備忘録として

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Art and Religion in Thera

2016-12-30 18:03:59 | 西洋史

ギリシャ・サントリーニ島のアクロティリ遺跡を訪れた友人から土産にもらった『Art and Religion in Thera』の筆者は、遺跡を発掘調査した故マリナトス教授の娘Dr. Nanno Marinatosである。Theraとはサントリーニのこと。アテネで生まれアメリカのコロラド大学で考古学を学んだDr. Marinatosは、遺跡研究の方法論(Methodology)として、背景(Context)、類推(Analogy)、文化的意味(Cultural elements as meaningful signs)の3つのポイントをあげたのち本題に入る。以下概要。

街の神殿

紀元前1500年頃、火山灰に埋もれたアクロティリは、これまで10,000m2ほどが発掘されているが、それはまだ半分にも満たない。発掘された7つの神殿(Shrine)では、Adytonというギリシャの神殿にあり神父が神託を告げる小空間、宗教儀式を表すフレスコ画(モルタルを塗った壁に描いた水彩画)、人々が集まる広い部屋、通りに面した大きな窓、儀式用のカップなどが発見された。街の規模に比べ神殿の数が多く、専任聖職者ではなく、おそらく町の支配者や上流階級の人々が神父を兼任し、経済、行政、貿易も担ったと推定される。

クレタとの関係

アクロティリは、100㎞ほど南に位置するクレタの植民地だったという説と、クレタを中心としたミノア文明の影響を受けただけという説がある。筆者は双方の中間説を支持する。アクロティリはミノア文明に先立つキクラデス文明の影響をより多く受け、住民は少なくとも中期キクラデス文明の栄えた紀元前1800年頃よりサントリーニ島に住み着いたと考えられる。宗教儀式はミノア様式だけでなく明らかにキクラデスの特徴がある。宗教儀式は強制か先進的な場合によってしか変更されないので、住人はミノア文明に属するクレタの植民者とは考えにくい。別の見方をすれば、ミノア文明は、宗教儀式を介してアクロティリを含むエーゲ海を効果的に支配していたと考えられる。

アクロティリの崩壊

アクロティリは紀元前1500年の地震によって損傷し、その後火山灰で覆われた。火山灰の下に草の痕があり、地震と火山の噴火の間には少なくとも1回雨季を経験している。遺跡で被災した人骨と貴重品が見つかっていないことから、住人は貴重品を持って街を放棄したと考えられる。地震のとき火山噴火の兆候があったか、水源が枯渇したことが街を放棄した理由だと考えられている。

1930年にマリナトス教授は、紀元前1500年のサントリーニ島の大噴火によりアクロティリは埋まり、100㎞南のクレタ島の海岸はそのとき津波によって破壊されたとし、これはプラトンのアトランティス大陸伝説の下敷きになっているというマリナトス説(Marinatos Theory)を提唱した。当初、このマリナトス説は省みられなかったが、彼が行ったアクロティリ発掘と発見により広く受け入れられることになった。しかし、クレタ島の被災は紀元前1450年のことであり、サントリーニの噴火から50年が経ち時間差があることや、火山学者によってサントリーニ島噴火は考えられたほど大規模ではなかったことが証明されたため、マリナトス説は修正を余儀なくされている。

West Houseのフレスコ画

下の遺跡写真は街の辻に建つWest Houseと名付けられた2階建て家屋である。どこにでもある街角のように見え、今から3500年も前の廃墟とは思えないほど現実感がある。間取り図に示す2階の北西に位置する部屋番号5に船団図や魚を持った裸体の若者などの有名なフレスコ画がある。

フレスコ画

下のイメージ図は部屋番号5を南から見たもので、壁に描かれた魚を持った裸体の若者はFishermenと名付けられたが、単なるFishermenではなく、髪を刈上げた裸体の若者が宗教儀式のための供え物の魚を奉納する場面を描いている。 二人が歩いて出会う部屋の北西隅の窓に供え物をのせるテーブル(Offering Table=写真では鼎のように見える)が見つかっている。また、南側の部屋番号4から5に通じるドアには、下の袈裟を着た女性が描かれている。女性は魚を持つ若者同様に髪を刈上げ、刈上げた頭部は青く唇と耳を赤く化粧し、宗教者だけが着る袈裟を着て、バーナーを手に持っている。バーナーはおそらく香炉だろう。この女性の髪型や服装は明らかに他のフレスコ画の街の女性と異なり、聖職に関わる人物である。

窓の上、天井下の空間はFriezeと呼ばれる建築空間で、ギリシャ・ローマ建築ではそこにレリーフや絵画が施される。下のイメージ図正面(北壁Frieze)には、部分的に下のフレスコ画が残り、敵から町を守るエーゲ海の人々(Aegeans)と勝利を喜ぶ人々が描かれている。右側の東壁Friezeのフレスコ画は川と植物と動物で、左の西壁Friezeには何も描かれていない。

船団図

船団図は部屋番号5の南壁Friezeにある。船団図の長さを上原和が3.9m、川島重成が6mとそれぞれの著書に書いているが、部屋の見取り図にある縮尺からは、部屋5の南壁の1辺の長さは4mほどなので、上原和の3.9mに軍配をあげておく。

船団図 Naval Festival(Wikiより、図の下の説明文は本書の解釈とはまったく関係がないので無視すること)

マリナトス教授は船団図を、左端のアフリカ(リビア)への遠征から右端のアクロティリへ凱旋する様子を描くと解釈した。左端の町の上部にシカを追うライオンが描かれ、船には凱旋する戦士たちが乗っていることを根拠とする。しかし、娘のマリナトス博士は、右端の街はアクロティリでほぼ間違いないが、左端の町はアクロティリ近隣だとする。その理由として、アフリカからの長旅に櫂を使うとは考えにくいこと、船体に描かれた装飾が花や蝶や鳥という宗教的祭礼の装飾であり遠征から帰還する場面とは思われないことをあげる。左端の町に住む人々の服装は質素でどこか田舎風であり、アクロティリに属するサントリーニ島の別の町か、近隣の島の町ではないかという。町の絵の上でシカを追うライオンは実際の地理的風景ではなく、単なるシンボルだとする。

本ではこの船団図の説明に1章(Chapter V)を割り当て、各場面を詳細に分析し、海洋と軍事の祭を描くと結論付ける。

船団は大小様々の船より成り、乗っている人間の服装も様々であり、各階層の人々を描いている。船体は祭礼用に装飾されている。アクロティリの街のバルコニーには角笛を持った聖職の婦人が立っている。港には舟を迎えるため居並ぶ若者と生贄の動物を引く男がいる。West Houseのフレスコ画全体が軍事的勝利とそれを祝う宗教的な祭りや儀式を表している。男の若者が主人公の祭は成人式のようなものかもしれない。フレスコ画に描かれた動植物(蝶、ゆり、燕など)は春を表すので、祭りは春に行われたと思われる。

ここまで、West Houseのうち部屋番号5で発見されたフレスコ画の概要を抽出した。本のP.60まで約半分に相当する。残り半分は、他の神殿であるXeste3、Shrine of Ladies、Shrine of the Lilies、Shrine of Antelopes and the Boxing Childrenで発見されたフレスコ画や遺物を解説するがざっと目を通しただけで、まだ熟読できていない。

中表紙に、”To the memory of my father who died as a result of a fatal accident while excavating Akrotiri"とあり、本書は筆者の父親でありアクロティリ発掘中になくなったマリナトス教授に捧げられる。


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