長期的に無関係かどうかまでは分からない)。本番の東海地震は今回の200倍のエネルギーだという話もあるから、本当にどんな地震になるのかと思うと、恐ろしい。今回でも揺れの大きいところでは震度6弱も揺れて、東名高速の路肩が崩れたり、家の屋根瓦が落ちたり、水道管が破裂したりの被害が出ている。想定東海地震に向けて、ハード的にもソフト的にも備えが十分にできていた静岡県だからこそ、この程度の被害で済んだのだろうと思うと、やはり日ごろの備えの重要性を改めて感じる。

(追記)
 もう一つ気になる浜岡原発は地震で自動停止したそうだけど、5号機の建屋では488ガルも揺れたらしい。使用済み燃料プールポンプ室などで放射線量が数倍に上昇して、プールの放射性物質の濃度が約50倍にたなったとか。その他、制馭棒の駆動装置が故障したり、幾つか地震による故障もあったようだ。柏崎のことを思っても、やっぱり本番の東海地震の前には止まっていてほしい。

予約録画の失敗

2008年09月22日 | 地震・防災
 昨夜というか、今日になってからの深夜、テレビ新潟制作の『活断層の警告 揺らぐ原発の安全審査』が日本テレビ系列で放映された。1時25分からという放送時間だったので、普通に予約録画をセットして寝てしまったのだけど、昨日は野球放送が延びて、15分ずれての放送だったらしくて、朝になって早速見ようと思ったら、ニュースから始まっていて、肝心の番組は前半15分しか録画されていなかった。柏崎刈羽原発の安全審査を検証取材した番組で、活断層の研究者として著名な松田時彦さんが、海底も調査すべきという自分の主張が取り入れられなかったため、辞任を申し出たけれども、慰留されて安全審査に名前が残ってしまったという「苦い思い出」が語られていた。後半もぜひ見たいものだけど、どなたか録画された方はいますか?
 それにしても、予約録画は便利な機能だと思っていたけど、実はこういう難点があったのだな。

志賀原発2号機運転差し止め判決

2006年03月24日 | 地震・防災
 志賀原発2号機について、耐震設計に問題があるとして、周辺住民が運転差し止めを求めていた訴訟の判決が金沢地裁であり、住民側の主張が認められて、「被告は、志賀原子力発電所2号原子炉を運転してはならない」(主文)という判決が出た。運転中の商業用原発で住民側が勝訴したのは初めてだとか。
 国の地震調査委員会がマグニチュード7.6の地震が起こりうるとした活断層が原発付近にあるのだそうだ(邑知潟断層帯)。
 浜岡の裁判にも追い風になるといいな。巨大地震がいつ起きてもおかしくないと言われる場所の真上に原発があること自体、普通の感性で考えたら、とても正気の沙汰とは思えないことだもの。
 

正常化の偏見

2005年09月23日 | 地震・防災
 災害心理学で、「正常化の偏見」または「正常化のバイアス」(normalcy bias)という言葉があるらしい。「異常が発生しているにもかかわらず、日常的に慣れ親しんでいる正常な状態を前提にして楽観視しようとする心理をいう。兆候を見逃したり、初動対応が遅れる原因になる可能性がある」(原子力防災用語集から)。

 例えば、最近のとんでもない集中豪雨によって、水害の危険が予想されても、人はなかなか逃げないのだそうだ。逃げなくていいと思っているのではなくて、「逃げる」という決断がなかなかできないらしい。そりゃ、逃げるとなったら、何を持って逃げるか、いつまで逃げていればいのか、あれこれ考えただけで大変で、逃げずに済めばそれに越したことはないと思ってしまうのは当たり前だし、そんなことをあれこれ思っているうちに、逃げそびれることにもなってしまうのだろう。

 防災のハードというのは、過去の災害を基にある「想定」をして、それに耐えられるような設計になっているにすぎないのだから、絶対に安全ということはありえない。人間は自分の生きている時間の中で経験したことを基にしか、なかなか考えられないけど、自然というのは計り知れないものだという謙虚な気持ちが本当に大事だと思う。
 今はもう、本来なら危ないところにたくさん人が住んでいたりするけど、本当は土地利用の段階から考えなくてはいけなかったのだろう。せめて、身の回りにどういう危険があるか、ちゃんと把握しておいて、いざというときには、慌てずぱっと逃げられるように準備しておかなくてはいけないんだろうな。
 ちなみに、私の住んでいる所は高いところだから洪水の心配はないが、豪雨や地震でいちばんありうるのは、土砂崩れで道路が寸断されて孤立してしまうことかな。


女川原発、設計限界を超える揺れ

2005年09月03日 | 地震・防災
 先月の宮城地震で、女川原発では、耐震設計の際に想定される限界をも超える揺れが観測されていたことが、今日の新聞で報道されていた。(ストップ浜岡原発@ブログ参照)
 地震列島の日本でこれだけたくさんの原発が稼働していること自体、とても心配なことだけど、国も電力会社も耐震設計がしっかりしているから大丈夫と言い続けてきた。でも、そもそもの耐震設計の基になる揺れの想定が不十分だったら、いかに耐震設計がしてあっても、設計どおりの強度で実際の工事が完璧に施工されていたとしても、安全ではないことになってしまう。
 原発の立地の際には、過去1万年の地震や活断層などの分析から、起こりうる最大の地震(設計用最強地震動S1)、さらに過去5万年の分析から、「およそ現実的でない」とされる限界の地震(設計用限界地震動S2)を設定して、それに耐えられるような設計にする。でも、今回はこのS2を超える値があった(S2が673ガルに対して、888ガル)。
 これは耐震設計そのものの妥当性が問われる重要な問題です。