夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて私のブログ発信名称『夢逢人』の命名した発想、そして秘かな願いは・・。

2023-03-14 15:04:45 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。


過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。


この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。


                         
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
 
そしてパソコンの故障、旅行、入院などで不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性になってしまったかのように投稿を重ねてきた・・。



こうした中、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

そして【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は、私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、
深く思案したりした。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
根拠としては、私の幼年期からの深い想いでがあった・・。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年 (昭和19年) の秋に、
農家の児として生を受けた。

この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であり、生家は祖父と父が中心となって、
程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
 
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思え、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。
 
やがて、私の下に1947年 (昭和22年) の1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛したりした。

このような状況を見て、私は幼児なりに疎外されたように感じ、
いじけた可愛げのない児となったり、無口のひとりとなったりした・・。

まもなく、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。



こうした中、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生が、ため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。




そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いた御方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探した。

まもなくブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、
【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
【すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管した。


私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部の御方から誤解されたりした・・。

その後、この人気コンビのひとりが、女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。



その後、私は【すくすくブログ】は投稿を中止し、
この当時、百万人以上加入している大手のブログ・サイトの【gooブログ】に、
恐れながら移行した。

『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』の発信名とした。

この後、【goo簡単ホームページ】、で、
しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、
ほころびも感じはじめ、一年半ほどで中断した。

やはり力量と筆力に乏しい私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
肝要の読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととした。


そしてこの当時の私の本命の【goo簡単ホームページ】に於いては、
肝要のブログ管理元ま閉鎖される2007年の9月までの加入し、
この後は【OCN Cafe】に加入したりした。

この間、2008年の春先から、少し悩んだりした・・。

定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

そして本格的に2008年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。



私の【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。

そして区分した結果として、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。

そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
やがて、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。

そして発信名だけは、
2005年(平成17年)の春過ぎの頃から『yumede-ai』として、

長らく継続している。

この『夢逢人(yumede-ai)』の発想に関して、記載する。




私の若き頃の高校生の2年になった1961年(昭和36年)の4月過ぎ、
生家の居間で、次兄と共に何気なしにテレビを視聴していた。

すらっとした大人の女性が、上半身を少し右に傾けてお辞儀をされて司会をされ、
何かしら毎回のテーマに基づいて、これに伴いショートコントが展開したり、
その間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などがあった、
とぼんやりと記憶している。

この番組はNHKの『夢であいましょう』であり、番組の内容もさることながら、
何よりも司会をされた中嶋弘子さんの都会の大人の麗人のしぐさ、顔立ち、声質に、
圧倒的に魅了されて、私は見惚れたりした・・。

この後、何故かしら中嶋弘子さんは降板され、
この後は苦手な黒柳徹子さんが司会をされたので、

これ以降、私は『夢であいましょう』を視聴をやめた。

そして私は17歳であったが、
中嶋弘子さんに関して、高嶺の花のあこがれの君のような存在となり、

長らく私の心の片隅みに残影し、今でも残っている。



私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、

つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。

たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

このことは匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、
と感じたりした。


小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして、
読者は受け止めることができ、

ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名したのである。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したのである。


恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。

コメント (4)
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