
自分は個人的にあまり大雪渓のコースを使うのが好きでないので、雪渓から登ることははじめから考えていないし、下るにしてもそれは、何らかの事情で変更を余儀なくされた場合しか考えられないが、『いざなったら大雪渓から・・・』と言う意識はいつも持っている。それは安全にエスケープできる,と言う位置づけである。
そういう位置づけでこのコースを考えていた立場からすると、今回の崩落は頭をガツンとやられたような衝撃だった。
10年無事故だろうと100年無事故であろうと起きる時には起きる,と言うことで、それを肝に銘じなければならないと言うことだ。
かつて佐伯冒険クラブの第1回アルプス冒険学校の際,ねぶかっぴらから見上げる杓子岳の岩壁の先端がガスの合間から垣間見える様を『天空の城ラピュタ』に例えた子どもがいた。かれこれ20年も前の話しである。
確かに素晴らしい景観ではあるが、考えてみればそら恐ろしい場所でもある。十数年間大崩落なしと言う事実が安全神話をうみ、ついつい警戒を怠ってしまいがちだが、あれほどの岩壁がほとんど垂直にそそり立つその足元にいて、恐さを感じないと言うのは決してほめられた事ではないんだと思った。
斜面があってそこに雪があれば『いつでも,どこでも雪崩は起こりうる』と考えなければならないと、厳しく教えられたが、雪山だけでなく、斜面があればいつでもどこでも,落石,土砂崩落はありうると言うことを改めて頭と体にたたき込まなければならない。
これまで無事故であったと言うことが、今後の無事故を保証するものではない。にも拘らず無事故であることが気の緩みを生み、安全への万全の備えを怠ると言うことは大いにありうる。安全幻想の落とし穴だ。
今回の崩落事故を、自分の中にいつの間にか芽生えていた安全神話を打ち砕く警鐘としなければならないと思う。
(写真は大雪渓,ねぶかっぴら付近で列をなして待機する登山者。ほとんど動いていない,8月1日)
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