☆10ヵ月ぶりに病院から自宅へ戻り、自宅療養が始まった

2017年8月21日、自己免疫性脊髄炎で入院していた市原さんは、
約10ヵ月ぶりに病院から自宅へ戻り、自宅療養を始めた。

訪問医、看護師、理学療法士、介護ヘルパーなどが、毎日のように訪ねてくる。
長い間、『家政婦は見た!』の主役を演じてきた市原さんは、
初めて住み込みの家政婦さんを雇うことになった。

市原さんの2人の妹さんや亡き夫の姪御さんで作る「チーム市原」に、
この年の一月からわたしも加わり、週2回、彼女のもとを訪ねて話し相手となり、色々なお手伝いをした。

新しい生活に慣れると、市原さんはベッドの上で、
7月に出版された『白髪のうた』(春秋社)に毛筆でサインを始めた。
わたしはサインに朱印を押したり、手紙の代筆をしたりする。

そんなとき、「お習字の道具はどこですか?」とか「住所録はどこにありますか?」と聞くと、
市原さんはすぐに答えてくれた。

その答え方は「引き出しの○番目」とか、「押し入れの上から2番目の棚の右の方」といった具合で、
家のどこに、何をしまっているかを、驚くほど正確に覚えていた。

都内の自宅マンションは、まだ俳優座の舞台女優であったころ、
「清水の舞台から飛び降りる」思いで購入したものだ。

内装の材料に木と紙だけを使ったこの家に、市原さんは夫の塩見哲さんと50年近く暮らした。
その間に同じマンションの一階上の部屋が売りに出て、購入した。

          
☆ハンカチを、手縫いで何枚も丁寧につなげて作ったキッチンの暖簾

仕事の打ち合わせや麻雀でお邪魔したとき、わたしが通されたのは、この上の階の部屋だった。
完全にプライベートな空間である下の階に対し、
こちらは応接間兼塩見さんの書斎兼稽古場になっていた。

右手の壁面は塩見さんの蔵書で埋まり、左手は全面両開きの棚で、十分な収納力がある。

雑誌記者から「暇なときは、何をされてるんですか」と聞かれると、
いつも市原さんは「お片づけ」と答えていた。

妹さんたちも「姉は、お片づけが大好きでした!」と声をそろえる。
キッチンの暖簾(のれん)も、刺繍がほどこされた小ぶりな木綿のハンカチを、
手縫いで何枚も丁寧につなげて、手づくりしていた。

          

☆『あ、準備しなきゃな』と思い、断捨離を始めた

市原さんが断捨離を始めたのは、自身の病気がきっかけである。

「69歳で、肺がんの手術をしたでしょ。
ごく初期だから何の症状もなかったけど、先生が『手術しろ』って言うし、
セカンドオピニオンも同じだったから。
それをきっかけに、体調も崩れてきたのね。

その時から、『あ、準備しなきゃな』と思い始めて、75歳のちょっと前から断捨離を始めたんです。
まず大きいものを全部手放しました」

最初に処分したのは、バブルの頃に買った伊豆の土地である。
稽古場を建てたいと夢をふくらませて、何度も設計図を引いたが、結局は二束三文で手放すことになった。

次に整理したのは大京町の事務所だ。
「耐震性に問題があったんだけど、住人が年寄りばっかりで、
建て直すのかって言ったら、お金は出さないし、じゃあ修理するかとも決まらない。

管理組合も、もめてもめて全然埒(らち)があかなくて。
『ああもう売っちゃえ!』って。
病気になると、もさもさしたのがイヤになるの」

こういう時、市原さんの決断はすばやい。
本格的な断捨離が始まったのは2011年、東日本大震災の前である。

山田洋次監督の『東京家族』の母親役に抜擢されたが、震災による撮影延期のため時間ができた。
翌年2月には、S状結腸腫瘍で映画を降板。

          
☆「写真をビリビリ破いて捨てたの」

雑誌『ゆうゆう』2011年3月号で、
最近、段ボール箱3つにぎっしり詰まっていた写真を整理したことを話している。

「ものを持っていると縛られてしまいますから、
常に常に、ものを減らすということをここ数年、心がけているんです。
でも、写真の整理は本当に大変でした。延べ20日間くらいかかりました」

これまでの膨大な写真を上階の床に全部広げて、
プライベート、親族、友人、舞台関係、映画関係、テレビ関係、歌のステージ、バラエティに分類した。

「一つの出来事につき、数枚しか残さないと決めて、写真を選びました。
記録として残しておきたいもの、写真としておもしろいものを選びます。
10枚から2枚選んだら、あとの8枚はビリビリ破いて捨てました。
破らないと、また拾ったりするかもしれないから」

そのとき気づいたことをこう語っている。
「どなたの場合も、カメラを見てニッコリの写真は、おもしろくない。
写真の中の光と影にぞくぞくして、空気や風や心の動きが感じられる写真がいいですね。

うまくできなかった舞台の私は、写真でもつまらない顔をしているということもわかりました。
写真の山と格闘して、そんな発見もして、大変だったけどおもしろかったです」

          

☆天然繊維の、すてきな生地に包まれていたい

写真の後は、台本や、雑誌、新聞記事を整理した。
それから洋服も片づけた。
いくらデザインや柄が好きでも、生地の良さを優先し、人工素材のものは思い切って捨てた。

「天然繊維にこだわる私は、織り、染め、色の良さにひかれるようになりました。
そして生地の暖かさ、涼しさ、肌ざわりも気になってね。
まあ、すてきな生地に包まれていたいです」

2013年の9月には2年がかりで完成した『やまんば 女優市原悦子43人と語る』を春秋社から出版し、
役者人生の総まとめをしている。

翌年4月に夫の塩見さんを見送ると、
1年近く「自分の人生も終わった」と魂が抜けたような状態になっていたが、
遺品や衣類を整理し、樹木葬にすると決め、追悼集を編集するうちに、気持ちも整理されたのだろう。
少しずつ元気を回復した。

          
☆独り身になると、シンプルに生きていくようになる

塩見さんはおしゃれな人だった。
「あなたのコートやシャツ。
カッコよくて、豊かな天然繊維でつくられた、それらを着ると、守られている安心感にホッとします。
暖かく包まれます。

あなたがいつも言っていた『着てごらん、着られるよ』って。
毎日、着ています。
ほんとに着心地がいいの、ありがとう!」

2016年の春に自費出版した『月に憑かれたかたつむり 塩見哲へのレクイエム』に添えたことばである。
その秋口にはこんなことも言っていた。

「身辺を片づけて、きちっとしておこうというのも、誰かいれば、やってくれるって思う。
1人になると、それが使命になるのね。
たった2人の家族なのに、私は塩見に頼りきっていた。

誰でも独り身になると、シンプルに生きていくようになってるのね。
ごちゃごちゃ物を持ったり、買い込んだりしないで。
甘さがなくなって、強くなるのよね」

          
☆「食器は、ご飯茶碗とお椀とお皿と小鉢があれば」

この2ヵ月後、市原さんは自己免疫性脊髄炎で倒れる。

「モノを減らして、お部屋も小さくして、髪も短くして、
リヤカーひとつで、引っ越しができるような暮らしが理想です。

食器は、ご飯茶碗とお椀とお皿と小鉢があれば、それだけでいい。

着る物は、あいもの4枚、冬物2枚、カシミヤのコート1枚、それでけっこう。

洋服ダンスに全部掛けても、すき間がたっぷりで空気が通り抜けるようにする─できたらね。(笑)」
(『婦人公論』2018年7月10日号)

2018年の春には、NHKの深夜番組『おやすみ日本 眠いいね!』の一コーナー「日本眠いい昔ばなし」の朗読に復帰した。

5月14日には車椅子で収録した後、ライターや友人、マネージャーに囲まれ、とても楽しそうに話していた。
たった1年前の話だ。



私はこうしたノンフィクションライターの沢辺ひとみ(さわべ・ひとみ)が綴られた市原悦子さんの、
晩年の言動を教示されて、清冽な日々を過ごされ感銘させられたりした。

この後、ノンフィクションライターの沢辺ひとみ(さわべ・ひとみ)が、
市原悦子さんの葬儀に綴られた幾多の文を読み、瞼(まぶた)が熱くなったりした。

この文は、稀な名文と私は深く感じたりし、転載させて頂く。

《・・
出棺のとき、青山葬儀所の建物の外に出ると、
青空の下、沿道を埋める人々の群れが目に入った。

平日の昼間だというのに、どこからこんなにたくさん集まってくれたのだろうか。
500人は下らない。おそらくファンの人たちだろう。
市原さんが好きだというその想いだけで集まってくれたのだ。

市原さんを乗せた黒い車が門を出て行くとき、彼らはいっせいに手を振って見送ってくれた。
その姿に思わず胸が熱くなった。

斎場で、係員が市原さんのお骨の立派さを称え、
喉仏と顎の骨は特に大きいと言ったとき、悲しみが込み上げた。
あの色とりどりの声は、もう聴けない。

すべてが終わり斎場をあとにするとき、ふと誰かに呼び止められたような気がして振り返った。


背後の壁に平山郁夫画伯の「飛天」の陶板画があった。
幅3メートルもあるその絵には、100人ほどの飛天が描かれている。

中央には二人の天女がこちらに微笑みかけ、
その周りで祈る者、笛を吹く者、踊る者が、黄金の領巾をまといながら浮遊している。

わたしは胸がドクンと鳴るのを感じた。
市原さんは宇治平等院の天女が好きだった。
羽衣を風になびかせ、空中を自由に舞い踊る天女は、市原さんそのものだった。

晩年、地上の市原さんは身体の自由を奪われた。
陶板画の前で茫然と立ち尽くすわたしの耳に、市原さんの、あの懐かしい声が聞こえてくる。

「昔、死を前にしたお友達に『今、どんなことを考えているの?』と聞いたことがあるの。
彼女の答えは『いいことだけ』って。
病床にあっても、あんなことしようとか、こんなことしようとか。
何かを創り上げていく想像は心を穏やかに、豊かにしてくれる。〈いいことだけ考える〉――。今の私も同じね」

市原さんは、どんなときも、魂の自由は失わなかった。
彼女の好きだった『梁塵秘抄』の一節、「遊びをせんとや生まれけむ」が、思わず口をついて出た。

肉体から抜けた市原さんは、今、天女となって、
再び大空を縦横に走り、自由に飛び回っているのだろう、そんな気がした。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              

人は誰しも半生期間は苦楽を重ねて、やがて齢を重ねれば身体は衰える中、
どのような指針で老後を過ごすかは、それぞれの御方は難題でもある。

今回、女優の市原悦子さんが『いいことだけ考える』を指針に過ごされたことは、
私は人生の集約された確かな名言・・と私は深く教示されたりしている。