先程、ときおり愛読している【NEWS ポストセブン 】を見ている中で、
『 定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要 』と題した見出しを見てしまった。
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。
そして遠い勤務地に勤め、この期間も奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたりした。
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
こうした中で、友人、知人、親戚、会社時代の御方など数多くの御通夜、告別式に参列してきたが、
ときには一部の御方に戸惑いもあったりしてきたことは事実であった・・。
こうした心情を秘めた私は、『定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要』を
読んでしまった・・。
この記事の原文は、『週刊ポスト』の2017年9月15日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に9月7日に配信され、 無断ながら転載させて頂く。
《・・定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要
政府が検討する「年金75歳受給開始時代」が本当に到来すれば、高齢者も働かざるを得なくなるだろう。
そんな時代を反映してか、発売即重版のベストセラーとなっている書籍がある。
元ソニー常務取締役で、82歳の今も現役ビジネスマンとして働く郡山史郎氏が著わした『九十歳まで働く!』だ。
郡山氏は子会社のソニーPCLの会長、ソニー顧問などを歴任した後、多くの高齢者の再就職に関わってきた。
同書内では、高齢者が厳しい現実に立ち向かう上で、
必要な心構えを「定年後にやってはいけない十戒」としてまとめている。
そのうちの一つに「葬式に行ってはいけない」がある。
訃報を聞けば、何はともあれ喪服を着て駆けつける──
そんな日本人の常識を覆すアドバイスだが、それにはこんな理由がある。
「歳を取れば取るほど『義理』が増えていく。
かつての同僚や上司の葬儀への出席は、その最たるものでしょう。
しかしその義理を果たそうと、がんじがらめになることは高齢者にとって
精神的にも肉体的にも負担になる。
本当に大事な人には、心の中で手を合わせればいい。
高齢者は義理や礼を欠くことを、恐れてはいけません。
自分の葬儀も最小限でいい。
老境に入れば、他人に迷惑をかけないことが一番大事なのではないか」(郡山氏)
70歳を過ぎると、親戚から会社時代の同僚、子供のころの友人まで、葬式ばかりになる。
そのたびに遠方に出掛ければ、財布にも負担がかかる。
「葬式に出るたび“私にも近くこの世を去る日がやってくる”と陰鬱な気持ちになる」
(埼玉県在住・75歳男性)
「友人やご近所の知人が立て続けに死んで、香典代が月に3万円近くということもある。
口には出せないが、痛い出費です」(東京都在住・79歳男性)
全日本冠婚葬祭互助協会が行なった「香典に関するアンケート調査(平成28年度)」によると、
故人との関係別の香典平均額は「職場関係」で5447円、「友人・その家族」で5972円となっている。
「全ての葬儀に出ない」というのは、現実的には不可能だが、
どこかで「義理」の線引きをする勇気は必要だろう。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
過ぎし私が67歳だった2011年の11月23日の『勤労感謝の日』の頃から、
会社時代の知人などから喪中のお便(たよ)りを頂いたりした。
こうした中に、私の会社時代のひととき上司だった御当人の死去を知り、
特に私は深く精読したりした・・。
《・・
喪中のため新年のご挨拶は
失礼させていただきます
夫 XXが XX月XX日に73歳で永眠いたしました
生前に賜りましたご厚情を深謝いたしますとともに
ご報告をさせていただきます
故人の遺志もありまして葬儀は身内で執り行いましたので
ご香典、ご供物等は固く辞退申し上げます
皆様には良い年が訪れますようお祈りいたします
・・》
このような文面を私は深く精読したのである・・。
私は中小業のある民間会社に勤め、30代の後半の一時時期、
組織変更と人事異動で、新たに上司となった御方の下で、職務に従事していた。
管理畑であるが、この上司は営業畑で活躍されて栄進された御方で、
親分肌で部下の多くから好かれていた。
そして休日の合間に、海釣り、スキーなどに後輩たちを引率したりし、
人望も有していた。
ある時、私は同僚のひとりとして、何か職務上の問題で論争になってしまった時、
この上司が聞いていた。
私としては、同僚が海釣りも好きで、この上司に懐(なつ)いていて、
何かと海釣りに幾たびか同行していたことも知っていたので、
不利な論争の結果になると、少し危惧したのは事実であった。
結果として、この上司は私の論に軍配を上げて、
公平な視線がある稀(まれ)な人、と私は強く感じたりした。
まもなくして、組織変更などで私の上司は変わったりしたが、
この上司は、幾たびの会議で公平な判断をされていると同僚、後輩たちからも聞いたりし、
私は社内、懇親会などでお逢いするたびに、敬愛を深めたりした。
私は定年退職後も相変わらず年賀状だけは送信し、
この上司からも暖かな年賀状を頂いていた。
退職後の5年も過ぎると、現役時代と大きく変貌し、
たとえ葬儀であっても、御通夜、告別式の参列は、義理のように風化してしまう・・。
こうした心情も察して、この上司は葬儀は身内だけで、と判断された、
と私は解釈したりした。
私も退職後の年金生活を始めた頃に、葬儀は家族葬で、と家内に幾たびか言っているので、
この上司の思いが深く共感できたりした。
この後、私はこの御方のお住まいだった方に、手を合わせて、
公平な視線を保った稀(まれ)な人だった、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ご冥福を祈ったりした。
このような体験があったりした後、私は会社時代の上司、同僚、後輩の御通夜、告別式の参列は、
遠ざかってしまっている。
そして会社時代の懇親会は、私は毎回欠かさず参加している中、
XXさん、或いはXXさんも亡くなわれた、と知り、
心の中で、ご冥福を祈ったりしている。
しかしながら、もとより親戚、友人、知人に関しては、御通夜か告別式の参列して、
帰路、私は果たして何年生きられるかしら、と思う時もある。
やがて自身が健康を保つことは、自助努力も必要であるが、
この世とお別れする時期は、神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思いながら、足早に帰宅に向かっているが、ここ数年となっている。
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