私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞で読んで、注視させられたのは、
3面の最下段にある毎日新聞社の出版広告で、この中のひとつの本であった。
音楽評論家の田家秀樹(たけ・ひでき)氏の著作の『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』であり、
解説には、
《・・
いくつかの終わりと始まり、そして絶頂。
70年代は音楽が街やメディアが切り拓いた時代。
ミニコミ、フォーク、深夜放送、ニューミュージック、そしてロック。
現場を知り尽くした著者による決定版!
・・》
と明記されていた。
私は、田家秀樹氏に関しては、氏の作品として、たった2作品を購読しただけであった。
『オン・ザ・ロード・アゲイン~浜田省吾ツアーの241日~』<上・下>(1991年12月・角川書店)、
『読むJ-POP 1945~1999 私的全史 あの時を忘れない』(1999年8月)である。
そして、音楽雑誌では、氏の寄稿された記事は、数多く読んだし、
或いはテレビの音楽番組で、解説者として出演され、視聴したりした。
そして日本のポピュラー分野で、フォーク、そしてニューミュージック、或いはロックの状況を、
アーティストを含めて、最も熱く語れる第一人者であり、
この方を抜きにして70年代から今日までの音楽シーンの日本の実態と変貌を語ることができない、
と私は強く感じてきたので、
ぜひとも読んでみたい、と昨夜に駅前の本屋に寄り、購入した。
そして読み始めたのである・・。
http://books.mainichi.co.jp/2011/02/70-a015.html
☆【毎日新聞社】出版 田家秀樹・著作の『70代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』 ☆
私は東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
映画のシナリオライターをめざして、大学を中退した。
やがて明日の見えない映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかりで4年を過ごし、断念して通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、
大学中退の身では、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむ得ず、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、一部としてレコードの有力なレーベルを管轄する部門があり、
私は面接の時に、懇願して配属して貰った。
そして入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理を得た後、
まもなく大手のレーベルが、レコード会社として新設されて独立した会社となり、
私は配属された。
そして私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
これ以降の私は、20数年、情報畑に専念させられたが、
音楽を直接に関係する制作系でなく、管理系の情報畑として、レコード会社の片隅に勤務した。
こうした中で、私は入社当時、文学・映画の作品は多少知っていたが、
音楽に関しては、無知な方であり、上司・同僚をあきれさせたりした。
そして私は奮起して、クラシック専門誌の『レコード芸術』、
音楽ランキング誌『オリコン』などを精読したりした。
ときには喫茶店、スナックに設置してあるジューク・ボックスで、
流行(はやり)の曲を聴いたりしていた。
そしてステレオを購入して、給料を頂くたびに、他社のレコードを含めて、
毎月アルバムを少なくとも3枚は買い求めていた。
こうして1970(昭和45)年から定年退職するまで音楽業界に35年近く勤めたが、
それぞれ70年代、80年代、そして90年代、やがて2004年の退職時まで、
たとえ管理系でありながらも、それなり会社の業績に圧倒的に左右されるので、
特に流行(はやり)の歌は、意識して聴いたりした。
しかし、こうした中で私として、圧倒的に感銘を受けた曲も多く、
夢中になり帰宅するたびに毎晩聴いたりし、物狂いのようになった曲もあった。
このことは、このサイトに数多く投稿しているので、省略する。
今回、70年代の音楽シーンを揺るがした名曲の数々を改めて田家秀樹氏に導かれて、
そうでしたよねぇ、と愛惜を重ねたり、
ときには、無知だった・・こうした背景があったの、と教示されたりして、
読んでいる途中である。
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昨日の朝、いつものように読売新聞で読んで、注視させられたのは、
3面の最下段にある毎日新聞社の出版広告で、この中のひとつの本であった。
音楽評論家の田家秀樹(たけ・ひでき)氏の著作の『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』であり、
解説には、
《・・
いくつかの終わりと始まり、そして絶頂。
70年代は音楽が街やメディアが切り拓いた時代。
ミニコミ、フォーク、深夜放送、ニューミュージック、そしてロック。
現場を知り尽くした著者による決定版!
・・》
と明記されていた。
私は、田家秀樹氏に関しては、氏の作品として、たった2作品を購読しただけであった。
『オン・ザ・ロード・アゲイン~浜田省吾ツアーの241日~』<上・下>(1991年12月・角川書店)、
『読むJ-POP 1945~1999 私的全史 あの時を忘れない』(1999年8月)である。
そして、音楽雑誌では、氏の寄稿された記事は、数多く読んだし、
或いはテレビの音楽番組で、解説者として出演され、視聴したりした。
そして日本のポピュラー分野で、フォーク、そしてニューミュージック、或いはロックの状況を、
アーティストを含めて、最も熱く語れる第一人者であり、
この方を抜きにして70年代から今日までの音楽シーンの日本の実態と変貌を語ることができない、
と私は強く感じてきたので、
ぜひとも読んでみたい、と昨夜に駅前の本屋に寄り、購入した。
そして読み始めたのである・・。
http://books.mainichi.co.jp/2011/02/70-a015.html
☆【毎日新聞社】出版 田家秀樹・著作の『70代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』 ☆
私は東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
映画のシナリオライターをめざして、大学を中退した。
やがて明日の見えない映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかりで4年を過ごし、断念して通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、
大学中退の身では、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむ得ず、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、一部としてレコードの有力なレーベルを管轄する部門があり、
私は面接の時に、懇願して配属して貰った。
そして入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理を得た後、
まもなく大手のレーベルが、レコード会社として新設されて独立した会社となり、
私は配属された。
そして私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
これ以降の私は、20数年、情報畑に専念させられたが、
音楽を直接に関係する制作系でなく、管理系の情報畑として、レコード会社の片隅に勤務した。
こうした中で、私は入社当時、文学・映画の作品は多少知っていたが、
音楽に関しては、無知な方であり、上司・同僚をあきれさせたりした。
そして私は奮起して、クラシック専門誌の『レコード芸術』、
音楽ランキング誌『オリコン』などを精読したりした。
ときには喫茶店、スナックに設置してあるジューク・ボックスで、
流行(はやり)の曲を聴いたりしていた。
そしてステレオを購入して、給料を頂くたびに、他社のレコードを含めて、
毎月アルバムを少なくとも3枚は買い求めていた。
こうして1970(昭和45)年から定年退職するまで音楽業界に35年近く勤めたが、
それぞれ70年代、80年代、そして90年代、やがて2004年の退職時まで、
たとえ管理系でありながらも、それなり会社の業績に圧倒的に左右されるので、
特に流行(はやり)の歌は、意識して聴いたりした。
しかし、こうした中で私として、圧倒的に感銘を受けた曲も多く、
夢中になり帰宅するたびに毎晩聴いたりし、物狂いのようになった曲もあった。
このことは、このサイトに数多く投稿しているので、省略する。
今回、70年代の音楽シーンを揺るがした名曲の数々を改めて田家秀樹氏に導かれて、
そうでしたよねぇ、と愛惜を重ねたり、
ときには、無知だった・・こうした背景があったの、と教示されたりして、
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