夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

夏の夕暮れのひととき・・♪

2006-08-13 17:53:00 | 定年後の思い
東京の郊外は、午前中は曇り空であったが、
昼の少し前から夏らしい晴れ間となった。

今朝の読売新聞で『「昭和戦争」責任 総括』の特集記事を読んだりした。

読売新聞がここ1年【戦争責任検証委員会】を設置し、
何故、あのような無謀な戦争に突入してしまったのか、
どうして戦争を早期にやめられなかったのか、
と命題に基づいた総括記事が2面で掲載されていた。

こうした記事を日中読んでいたが、記事の行間に綴られている思い、息遣い、
そして何よりその時の時代を想像すれば、安易に読んだとはいえない。

たった2面の記事であるが、重苦しく思考させられる日中となった。

夕暮れのひととき、夏の夕暮れの陽射しは弱まったが、空は青く澄みわたっている。
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新盆の想いで・・♪

2006-08-13 09:44:00 | 定年後の思い
私の母が婦人系のガンで5年間に入退院を繰り返した後亡くなったのは、
平成10年の1月中旬であった。

母は都心から農家に嫁がれ、5人の子供を育て、父が亡くなったのは昭和28年の春だった。

祖父も父を追うように2ヶ月後に亡くなった。
残されたのは母と5人の子供、そして父の妹2人の未婚の叔母達であった。
私達子供といっても、長兄は中学生、末の妹は5歳足らずであった。

農家はある程度手広くしていたが、男手を失った農家は次第に衰退した。

私が中学生になった頃は、母はアパート経営をし、何とか人並みの生活となった。

そして5人の子を生育され、学校に通わせ、そして成人させ、巣立っていった。

母は老朽化したアバートを賃貸マンションに変貌させたのは、
昭和の終わりかけていたパブル期であった。

平成になると、『絹のブラウス・・思い切って買ったの・・』と私に言ったりしていた。
『母さんさぁ・・自分の働きなの結果なのだから・・遠慮することはないよ・・』
と私は言ったりしていた。

母の60数年間は、労苦の多い時期を過ごしたのだから、
子供の私としては、心底喜んでいた。

母は親族、親戚の交際には目配りを人一倍気をつける人であったが、
食にはそれ程興味はなく、衣服だけは拘(こだわ)っていた。

母の最期の10年は、後期の入退院もあったが、
はじめて充たされた生活を送られたと思う。

危篤の知らせを受けた私達は、数年前から覚悟があったので、
病室に駆けつけた時は、亡くなっていた。

私は何かしらぼっかりとした心持となったが、
実家の長兄宅に母が安置された時から、
兄妹、そして親族の人々と仮通夜、本通夜、告別式、そして初七日と調整したりした。

本通夜の日中から、東京では珍しい程、雪が本降りとなったりした。

四十九日を済ませた後、妹の2人と話合っている時、
『母さん・・私を忘れないで・・と雪が降ってくれたのかなぁ・・』
と私は冗談まじりに話したりした。

お盆を迎える時、母の新盆に当たるので、私達は提灯のことで話し合った。
母の性格を思いだし、数多いより気品のある提灯を2つ飾ることにした。

妹に選別をまかせ、お盆の時、長兄宅に行った。

お盆用の仏間の一角に、薄い美濃紙に母の好きだった桔梗が描かれ、
うすうすと浮かびあがっていた。

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曇り空の静寂な朝・・♪

2006-08-13 08:08:00 | 定年後の思い
東京の郊外は、曇り空の朝を迎えている。
昼前後に晴れ間となるが、28度前後の過ごしやすい日中となり、
夜のひとときは雨が予測されている。

私の住む地域では、帰省されふるさとで過ごされるお方、
或いは行楽地に行かれたお方達がいるので、
平日より閑散として、静寂な朝を迎えている。

年末年始より静けさがあり、蝉(セミ)の鳴き声の合唱が遠くからでも聴こえてくる。
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