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ビザンティン帝国

2017-05-01 00:13:37 | 西洋史

1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルがオスマントルコによって陥落した話は、塩野七生の『コンスタンチノープルの陥落』などに詳しい。イスタンブールの考古学博物館でみた金角湾を封鎖する鎖、鎖を回避し軍船を陸送し金角湾に入れた話、21歳のメフメト2世の決断、コンスタンティヌス11世の最期などドラマチックだ。陥落までのコンスタンティノープル、東ローマ帝国、ビザンティン帝国の歴史を、井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』で辿った。

ローマ帝国の分裂

ローマ帝国は紀元395年に東西に分裂し、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を都とした。人種的にはギリシャ人であり、ギリシャ語を用いながら、ローマ人・ローマ帝国と自称しつづけた。

コンスタンティヌス帝

コンスタンティヌスは、まだローマが分裂する前、多くのライバルとの戦いに勝ち抜きローマ皇帝となった。最後の戦場となったボスポラス海峡に臨む町の戦略的重要性を認識したコンスタンティヌス帝は330年に遷都し、コンスタンティノープルと自分の名を冠した。帝はキリスト教に改宗し、キリスト教を国教とした。皇帝が神となったのである。井上浩一は、ここで戦前の天皇制を例えとして以下のように語る。

「天皇制イデオロギーに基づく第二次世界大戦・戦中の超国家主義、侵略戦争に対して、キリスト教徒は強く抵抗した。戦後における天皇制に対しても、靖国神社や「建国記念の日」の問題をめぐって、同様の立場を貫いている。そこに宗教者の良心をみることができるだろう。しかし、----もし天皇がキリスト教に改宗したならば、キリスト教者の反天皇制運動はどうなるのだろうか、と、コンスタンティヌスの時代に生じたのはまさにそれであった。ーーーー皇帝や天皇が神になったとしたら、神を相手に批判はできまい。ーーーーマルクスはビザンティン帝国を最悪の帝国と呼び、キリスト教を現実を肯定する宗教として批判したが、マルクス主義が体制を擁護するイデオロギーになったとき、同じ悲喜劇を繰り返すであろう。」

左下の写真は3月の旅で撮影した「コンスタンティヌス帝の柱」で、イスタンブールの丘の上に建っていた。かつて塔の上には帝の像があり、イスタンブールのどこからでも見えたという。右下の写真はブルーモスクとアヤソフィア聖堂近くにあったオベリスクで、競技場跡地に建つ。オベリスクはエジプトから運んで来たもので、塔の表面には象形文字ヒエログリフが刻まれていた。台座には競技場で観戦するコンスタンティヌス帝のレリーフがある。競技場では映画「ベンハー」の戦車競走などが行われ市民は熱狂したという。

文明批判としての宗教

井上浩一はさらに脱線し、行き過ぎた文明批判としての宗教の役割について懐疑を示し、以下の法学者ケルゼン(オーストリア生1881~1973)のことばを引用する。

「宗教の歴史を顧みるならば、ただ神とともにあることに満足した信者は一人もいない。自ら神に服従しようとする者は、常に他人をもこの神に服従させようとするものである。自らを卑下することのはなはだしく、我が宗教的献身の狂信的であればあるだけ、神はいよいよ高められ、この神のための闘争は情熱的となり、神の名において他人を支配しようとする衝動は限りないものとなり、この神の勝利は高らかに謳われる。(H・ケルゼン「神と国家」長尾龍一訳)」

このような行動は、ISやオウムやその他諸々の宗教に多かれ少なかれ見受けられるように思う。

ビザンティン帝国の繁栄

6世紀のユスティニアヌス1世のとき、486年に滅びた西ローマ帝国の領地も含め地中海沿岸をほぼ網羅する最大版図を回復する。聖ソフィア教会は彼の治世中の6世紀に建てられた。8世紀から10世紀にかけてビザンティン帝国は繁栄し11世紀に黄金時代を迎える。その後は縮小し続け、15世紀に滅亡したときにはコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を残すのみとなっていた。皇帝専制体制の帝国を支えたのが有能な少人数の官僚だった。教育レベルの高い官僚が税収などを担当した。これは、科挙を合格した優秀な官僚が国を支えた唐などの中国王朝と似ている。帝国末期、彼らが腐敗していったことも同じだ。帝国の教育レベルは高く、履修科目として古代ギリシャ語、算術、幾何、天文学、音楽、哲学、法学があり、ホメロスは教養人の常識だった。一方、宮廷内では妻や側近が皇帝を暗殺するなどの陰謀が繰り返された。それでも帝国は繁栄をつづけたのは呂后や則天武后時代の中国王朝に似ている。

イスラム教の勃興

622年はイスラム紀元元年で、マホメット(ムハンマド)がメッカからメジナへ移った年である。彼の死後2年目の634年からイスラムのビザンティン領土への侵攻が始まった。以降、1453年の滅亡まで、イスラムとの戦いが延々と続く。

キリスト教

キリスト教はモーゼの十戒にあるようにそもそも偶像崇拝を禁じていた。ところがギリシャ文明とそれを継承したローマ文明の神々は人間の姿をもち、人間と同じような感情をもち、不死を除けば人間と変わらない存在だった。キリストや神の偶像化はギリシャ型への傾斜によって肯定されていく。これは、ブッダの偶像化が、アレキサンダー大王の遠征後にガンダーラやマトゥーラで始まったことと符合する。ビザンティン帝国の国教はギリシャ正教である。10世紀に勃興したロシアは、コンスタンティノープルに送った使節が壮麗な聖ソフィア教会に感動し正教会を導入することを決めている。 

イタリア諸都市

11世紀の地中海の制海権はイタリア諸都市に握られていた。海軍を持たないビザンティン帝国はアドリア海から侵入してきたノルマン人との戦いにヴェネチアの援助を受けた。その対価として関税なしでの商業特権を与えた。その後も、有力都市であるジェノヴァ、ピサなどにも商業特権を与え、経済的にはこれらイタリア諸都市に従属した。

十字軍

トルコとの戦いでは西ヨーロッパに援助を求め、これに呼応してきたのが十字軍だった。1204年の第4回十字軍はビザンティン帝国の宮廷陰謀に加担しコンスタンティノープルを攻め落としラテン帝国(1204~1261年)を樹立する。ビザンティン側はトルコ各地に亡命政権が生まれ、そのうちニカイアの亡命政権が有力となり、1261年ヴェネチアやラテン帝国の軍隊が遠征に出ている隙をついてコンスタンティノープルを奪還する。

コンスタンチノープルの陥落

 オスマントルコは1299年に小アジアのアナトリアで建国する。徐々にビザンティン帝国の領土を蚕食し、14世紀末には周辺の小アジアとバルカン半島のほぼ全域を支配し、コンスタンティノープルの征服を残すのみとなった。1402年いざコンスタンティノープル攻略に取り掛かろうというとき、中央アジアから遠征してきたチムールに大敗し、スルタンのバヤズッドは捕えられ帝国は解体した。これでビザンティン帝国は一息つくことができた。オスマントルコは、チムールの死、ビザンチン帝国の弱体、西ヨーロッパ諸国の傍観などに救われ10年後に再興する。そして1453年、若きスルタンのメフメト2世(1432~1481)によりコンスタンチノープルは陥落する。彼のコンスタンティノープルでの業績は、下のイスタンブール考古学博物館のパネルに書いてあった。防衛設備の修復、ハギヤソフィア教会をアヤソフィアモスクに変え建物を保護したことを始め教会を少しづつモスクに変えていったこと、非モスリム信者の保護、水道施設の整備などである。

井上浩一は、まとめで、「ビザンティン帝国一千年の歴史のかなめは、状況に応じて生まれ変わっていったところにある。すなわち、強固な(政教一致の)イデオロギーや伝統だけで国家を一千年も存続させることはできず、建前を残しながら、現実と妥協し、危機に対応し、生まれ変わること、いいかえれば革新こそが帝国存続の真の条件だった。」と結ぶ。すべての組織運営に通じる示唆的な言葉だ。


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