「美しい村」の議員日記

南アルプス山麓・大鹿村在住。自給自足農業、在宅ワーカー、2011年春より村議会議員。

三六災害50年

2011年06月29日 | 地震・防災
 今年は伊那谷の各地に大きな被害をもたらした昭和36年の災害から50年ということで、19日に飯田でシンポジウムが行われたり、各地で語り継会等が行われ、今日は大鹿で語り継ぐ会が開催された。
 19日のシンポジウムでは、サイドイベントとして「演劇的記録 三六災害五十年」が上演され、大鹿村からも40人が合唱で参加した。子どもたちの作文の朗読や、大西山崩壊のときのエピソードを基にした芝居、合唱により構成されている、ふじたあさやさん作の演劇で、一部、子どもの朗読の声が小さくて聞き取りにくいところもあったが、東日本大震災のすさまじい津波被害の様相も思い起こされて、リアルに迫ってきて、涙が止まらなかった。
 式典に入ってからは、時間がどんどん押して、楽しみにしていた松島信幸先生の講演では、興味深そうなところが端折られてしまって、ちょっと残念だった。最後の方、主人公は自然であり、災害に遭って、自然を恨むのでなく、自然から生かされる住み方をということ、また日ごろから周囲を観察して、自然感覚のようなものを体得しようというお話は、松島先生らしいと思った。演劇の中の子どもの作文で「大西山が憎い」という言葉があった。自分の家族を奪った自然に対して、恨みや憎しみがわくのは当然の心情ではあるけれども、一方で、やはり自然が先に存在して、人間はそこに後から生まれてきたものにすぎないので、自然を恨んでも仕方ない。自然の脅威は人間には計り知れない大きなものであることを、今回の東日本大震災でもまざまざと見せつけられたばかりだ。その中で、どう生きるかというとき、前兆現象的なサインを見逃さず、危険を感じたらすぐ逃げることができるような、松島先生の言う自然感覚的なものを身に付けることが大事だろう。

 今日の大鹿の語り継ぐ会の方では、三六災というと、すぐ大西山の大崩壊が浮かぶけれども、まずは集団離村するに至った北川地区の方々の体験談を聞く映像を見た。中央構造線の露頭がある北川地区に、多いときには110戸もの家があったという。36年の災害当時は38戸だったそうだが、そこが鉄砲水や土石流で数戸を残してほとんど破壊されてしまったとか。3名が濁流に巻き込まれてしまったそうだが、「この狭い谷間の土石流災害にもかかわらず、3名の犠牲者であったことは、隣近所の声かけや避難指示に迅速に対応した北川集落の共助の賜物であり奇跡的な状況でした」(資料から)。道路も通信も途絶えた中で、この地に救援の手が入るまでに何日もかかっており、山の中で、まさに共助で生き延びた方々だ。壊れた家から米俵を運び出し、泥で炊き込みご飯のような色がついたご飯を食べたという話もあった。
 大西山の崩壊で被災した今井積さんのお話で印象的だったのは、田んぼの中を腰まで泥につかりながら、命からがら逃げて助かった後、清水地区の集会所でお世話になったそうだが、その避難生活の中でいただいた鍋とまな板とお椀を今でも大事に使っているということで、持参してくださっていたこと。鍋は穴があいても修繕して、まな板は半分になって、厚みも本当に薄くなるほど使い込んであった。このお椀で飲まないと、味噌汁を飲んだ気がしない、これらが50年前のお世話になった日々を語り掛けてくれるという。そういう気持ちで三六災後の50年間を生き続けていらっしゃるということを、本当にすてきだなと思った。過疎・高齢化が進む中で共助が難しくなりつつある現実もあるけれども、共助の心は大災害を経験した村の人たちの中にしっかり受け継がれている。

 その他、河川事務所や治山事務所、三六災当時、隣の生田で中学校の先生をしていたという信大の北澤先生のお話など聞く。
 またプログラムの予定時間をだいぶ過ぎて終了し、その後、大西、文満の慰霊碑に移動して、献花・焼香。