夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

幾つになっても、亡きの母に私たちは見守られて、早や20数年は過ぎ去り・・。

2020-01-13 18:19:21 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

本日、家内は急遽体調がすぐれず、やむなく欠席となったが、
私は妹の2人と待ち合わせしている小田急線の狛江駅の付近にある喫茶店に向った・・。

そして10時過ぎに私たちは合流して、通称『泉龍寺』と称されるお墓に向かった。

                       
              
私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、13日になったまもない深夜に亡くなったのは、
私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。


そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。

             

やがて私の生家である長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、ご近所のお方のご尽力で、生家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたりした。

やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。

                                                 

私の祖父と父は、私が今住んでいる近くで、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある都心の郊外に見られる旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂いなくなり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、やがて42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は跡継ぎの肝心な父が亡くなり、落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。

この当時のどの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、家は急速に没落し、生活は困窮となった。

            

このような生活苦の中で、やがて母はやむなく田畑の一部を売却して、
モルタル造りのアパートを経営に転業した後、
やがて私が都心の高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち兄妹は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込みながら奮闘して働いた・・。
こうした関係で、やがて私たちは、世間並みの生活レベルになったりした。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりした。

そして後年に私は知ったことは、自治体から交付される調理師の免許さえあれば、
このような旅館は経営認可でき、尋常小学校しか卒業していない母は、
調理師の講習を得て、免許証を習得した、と私は母から教えられたりした。

確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私も大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは、専門学校に学ぶことができたりした。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいてくれた成果として、
ふつうの生活ができ、やがて私達5人の子供は成人できたのは、まぎれなく事実である。

             

まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、やがて母はアパートに改築した。
          
この当時の母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。
         
やがて昭和の終わる頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に、ためらいながらやがて応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が高揚した明るい声で私に言ったりした。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。

こうした中で、母はダンスのサークルのお友達と初めて喫茶店に行き、
紅茶、コーヒーを飲みながら談笑した、
と私は母と週間ニュースのようになった電話で、教えられて微笑んだりした。

             

母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。

やがて1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春の頃、死去した。 

私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は生家の長兄宅で出来うる限り盛大に行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、初めてご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
           
                       

やがて『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。

そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして2010年(平成22年)の『十三回忌』の法事があったりした。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹ふたりで、命日が近づくとお墓参りをしている。

長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、 付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は、妹のふたりも60代となった。

たまたま本日の13日は妹のひとりの関係で、母の命日に際してのお墓参りの日となった。

                        

寺院の境内は広く数多くの大木があり、冬晴れの暖かさに恵まれ、風もなく静けさであった。

そしてお墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと私は深く思ったりしているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたので、私は感謝の一心で、やがて手を合わせたりした。

生前の母と私の家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父は私が小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このようにおだやかで良かったわ・・』
と妹のひとりが私に言ったりした。

お線香の煙が芳香を残して、まばゆい陽射しの空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


私たちは幼年期よりお互いに『・・ちゃん』付けで呼び合っているので、
平素、お互いに連絡し合ったりする中で、亡くなった母の話題になったりすると、
『XXちゃん・・あの時は・・お母さんは・・このように言っていたょ・・』
とお互いに言ったりしている。

このように私たちは、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

                        

この後、個室でゆっくりと昼食を頂くことができる食事処を妹のひとりが予約していたので、
小田急線の新百合ヶ丘駅の付近にある『梅の花』に移動した・・。

やがて私たち3人は、ビールを呑みながら、新春にふさわしい多彩な料理を頂き、
お互いに談笑を2時間ばかり、懇親を重ねたりした。

こうした中、お互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は、妹のふたりに話したりした・・。

私は今年の誕生日を迎えると76
歳となり、妹は74歳と72歳となる身であるが、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できる、と思いを深めたりした。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、5年前には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

そして私は昨年の新年早々、心臓を悪化して、8泊9日の入院生活をしてきた。

このような体験もあり、いつの日にか私も、この世と告別するが、
自助努力も大切であるが、神様か仏様の采配によるので、
私なりに1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

          

この後、私たちは駅まで数分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・お互いに元気で、逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。


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