ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

偽りの民主主義

2009-04-21 13:56:03 | 社会
昨日に続いて日本の運営の根幹となっている民主主義について考えてみたい。

私は日本は民主主義国家であるが民主主義はいまだにきちんと根付いていない感じがしている。民主主義においては各人は平等で一定の権利を持つ一方、社会市民としての義務を負っている。

しかし、日本の民主主義は戦後、突然上から与えられたので、どうして良いか皆分からず、「形の上での民主主義」を導入した。これがいまでも根強く残っている感じがしている。

先日ブログに書いた誰も「発言しない会議」がその一例である。それまでは官僚が決めたことを通達する、というスタイルだったのが民意を取り入れないといけないように突如ルールが変えられた。しかし、どうやって民意を取り入れればよいかはわからないし、本当に議論を始めたらいつ収束するかもわからない。そこで事務局案を「意見を出しにくい雰囲気の会議」にはかり、誰も意見を出さなかったということで皆の合意を得たということにする、という手法が開発された。この手法は便利なので広く官僚の間で広まった。

会社などでもそれまでワンマン経営だったのが「取締役会」で決定しないといけないことになり、同様の手法が採用された。

会社内での役職に関しても非民主主義的な場面には良く出くわす。部長が課長にある仕事を任せる。課長がその仕事の進め方に関する会議を開く。その会議に部長が出席していた場合、部長の意見はどう扱われるだろうか。

本来なら課長に仕事を任せたのだから部長の意見は担当者の意見と同様で、課長の判断のための材料に過ぎないはずである。しかし、多くの場合、日本の会社では部長の意見は「指示」と受け取られて、ほとんど無批判に通ってしまう。こうして現場を知らない人の意見がグループの意見になってしまう。

本来人間はすべて対等であり、序列ができるのは業務を進めるための役割分担によって生じることが体でつかめていればこういう問題は起きないはずだが、日本の会社では上司はすべての面で上に立つ、といったとらえられ方が、色濃く残っている。

年月がたつにつれて次第にそのような形だけの民主主義は減ってきたが、いまでも色々なところで残っている。それが、誰も発言しない会議を「日本的」と感じる理由ではないかと思う。

国民の側もマスコミも、官僚や政治家が決めたことは自分と関係のないところで決まったと思っているので無責任に批判する。しかし、官僚はともかく政治家は自分たちが選挙で選んだのである。当然選んだことに対する責任がある。

選ぶときには「こうするはずだ」という期待があって選んだのでその期待と外れた時に文句を言うはずだが、実際は選ぶ側も選ばれる側もそのような期待のイメージは無いので、「景気を良くしてほしい」「給料を上げてほしい」といった実利的なところばかりに期待が行く。街角のインタビューなどでもそれは明らかである。

このように民主主義がきちんと根付いていない国ではそれなりのもっと良い運営のやり方があるはずである。民主主義を捨てるか、国民に民主主義教育を徹底するか、どちらかの方策が必要だと思う