夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

田家秀樹・著の『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』、私は愛惜を重ねながら読みはじめ・・。

2011-03-10 16:04:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞で読んで、注視させられたのは、
3面の最下段にある毎日新聞社の出版広告で、この中のひとつの本であった。

音楽評論家の田家秀樹(たけ・ひでき)氏の著作の『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』であり、
解説には、
《・・
いくつかの終わりと始まり、そして絶頂。
70年代は音楽が街やメディアが切り拓いた時代。
ミニコミ、フォーク、深夜放送、ニューミュージック、そしてロック。
現場を知り尽くした著者による決定版!
・・》
と明記されていた。

私は、田家秀樹氏に関しては、氏の作品として、たった2作品を購読しただけであった。
『オン・ザ・ロード・アゲイン~浜田省吾ツアーの241日~』<上・下>(1991年12月・角川書店)、
『読むJ-POP 1945~1999 私的全史 あの時を忘れない』(1999年8月)である。
そして、音楽雑誌では、氏の寄稿された記事は、数多く読んだし、
或いはテレビの音楽番組で、解説者として出演され、視聴したりした。

そして日本のポピュラー分野で、フォーク、そしてニューミュージック、或いはロックの状況を、
アーティストを含めて、最も熱く語れる第一人者であり、
この方を抜きにして70年代から今日までの音楽シーンの日本の実態と変貌を語ることができない、
と私は強く感じてきたので、
ぜひとも読んでみたい、と昨夜に駅前の本屋に寄り、購入した。
そして読み始めたのである・・。


http://books.mainichi.co.jp/2011/02/70-a015.html
☆【毎日新聞社】出版 田家秀樹・著作の『70代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』 ☆


私は東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
映画のシナリオライターをめざして、大学を中退した。

やがて明日の見えない映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかりで4年を過ごし、断念して通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、
大学中退の身では、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむ得ず、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。

この音響・映像メーカー会社は、一部としてレコードの有力なレーベルを管轄する部門があり、
私は面接の時に、懇願して配属して貰った。
そして入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理を得た後、
まもなく大手のレーベルが、レコード会社として新設されて独立した会社となり、
私は配属された。

そして私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
これ以降の私は、20数年、情報畑に専念させられたが、
音楽を直接に関係する制作系でなく、管理系の情報畑として、レコード会社の片隅に勤務した。

こうした中で、私は入社当時、文学・映画の作品は多少知っていたが、
音楽に関しては、無知な方であり、上司・同僚をあきれさせたりした。

そして私は奮起して、クラシック専門誌の『レコード芸術』、
音楽ランキング誌『オリコン』などを精読したりした。
ときには喫茶店、スナックに設置してあるジューク・ボックスで、
流行(はやり)の曲を聴いたりしていた。

そしてステレオを購入して、給料を頂くたびに、他社のレコードを含めて、
毎月アルバムを少なくとも3枚は買い求めていた。


こうして1970(昭和45)年から定年退職するまで音楽業界に35年近く勤めたが、
それぞれ70年代、80年代、そして90年代、やがて2004年の退職時まで、
たとえ管理系でありながらも、それなり会社の業績に圧倒的に左右されるので、
特に流行(はやり)の歌は、意識して聴いたりした。

しかし、こうした中で私として、圧倒的に感銘を受けた曲も多く、
夢中になり帰宅するたびに毎晩聴いたりし、物狂いのようになった曲もあった。
このことは、このサイトに数多く投稿しているので、省略する。

今回、70年代の音楽シーンを揺るがした名曲の数々を改めて田家秀樹氏に導かれて、
そうでしたよねぇ、と愛惜を重ねたり、
ときには、無知だった・・こうした背景があったの、と教示されたりして、
読んでいる途中である。


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お通夜に参列すれば、一族再会のようとなり、私は微笑しながら・・。

2011-03-10 09:08:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、遠い親戚の方のお通夜に参列した。

私の父の妹のご主人が死去され、もとより私にとっては叔母さんのご主人となる。
父の妹は4人で、いずれも健在で、この叔母さんは末妹であり、
私が高校2年の春に叔母は、この家に嫁がれ早や50年まじかとなっていた。

この間、この叔母ご夫婦は、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
私の実家である長兄宅で、ときおりお逢いしていた。

或いは法事の時もお逢いすることもあるが、私は三男坊の身であり、
もとより代々家を継がれてきている長兄より親戚関係の冠婚葬祭の交際は限定されているので、
気楽な面もある。

今回の場合も長兄は、『お通夜』、『告別式』に参列するが、
私の三男坊の身として『お通夜』だけ参列すれば、許される立場である。


このような関係で、私はこの地域としては由緒あるお寺で施行される『お通夜』に、
参列した。

私はふたりの妹と共に、親族側の片隅に着席し、禅師の読経を聴いたり、
亡くなわれた叔父を偲(しの)ぶように、参列者に多さに驚いたりした。

誰しも、そのお方の生を受け、亡くなわれるまでの一生の軌跡は、
どのお方と交流されたり、淡い関係をされたかは、もとより当人しか解からないので、
こうした方たちが・・と私なりに思いを重ねたりしたのである。


この後、親族関係のお清めの『通夜ぶるまい』で、
私は父の妹の叔母さんたち、そして叔母さんの家族の人たちと隣席し、
一族再会のように私は感じられたのである。

平素は、それぞれの人生を歩み、お互いにお逢いする機会も少ないし、
こうした法事の席で、遠くなった親戚の方たちと言葉を重ねたりして、交流するひとときとなった。

そして、ある叔母さんの家族のひとり、ふたり・・それぞれの近況を聴いたり、
これまでの歩みを交わしたり、人それぞれ確かな歩みをされて、
この人生を過ごされている、と私は改めて教示されたりした。

そして帰路する時、古人から伝えられている『血は水よりも濃い』という格言に、
確かだなぁ、と思いながら帰宅した。


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