私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
今朝は澄み切った雲ひとつない青空をぼんやりと眺め、
つたない私でも満69歳を迎えることが出来た、と微苦笑した・・。
私は1944〈昭和19)年9月のこの日に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となったので、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
長兄、次兄に準じて地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
兄ふたりは学業が優等生で、私は通信簿が『3』と『2』が多い劣等生で、
担任の先生からは、お兄さんは優秀なのに・・、と私は通信簿を頂くたびに言われたりした。
その後、小学4年生の頃から映画好きな映画少年となり、独りで映画館に通ったりしたが、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。
そして高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校に通学して、
何かしら自縛から解放されたかのように心情となったりした。
こうした中で、生まれて初めて授業も楽しくなり、結果として程ほどの上位の成績となり、
読書にも目覚めて、やがて底知れぬ魔力に取りつかれ熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。
その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
この当時はある音響・映像メーカーの大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつのレーベルがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構える時、
家内が中学生の頃から茶事を学んだりしてきたので、
私は若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
想定していた住宅ローンなどは多くなり、重く苦心惨憺な時期も過ごした。
もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、
音楽制作に直接関係のない管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑で私なりに奮闘した。
こうした中で1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、各レコード会社が正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施され、
私は1999(平成11)年の新春、出向となった。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
出向先は物流会社の中のひとつの物流センターであり、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そして販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
そして返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。
こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
このような私のつたない半生は、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となった。
専業主婦の家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
晩秋になると私たち夫婦は年金生活9年生になるが、
この間に減ったものは、もとより貯金額であるが、これ以外としては増えたりすることが多い。
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。
しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。
この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
このような日常生活のささやかな思いで、そして国内旅行の旅先を思いも共有している。
そして小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。
記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
この種が幼い樹となり、やがて私は移植して、私は体力が衰える中で、けなげに成長している。
或いは地植えしている草花が、あちらこららに咲き増えているが、
この中の一部を植木鉢に移したりすると、四季折々の花が咲いたりしている。
こうした中で、退職記念として買い求めたデジカメの写真は増えたり、
或いは年金生活を始めて、まもなくブログの世界を学び、原則として毎日投稿してきたので、
この投稿文が私の年金生活の日々の心情の証(あかし)かしら、と私は微笑んだりしている。
このように私は定年退職するまでの半生は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったが、
定年後の年金生活は、私の人生の折り返し点の後は、恵まれ良き日々が続いている、と実感を深めたりしている。
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今朝は澄み切った雲ひとつない青空をぼんやりと眺め、
つたない私でも満69歳を迎えることが出来た、と微苦笑した・・。
私は1944〈昭和19)年9月のこの日に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となったので、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
長兄、次兄に準じて地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
兄ふたりは学業が優等生で、私は通信簿が『3』と『2』が多い劣等生で、
担任の先生からは、お兄さんは優秀なのに・・、と私は通信簿を頂くたびに言われたりした。
その後、小学4年生の頃から映画好きな映画少年となり、独りで映画館に通ったりしたが、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。
そして高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校に通学して、
何かしら自縛から解放されたかのように心情となったりした。
こうした中で、生まれて初めて授業も楽しくなり、結果として程ほどの上位の成績となり、
読書にも目覚めて、やがて底知れぬ魔力に取りつかれ熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。
その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
この当時はある音響・映像メーカーの大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつのレーベルがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構える時、
家内が中学生の頃から茶事を学んだりしてきたので、
私は若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
想定していた住宅ローンなどは多くなり、重く苦心惨憺な時期も過ごした。
もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、
音楽制作に直接関係のない管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑で私なりに奮闘した。
こうした中で1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、各レコード会社が正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施され、
私は1999(平成11)年の新春、出向となった。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
出向先は物流会社の中のひとつの物流センターであり、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そして販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
そして返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。
こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
このような私のつたない半生は、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となった。
専業主婦の家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
晩秋になると私たち夫婦は年金生活9年生になるが、
この間に減ったものは、もとより貯金額であるが、これ以外としては増えたりすることが多い。
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。
しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。
この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
このような日常生活のささやかな思いで、そして国内旅行の旅先を思いも共有している。
そして小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。
記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
この種が幼い樹となり、やがて私は移植して、私は体力が衰える中で、けなげに成長している。
或いは地植えしている草花が、あちらこららに咲き増えているが、
この中の一部を植木鉢に移したりすると、四季折々の花が咲いたりしている。
こうした中で、退職記念として買い求めたデジカメの写真は増えたり、
或いは年金生活を始めて、まもなくブログの世界を学び、原則として毎日投稿してきたので、
この投稿文が私の年金生活の日々の心情の証(あかし)かしら、と私は微笑んだりしている。
このように私は定年退職するまでの半生は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったが、
定年後の年金生活は、私の人生の折り返し点の後は、恵まれ良き日々が続いている、と実感を深めたりしている。
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