備忘録として

タイトルのまま

アショカ王

2014-08-16 15:52:52 | 仏教

終戦の日前後は、毎年、戦争特番や関連記事が多くなる。NHKの『狂気の戦場ペリリュー』はあまりに悲惨だった。ペリリュー島をフィリピン進行の重要拠点と考え島を確保しようとするアメリカは最強と言われる第1海兵隊を、そこを絶対防衛線と位置づける日本軍はこれも最強の関東軍を送り込み、両者は激しい肉弾戦を繰り広げた。日本軍は飛行場奥の石灰岩の岩山内に地下陣地を築き持久戦、ゲリラ戦を仕掛けた。戦闘は1か月以上続き、アメリカの別働隊がフィリピン上陸を果たしたため、島には戦略的な価値はなくなった。しかし、大きな犠牲者を出し島から退去することもできたアメリカ軍は、戦略的価値がなくなった時点でも病的な執拗さで無益な戦闘を継続した。日本軍もまた持久戦を命令され投降も玉砕も禁じられていたため戦闘をやめようとはしなかった。日米双方の戦死者は増え、闘いを続ける兵士たちは周囲に累々と放置され悪臭を発する死者の山にも無関心になり、恐怖と憎悪で徐々に人間性を失い精神錯乱する者が多数出てくる。日本兵は1万人以上が戦死し残り数十人となり食料も尽きた中で大将が自決、米軍も日本軍並の死傷者を出し戦闘は終了する。ペリリュー島で生き残った日米双方の兵士たちは、70年経った今も島での悪夢にうなされると証言した。番組の中の映像はあまりにもショッキングで地獄そのものだった。これが戦場であり戦争なのだ。

以下はブッダのことば『スッタニパータ』中村元訳の一節である。上原和が『世界史の中の聖徳太子』で引用している。

水の少ないところにいる魚のように、慄(ふる)えている人々を見て、また相互に反目している人々を見て、私に恐怖が起こった。

まさに、ペリリュー島にいる日本とアメリカの兵士たちのことである。そしてブッダはこんなことも宣言している。

言い争う人々を見よ。杖を執ったことから恐怖が生じたのである。わたくしがどのようにしてそれを厭(いと)い離れたか、厭い離れることを宣(の)べよう。

杖(武器)を持った瞬間から人々に恐怖が生じる。恐怖は暴力に向かう。ペリリュー島の日本軍に持久戦を指示したかもしれない大本営の瀬島隆三は、後日『大東亜戦争の実相』の中で、”軍備増強は戦争抑止には向かわず戦争促進に直結する”と、はっきりと述べている。最近の政府与党の一連の動きに不安がいっぱいになる。

紀元前3世紀のインドに現れたアショカ王(紀元前268-232)は仏教を篤く保護したことで知られる。アショカ王は長兄を殺してマウリア朝3代目の王として即位し、即位した当初は悪逆非道の君主で征服と殺戮を繰り返す。ところが、インド東部の国カリンガとの戦い以降、深く仏教に帰依するようになる。カリンガの戦いでは10万人を殺害し、15万人が捕虜として他の地方に移送された。戦闘員ばかりでなくその数倍の人々が死に、そこには多くの仏教の僧侶やバラモン(バラモン教のちのヒンズー教の司祭階級)が含まれていた。アショカ王は自身の詔勅文でそのときのことを書き残している。植村清二『アジアの帝王たち』に訳文が載っているが文語調で格調高すぎて意味がよくとらえられないので以下それを要約した。

アショカ王は即位8年にカリンガを征服した。15万人が捕虜となり、10万人が殺戮され、その数倍の衆が死んだ。カリンガ征服以来、自分は熱心に法(ダルマ)を護持、帰依し広めた。自分はカリンガ征服に痛恨を感じる。征服戦争で避けられない人民の殺戮、死傷、捕虜に自分は深い悲痛と悔恨を感じる。今このような国に住む善良な人々は惨虐、殺戮、離別に会い苦しみ、その悲しみは消えない。自分はこのような災禍をもたらしたことを後悔する。カリンガで殺戮され死んだ人民の百分の一あるいは千分の一の損失も今の自分には耐えがたい。

”以降王は正法の使徒をもって任じ、道路に樹を植え、井泉を掘って旅客に利便を与え、灌漑施設を完備し、医療設備を普及して人民の安寧幸福を計った。治民行政にはとくに意を用い、特別の管理を任命して領内の政治を巡察監督させ、その施政方針を示した勅命を領内いたるところの岩石石柱に刻銘して、王の趣旨を徹底させた”宮崎市定『アジア史概観』より。石柱や岩石に刻まれた詔勅文には以下が記載されている(佐藤圭四郎『古代インド』より)。

  • 生類の生命を重んじること(不殺生)
  • 法(ダルマ)の実践に励むこと
  • 官吏の義務と辺境人への教え
  • アショカ王が布施や供養を行ったこと
  • 自己反省が重要であること
  • 刑罰が公正でなければならないこと
  • サンガ(僧団)のおきてを破ったものを追放すること
  • 外道(他の宗教)に寄進したこと

臣下に宛てた以下のような指示が残っている。

すべての人民は自分の子であり、現世も後世も幸福と栄誉を享けることをねがう。

仏法僧の三宝に帰依することや、官吏の心構え、刑罰の公正など、十七条の憲法”便(すなわ)ち財在るものの訴は、石をもて水に投ぐるが如し。乏(とも)しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。”すなわち、金持ちの訴えは100%受け入れられるが、貧乏人の訴えは100%退けられると言う裁判の公平と法の平等の重要性を説く聖徳太子のことばに似ていることは驚くばかりである。当然のことながら、上原和は『世界史上の聖徳太子』でアショカ王と聖徳太子を重ねる。アショカ王の悔恨と若き日の権力闘争での”血塗られた手”を後悔する聖徳太子と、その後の二人の生き方である。

仏教に帰依したアショカ王は、八つの仏舎利に治められたブッダの骨を八万四千に分骨しインド各地に仏舎利塔を建てた。玄奘三蔵法顕は、アショカ王が建てた石柱やストゥーパ(仏舎利)、摩崖刻文を祇園精舎(シュラーヴァスティー)、クシナガラ、サルナート、パータリプトラ(マウリア朝の首都)、カピラヴァストゥ、ルンビニーなどブッダゆかりの地で見て記録している。