備忘録として

タイトルのまま

日和山

2014-05-24 14:19:17 | 仙台

芭蕉は『奥の細道』で松島を訪れたあと、平泉を目指すが、”つひに道踏みたがえて石の巻といふ港に出づ。”と道を間違えて石巻に行ったように書いている。しかし、同行の曽良が事前に準備した『名勝備忘録』には石巻の歌枕がある上、同じ曽良の『随行日記』に松島から道ずれになった武士から石巻の宿を紹介されたとあるので、石巻訪問は当初から予定に入っていたらしい。

”金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそいて、竈(かまど)の煙立ち続けられたり。”

芭蕉は石巻の日和山(ひよりやま)から、金華山を海上に見、北上川の河口には数百の廻船が集まり、隙間なく建つ人家のかまどから煙が立ち上っていると記す。

先日5月17日、3年半ぶりに仙台の義両親のご機嫌伺いに行った。震災の2か月前に仙台に行って以来である。この時期つつじがきれいだと言うので震災痕を見ることも兼ねて石巻の日和山に行った。下の写真は芭蕉と同じように日和山から”海上を見わたし”たものである。写真の左手、遠くにかすむ島は石巻沖の田代島で、金華山は牡鹿半島の陰に隠れ日和山からは見えない。芭蕉は田代島を金華山と勘違いしたとは思えないので心象上で金華山をみたのだと思う。芭蕉は旅立ちのときにも深川から見えるはずのない”上野・谷中の花の梢”を今度またいつか見ることができるだろうかと書いているように、曽良の日記とは矛盾する想念や心象風景を描く。これをFraudとかDistortionとかExaggerationなどと評価されたら文芸の創作者はたまったものじゃない。

日和大橋のある日和山を南に降りたあたりは、芭蕉の時代からずっと”人家地をあらそいて竈の煙立ち続けられたり”というほど人家が密集していたはずなのに、道路と宅地の土台と、廃屋が1件だけぽつんと残されていた。背後の日和山上には民家が密集し無傷である。こうしてみると、日和山南面斜面が被災地、非被災地の境界であり、死生の境界だったと思わずにはいられない。

下の地図は仙台藩が1645年に作成し、元禄年間(1688~1708)に模写した奥州仙台領国絵図(仙台市博物館所蔵)から石巻周辺を抜き取ったものである。芭蕉が日和山を訪れたのは元禄2年(1689)なので、この地図は芭蕉が訪れた石巻周辺を表していると考えていいと思う。石巻村と門脇村が北上川と日和山の間、すなわち日和山の東の北上川河口に面しているが、現在の石巻中心街は日和山の北西に広がる。上の写真と地図の廃屋付近の地名が門脇町で当時の地名を残している。地名は残すが町は津波で消滅してしまった。

日和山のつつじは満開だった。芭蕉が日和山に登ったのは旧暦5月10日すなわち陽暦の6月26日なのでつつじはもう散っていたのではないかと思う。日和山には芭蕉と曽良像以外にも、ここを訪れた宮沢賢治、石川啄木、種田山頭火斉藤茂吉らの詩碑、歌碑が建っている。賢治は中学校の修学旅行で盛岡から北上川を下ってきて日和山に登り、その時の詩を残している。石川啄木も修学旅行で日和山を訪れ詩をつくっているので、明治後半当時の盛岡あるいは岩手県では北上川を下る修学旅行が定番だったようだ。斉藤茂吉は1931年に日和山を訪れ歌を詠んでいる。山頭火はわざわざ芭蕉と同じ旧暦5月10日にここを訪れ歌を詠んだように、彼が芭蕉あるいは奥の細道に傾倒していたことがうかがわれる。

 


最新の画像もっと見る