備忘録として

タイトルのまま

新町橋

2008-04-06 00:19:16 | 徳島

この橋、新町橋(新しい町の橋)はこの土地のしゃれた場所なのだ。夏の夜、誰もが橋の上に涼みに来る。ぼくもだ。そして、しょっちゅうこの場所を通る。正面の山もばくはよく知っている。山の中腹に、お前から見て右手に家が見えるね。ぼくはそこをよく通っている。さようなら    アパ 大正13年9月4日 徳島
<モラエスの絵葉書書簡;ヴェンセスラウ・デ・モラエス著、岡村多希子訳。モラエス(子供のころの愛称アパ)が故郷ポルトガルに住む妹フランシスカに宛てた絵葉書書簡で、このころ正面の山”眉山”の麓の伊賀町に住んでいた。モラエスが送った新町橋の絵葉書は土木学会のWeb-siteにも掲載されていたので拝借した。>


この橋、新町橋はこの町に住む子供たちの遊び場なのだ。夏の盆踊りの夜、誰もが橋の上で踊る。ぼくもだ。そしてしょっちゅうこの場所を通る。正面の山もぼくの遊び場だ。山の手前、お前から見て左手にアドバルーンの揚がるビルが見えるね。ぼくのよく行くデパートだ。さようなら    K 昭和35年 徳島
<このころ5歳のぼくは右手の白いビルの眉山寄りに住んでいた。新町橋から眉山の麓までの新町橋通りの真ん中はワシントン椰子の立つ広場で、両側に車道があり、さらに両端がアーケードの歩道になっていた。歩道にはプラタナスが植えられていた。新町橋の左手前の看板は映画上映の宣伝だったと記憶している。この絵葉書はネットサーフィンで以前見つけたものだが出典の記録がない。>


<平成20年今の新町橋。ワシントン椰子が大きくなりビルも林立し、橋がよく見えない。新町橋通りには地下駐車場ができ、まるしんはビルも壊され今はもうない。昭和30年代絵葉書の右手の白いビルはまだ残っているが、これを壊して再開発をする計画があるそうだ。また思い出がひとつなくなるのだろうか。>


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