夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

血液型B型の私は、七転八起の人生航路を歩んで、独り微苦笑して・・。

2023-03-26 08:28:24 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の年金生活をしている78歳の身であるが、
恥ずかしなから血液型はB型であり、確か10年前の頃、ある書物を読んでいた中で、
《・・占いのように思われがちだが、
最近では会社の人事に取り入れられるケースも見受けられるのが血液型診断。
O型とA型で約7割を占める日本人。

その煮詰まりやすい社会のなかに、
発想転換のヒントを与えるとともに、潤滑油として「楽しさ」を与えるのがB型だ。
 
B型に向いているのは、音楽や芸術分野に関わる仕事。
独特の鋭い感性でイメージを展開したり、ひらめきや直感に富んでいるので、
クリエイティブな分野の仕事には最適だが、持続力がないのが弱点。・・》
と学んだりしてきた。

             

或いは小萩喜一さん著作の『人生の9割は血液型で決まる!』(世界文化社刊)に於いては、
《・・B型の人に大切なのは、“どこまでも真剣に遊ぶこと”です。

これはと思うものに出会ったら、思い切りそこに照準を合わせ、
夢をかなえるために一心不乱に取り組むと成功します。

占いなどでは「変わり者」扱いされがちなB型だが、その熱中ぶりや波瀾万丈さを評価する声も。
クリエイティブな企画者として独創性を認めてもらえるか、どうかがB型の人の分岐点なのである。・・》
     
このように学んできた私は、B型の長所、短所が明示され、
何かしら素肌を視られたように恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。



そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの人生の軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、
と苦笑したりしてきた。

年金生活19年生の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、ときには熱病のように無我夢中となったりする時があったりした。
              
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。

                       
                     
たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に、
偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界にに熱中した・・。

そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、少なくとも週2回ぐらい退社後に通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
『銀巴里』の往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりして、
アルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を居間で擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。




やがて1989年(昭和64年)に、
遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。

『エレーン』の歌であり、この当時の私はあるレコード会社の情報畑で奮闘していた時代であった。

こうした中、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇が御逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定も重なり、
苦闘していた時で、心身ボロボロのような時に聴いたりした・・。。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたりした。

この後、リストラ烈風の中、あえなく出向した中、『ヘッドライト・テールライト』が
心の支えとなってきた。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、
今でも中島みゆきさんは、私の秘かな女神となっている。



そして1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。

この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。

                                 

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、高校時代の頃より、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、やがて500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

                       

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしたりした。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。

                                                                 

この間、何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年(昭和45年)の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

しかしながら最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

             

この間、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活の中では、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

やがて2004年(平成16年)秋に定年退職後の年金生活の中で、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野眞一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は1970年(昭和45年)の4月号より購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』(数年前に休刊)は、特集に魅せられた時は購読してきた。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読してきて、
季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読してきた。

                     

私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦(こ)がれて時もあった。
         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ともすれば食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることもある。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの・・、
と思ったりする時もある。



余談であるが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は私と家内とたった2人だけの家庭であり、
家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、血液型A型となっている。

そして我が家では年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生する。

こうした時、私は中小業の民間会社で35年近く奮戦して、何かと悪戦苦闘が多かった体験を応用して、
やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協してしまう。

『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている時もある。



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