備忘録として

タイトルのまま

アクロティリ遺跡

2008-10-05 19:05:32 | 西洋史
最近読んだ上原和”トロイア幻想”講談社学術文庫からは多くのブログネタをもらった。ギリシャ神話、トロイア戦争、インドの釈迦、敦煌、鑑真と来て、最後はやはり聖徳太子で締めくくる旅の本である。写真はサントリーニ島の崖に立つ白壁と青い屋根の街(Wikiより)
以前、高松塚古墳の回で、上原和は発掘当時より壁画をはがして保存するよう主張していたことを紹介したが、”トロイア幻想”の中で、上原が1974年にサントリーニ島アクロティリ遺跡の発掘現場にマリナトス教授を訪ねたときに、「これまで機会があるたびに、私は高松塚古墳の壁画を一刻も早く剥離して、抜本的な保存対策を講ずるべきだ、と主張してきたが、返ってくるのは、壁が薄すぎて剥離が極めて困難であるという答えばかりであった」ため、教授に「剥離は困難ですかと問うてみた」ところ、「ここではわずか1mmの厚さのフレスコでも剥離し、修復して、アテネに運び、すべての人々の前に公開している」という答えであった。そして最後に「お招きがあればいつでも日本に行きますよ。そして実際に剥いで見せましょう」と言われた。
下のフレスコ画(漆喰の上に描かれた絵)はアクロティリの現場から発掘され、アテネの考古学博物館に保存されている船団図である(Wikiより)。

船団図(部分) 全体はhttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/d4/98ab138beb7a4e87120aaf6101457526.jpg
上原和はこれを国立考古学博物館の研究室で見ていて、
”横の長さが390cmで縦が44cmの帯のように長いフレスコで、左の陸地の港を出港して右の陸地の港に入る船団による船旅を、見る者が絵巻物のように楽しむことができる。右の船団が入港してしているのは、おそらくサントリーニ島であり、出港の地については、マリナトス教授はアフリカ北岸リビアに擬しておられる。ライオンが描かれているのでやはりアフリカか西アジアであろうか。海洋には船団を追うイルカの群れが描かれ、船には、イルミネーションのように、船首も帆柱も(ひまわりやランタンで)飾り立てられ、船尾には、きらびやかな船長のキャビンがあった。また帰帆する港には、胸ゆたかな婦人たちが描かれていた。エーゲ海に騎りゆく、平和な海洋民の船旅の図であった。”

同じフレスコ画のことは、以前読んだ川島重成”ギリシャ紀行”岩波現代文庫でも触れられている。
”特に注目するのは、海戦、兵士の出陣と牧畜、船団、ナイル川(?)の風景、とでも称すべき主題が描かれた絵巻物で、特に船団図は長さ6mにも達する帯状壁画である。船は美しく飾られ、漕ぎ手はもちろん、くつろぐ貴人たちの姿も見える。これは冬が過ぎて航海の季節を迎えたのを喜び祝う海の祭りであろうか。イルカが船と並んで楽しげに遊泳している。-----(以下省略)”

フレスコ画のサイズが上原和の記す長さ(3.9m)と川島の長さ(6m)が異なっているのは、上原が研究室の一隅で細切れ?(私の想像)に絵を見たのに対し、川島は展示場で全体を一度に見たことが原因かもしれない。

マリナトス教授はアクロティリやクレタ島の遺跡で火山灰や津波の跡を確認したことから、BC1600頃のサントリアーニ火山の爆発がプラトンのいうアトランティスが一夜にして沈没した話の下敷きになっているのではという説を提唱している。この船団図をアトランティスから逃げる状況を表しているとする説もある(ネットサーフィン中に英語サイトで出くわしたが、かなりあやしい)。

いずれにしても、高松塚壁画のその後の惨憺たる状況と、ギリシャでは色鮮やかな船団図が誰でも博物館で見られる彼我の違いに愕然とする。

不幸にも、上原が会った2ヶ月後にマリナトス教授は遺跡で事故死し、終に高松塚を訪れることはなかった。後に、上原和はアクロティリの遺跡に葬られたマリナトス教授の墓を訪れている。

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