遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

あれから7年~再開・日本海津々浦々

2015-02-22 12:57:27 | 海岸線を歩く

 親不知トンネル/富山湾最奥部


日本海の海岸線を歩く~コース不明のミステリー・ツアー
☆海岸線を歩いて津々浦々の景色と人々の暮らしを見る



 園家山CP場/大屋海岸


☆コース 
 第1候補輪島~羽咋 
 第2候補寺泊~新潟 
 第3候補;魚津~滑川蜃気楼ロード(再)
 第4候補;能登半島or奥能登(再)
 第5候補;その他(その場で考える)
 のいずれか



 常願寺川のハマダイコン/生地の魚市場


☆日時;2015年4月20日(月)~22日(水)
 ※4月18日(土)~19に日’(日)は森くら主催のホタルイカ身投げツアーに参加
☆園家山CP場(ホタルイカ身投げツアー宿泊地)から出発点に移動し
 海岸線を1日20㎞~30㎞を歩く



 蜃気楼を待つ


☆時速4㎞以下であらゆるものをしっかり見ながらゆっくり歩く
☆歩き終わったらバスで出発点に戻り車を回収して宿泊場所を探し幕営
 または軽トラキャビン泊...




 定置網/定置網の漁網


 日本海の全海岸線を歩くことを思い立ってから6年。なおもぐずぐずと先送りする優柔不断に決着をつけて第1歩を踏み出したのが2008年5月3日。4年間(5回・20日)かけて輪島まで到達したところで一服したまま、たちまち4年が過ぎた。
 2011年からは東に向かっても歩き始め、2回(5日)で寺泊まで進んであと2~3日で新潟と言う所で止まったままになっている。



 フィッシャリーナ/


 これ以上間をあけると頓挫してしまいそうなので今年は再開したいと思っていたところに森くらさんがホタルイカ身投げツァーなるものを企画してくれたので、これに乗じて再開の振りだしに充てることを思い立つ。




 果てしない海岸線~古志の松原/射水火発の巨大煙突


※2012~14年は渥美半島・伊良湖岬を出発点とするココナッツウォークに転じ、紀伊半島・熊野~潮岬間,および福島原発を挟む広野町・南相馬市と閖上地区・気仙沼を歩く。



 日本海アルプス/ハマナス


ココナッツウォーク,第2弾は福島原発から

2013-03-12 09:34:27 | 海岸線を歩く

 2012・4・29 ココナッツ・ウォーク出発点:伊良湖岬ヤシの木記念碑/2011・11・4刈羽原発


 13日からココナッツ・ウォーク・第2弾のスタート。
 三陸の海岸線を歩くつもりで宮城・福島の県境を出発点をとして北上するつもりだったが、やはり福島原発を抜きにしては意味がないと考え直し、JR常磐線のいわき側最終駅に当たる広野駅から歩くことにした。








 道路状況や立ち入り禁止区域の範囲,放射線量の現状等,何も分からないままとにかく行って見ようと思っていたところ、FBで知人のHI君がいわき市に行っていると言う記事を見てすぐに電話し、現地の状況等聞いたところ。
 禁止区域以外は出来るだけ海岸線に近い所を歩くつもりだが、山の中の道を迂回させられるかもしれない。
 食料・水・燃料を確保して夜通し歩いても構わないつもりで行く。

 各駅停車・常磐線乗り継ぎでまず広野駅まで行ってそこで考えよう・・。


 刈羽原発/ヤシの実記念碑公園



能登島北端の町を行く

2012-02-07 14:49:54 | 海岸線を歩く

 8:30無関町/8:56行き止まりか


 8:39,無関町の港に着く。海岸線の道を聞くと行き止まりで戻って来なくてはならないと言われたが、いつものように行き止まりの地点までは行ってみることにして港から続く護岸堤の上を歩く。20分ほどで立ヶ鼻と言う岬の突端に達すると堤防はそこで終わり、岬越しに島の北端に当たる百万石から更に本土の穴水町方面と思われる陸地を望むことが出来た。



 9:05田圃道を通って無関のバス停に向かう/9:16道を教わって閨へ


 山際と堤防の間には水田が広がっていて、そこでも甲斐甲斐しくまた睦まじく田植えに勤しむやや年配の夫婦,若夫婦,子ども達三代の家族と思われる人達の姿があった。
 田圃の道を引き返して無関のバス停に戻り、待合室で休憩(9:17~30)の後、道を教わって細い川沿いに坂を登り、県道に出て隣の閨町へ向かう。 



 9:44三ヶ浦漁港へ/9:51 漁獲(イワガキ,アカニシ等)


 9:44,閨町に入り、三ヶ浦漁港に向かう。ここでも釜崎と言う小さな岬で行き止まりとなって引き返し、港を覗くと水揚げされたばかりの牡蠣やアカニシがコンテナに入っているのが見られた。小さな漁村らしく大漁とは言い難い収穫で生計を支えるに足りるとは思えないが、これはこれで他者には測り得ない海の幸なのだろう・・。



 9:49港にある五輪の塔/9:52閨港



 10:53鴫島入り江と行者鼻方面/笠栗鼻突端


 港の傍で壁に五輪の塔の図説を描いた建物を見る。なぜ突然五輪の塔が出てくるのか分からなかったが、それはこの地区にある観音堂の石仏群に因むものであることが後に分かる。
 三ヶ浦漁港の先は釜崎と言う行き止まりの出っ張りなので県道に戻って鴫島入江と言う湾に出ると海沿いに水田が現れ、水田の向こうの湾を隔てて右(東)に長く突き出た岬と、その基部辺りの木立ちの中に白いマンションのような建物が見えた。



 11:06手植えする婦人と話す


 県道の左側には水田が広がり、あっちに1人,こっちに1人と田植えに精を出す人の姿が見えるが、ごく稀に機械の上に座って植えつけている男性を見る他は、どの田圃も女性が1人で手植をしている。
 『お疲れさまデス』と声をかけると腰を伸ばして『どこまで歩くのぉ~』とにこやかに答える。『行けると所までです。まぁ今日中には橋を渡れそうですが・・』と答えると『私らもネ,よく歩くのよぉ。日曜日とか夜にネェ~』と仰る。『健康ウォークですかぁ~! 腰を伸ばさないとネェ~』『そうそう!』と言った具合。



 11:11閨観音堂石塔群/同


 水田の右手海寄りに神社林のようなこんもりとした丘があり、入り口の玉垣と石段に向けてまっすぐに道がついているのを見て迷わず進むと小さな観音堂と無数の五輪の塔,崩れたや石仏の破片が散在している広場に行き着く 


 同 説明


 同 荒廃した石塔


 そこは『閨観音堂』という古堂で、完全な形の五輪の塔が30基,不完全なものが十数基ある他、多くの板碑や珠洲焼の骨壺の破片等が散在するところから、室町時代の墳墓の跡と考えられていると言う。先刻,三ヶ浦漁港で見た五輪の塔の絵図はこの観音堂に因んだものと思われる。
 観音堂を越えて振り返ると周りはすべて水田で、そこだけが特別に大事にされてきた感じがよく分かった。



 11:19 観音堂方面を振り返る/同,越しかた無関方面


 観音堂を後にして10分あまりで県道に合し、直進すると右手に『おやき,カレー』と書いた店があって、入り口でおばさんが豪華な具入りの巻き寿司を売っていたのをこれ幸いと昼食用にと買い求める。島には食料品等を売る店がどこにでもある訳ではないのでこれには大いに助けられた。


 11:39県道に戻る/11:47百万石町/中能登農道橋



 1:50左折して中能登農道橋を渡れば能登半島/11:55百万石バス停



 12:06木陰でお昼

 11:42,百万石町に入り直進3分で農道橋への道を分ける。左折すれば農道橋を渡って本土に戻れるが、百万石町から久木,田尻,通の各町を廻ってから本土に戻るべく直進。折しも正午のサイレンを聞き、脇道の木陰に腰を下ろして先刻買い求めた弁当を食べる。
 

屈曲する海岸線~能登島北西部を行く

2012-01-24 13:21:32 | 海岸線を歩く

 夜明け/テント撤収


 20109年5月4日,
 4時半頃起床し、簡単な朝食を済ませてテントを撤収。すでに日が昇っている中,5:30出発。前夜幕営した水産総合センターの建物は行き止まりなので曲町の方に少し戻り、坂道を登って1本上の町道に出る。



 キヌサヤの花盛り/トリコローレ旗の家


 海に面した丘の畑のキヌサヤエンドウが沢山の花をつけ、傍らのイチゴも白い花を咲かせていかにも初夏らしい日当たりのいい高台に風変わりな家があり、玄関に通じる階段状の前庭には石の門柱のようなものがあって、その上に膝を抱えた子どもの座像があり、前庭の左には緑,白,赤の3色の旗が掲げられてあった(イタリアの国旗か?)。
 


 のとじま臨海公園/臨海公園離脱



 県道分岐/6:17~23休憩


 三色旗の家から10分足らずで能登島臨海公園の入口仁差しかかり、会場見取り図を見ながら通過する。右手下海岸沿いには展示館と思われる建物や海水タンクのような施設,広い芝のレクレーション広場等があり、海岸線はそのずっと先まで続いていて淡い新緑の中にヤマザクラと思われるピンクの花が見える。
 臨海公園のある入り江を挟んだその対岸を辿って牧ヶ鼻と言う岬を廻るのだろうか?,といぶかりながら進むと、やがて道は大きくUターンするように左に曲がり、岬とは正反対に進んで県道に突き当たる(6:14)。県道を左折すれば曲を経てガラス美術館のある向田に戻る分岐点を右折して5分休憩。

 

 工事中の法面から降りて入り江に/箱名入り江


 分岐点から5~6分で工事中の道路に出る。正面に小高い尾根があって道は尾根に沿って右折しているように見え、おそらくその尾根の先端に当たるであろう岬に向かってどんどん進んで行くのではないかと思われた。それを裏づけるかのように右下に細い水路を伴った水田のある谷間(迫)があり、その先の湾状の海に沿った林の足元に小屋の屋根が見えた。
 工事中の道路の法面を伝って水田のある谷間に降り、水路に沿って海に出るとそこは先の方で入り口がくっつきそうな深い入り江(箱名入り江)の最深部だった。入り江の入り口の一方が臨海公園の先の牧鼻と言う岬を廻りこんだ位置に当たり、一方の入り口がこれから進む植木鼻と言う岬である。県道は予想通りその植木鼻のほぼ先端を廻りこんで能登島南町に至るのである。



 葭原を突破/筏釣り渡し


 入り江の最深部はちょっとした広場で駐車場や仮設トイレ,ゴミ置き場,水場などがあり、釣り人か漁業者が利用していることが窺われた。そこから先に道はなく、ジメジメした葭原の中の釣り人の踏み跡を辿って突破し、先刻から見えていた小屋まで進む。小屋は入り江の筏で釣りをする人を運ぶための渡しの筏と小屋で、そこからは20mほど上を通る県道に通じる小路があった。7:05頃県道に戻り、植木鼻と言う岬を廻って南町に入る。7:32南町バス停に着き30分ほど休む。




 トリアシショウマ/スミレ



 南町/バス停

 
 


 南町の港/鳥ヶ鼻を望む


 港の後方(右手)に見える岬は箱名入り江の西側入り口仁当たる植木鼻。一方の行く手(左)には鳥ヶ鼻と言う小さな出っ張りを越えた所にやや大きめの湾があって、その対岸に見える家並みが無関町と思われた。
 8:02発。同35無関町に入る。



ガラス美術館

2012-01-22 17:40:41 | 海岸線を歩く

 石川県立能登島ガラス美術館


 ガラス美術館は海の見える広々とした丘のあちこちに展示される屋外作品と、特異な形状の展示館(有料)に展示された作品からなるが、ガラス美術なるもに馴染みがないのでどう見たらいいのか分からないと言うのが率直な感想だ。



 屋外展示作品


 ただ、素材の持つ特性からか、表現の仕方の斬新さとか自由性には目を瞠らされるものがあり、それが可能性のほんの一部なのかすべてなのかは解らないが、殆どすべての作品が他の素材とは異なる表現なので、どう評価したらいいのか分からない。
 つまるところ,好きかどうかでしか評価できない気がするが、それはどの素材による表現であっても同じことなのかもしれない。


 屋内展示作品


 それではガラスと言う素材がどうかと言われると、陶器などとは違って煌びやかさとか華やかさはあってもその硬質な質感や透明感,鋭さから来る冷たさが好きになれない。
 がしかし屋外展示作品はユニークで自在。広々とした空間の中の自由気ままな造形として単純に楽しめばいいのかもしれない。






 その中で特に気に入った作品を1つ上げるとするなら、青い海を背景に縦横大きさの異なる青いガラスを重ねた屋外展示の作品で、ガラスの重なり具合による青の濃淡が周辺の芝や樹木や海,空の色とマッチして不思議な空間を創り出しているのと、透明な空気の中で無色透明なはずの一枚のガラスが存在感を示しているのが印象的だった。単に分かり易かったと言えるのかもしれない。単に分かり易かっただけのことかもしれない。

 美術とか芸術のことは分からないが、工芸館ではなく美術館だと言うことは何となく頷ける気がした。



 案山子窯/曲にて日没近し


 美術館を出ると17時を過ぎており、そろそろこの日のテン場を決めなければならなかったが、信号機まで戻るとそこに『案山子窯』と言う絵画や陶磁器,生花などを展示した喫茶店(茶店)のような店があり、雰囲気に惹かれてふらりと入る。
 『奥へどうぞ。海を見てゆっくりして下さい!』と勧められるままに海に面した落ち着いた雰囲気の木の椅子に腰かけて休ませてもらう。



 テン場


 18:15、曲町の水産総合センターと言う施設近くの草地に格好の幕営地を見つけ、そこを塒とする。


向田町

2012-01-22 17:08:40 | 海岸線を歩く

 向田城


 イルカウォッチングの観望台を過ぎて進むこと十数分で右手の水田の先に高さ30m程のこんもした丘を見てまっすぐそこに突き当たると、そこが向田城と言う城跡のある城ヶ鼻だった(15:01着)。
 七尾北湾に面した城ヶ鼻は地元では『城山』と呼ばれ、また漁師たちからは『カナサキ』と呼ばれて航行の目印になっており、本土の穴水町甲(2011年5月3日通過)とはわずか6kmの距離である。



 広い水田が広がる向田地区/護岸堤を歩く



 バス停向田公園前/向田公園


 向田城をつぶさに見て県道に戻るとそこから先は広々とした水田が広がる平野で、その先に向田(こうだ)町の人家が密集する街並みが見えていて、県道は一旦左折(南進)して野崎方面への道を分け、水田の中央を西に進んで向田の町に向かう。
 入り江に沿って伸びる護岸堤の上を歩き、行き詰って護岸堤と県道の間に広がる水田の中の畦道を辿って15:32,バス停・向田公園前に着く。



 向田港


 港は漁船や釣り船,イルカウォッチングの船の発進基地であったり、防波堤で釣りをする人や波打ち際で遊ぶ人々の遊び場であり、港に面した広場は芝を植えた公園で休憩室もあって人々の憩いの場であったりもする。向田の入り江は平和で穏やかな海浜である。



 向田町中心部~直進2km弱で朝の出発点へ~/ガラス美術館へ


 向田町から今日の出発点で能登島中学校やコンビニのある交差点までは2kmもない。次に向かう先は能登島ガラス美術館である。
 町の中程から直接ガラス美術館のある道の駅に至る細道を教えられたが、入り口が分からないまま海岸沿いに進んで大きな交差点を左に戻るように曲がって丘の上の道の駅に着き、一服して美術館に入館する(16:43~17:12)。


祖母ヶ尼行者

2012-01-22 16:38:57 | 海岸線を歩く

 分厚い篠の薮/わずかな水田耕地は海に面して


 能登島の北端に当たる多浦鼻を廻って島の北西面に入ると、入り江と港,田畑と人家が程よく調和していたそれまでの穏やかな景観から、強い北西風のストレスを受け続ける厳しい環境へと状況が劇変する。
 さらに目を瞠らされるのは町道の両側に見られる分厚い篠竹の密生である。篠の層はぎっしりと厚く、高さは数メートルに及ぶ。天然の生垣ともいえるその篠はしかし、道の海側だけでなくむしろ山側に発達していて、必ずしも道を守るものになっていないところが天然であると言えそうだ。

 また祖母ヶ浦から数km先の向田町までの間は、山が海に迫って海岸線の内側にはわずかな耕地さえ見られず、たとえ篠がどんな密生しようとも守るべき田畑も人家もないと言う不毛の地のように思えた。



 祖母ヶ尼行者碑/


 12:35『祖母が尼(ばがに)行者碑・御祖母(おんば)様の墓』と言う案内板に惹かれ『120m先』と言う標識に従ってきつい坂道を登って見に行く。
 『乳母ヶ尼行者は貴族の生まれで、比叡山で修行した後、地方へ出て天台宗を流布した人。この地にやって来て、粟や黍の耕作しか知らなかった村人に稲の栽培を教えた。また高根と言う地区に住んでいた人達に漁業を教えようと祖母ヶ浦への移住を勧める等,知恵者だった祖母ヶ尼は能登島一の開拓指導者と言われる。能登島には戸数の割には田圃が多いのも尼のお蔭だと語り継がれている。』等々。
 島の婦人達が働き者なのも、お乳母様と村人とのそう言う歴史があったからかもしれないと思ったりした。(13:15まで)
 


 水田が現れる/



 イカリソウ/ワラビは至る所にある


 少し休んで13:15出発。海側に見るものがなく、山裾のイカリソウやチゴユリ,ワラビ等の写真を撮りながら歩く。 
 13:33『ひょううこりの湯へ7km』の標識がある辺りで初めて水田を見る。強い北西風をさえぎる分厚い篠の竹垣をぐるっと廻り、同49,右手はるか前方に向田と思われる集落を望む。子に来て水田が多くなってきた。



 イルカウォッチング


 (2年8ヶ月の空白を経て続きを書く)
 14:12,そわじ鼻と言う小さな岬を廻って向かいの城ケ鼻と言う岬との間の入り江に達する。その入り江の一番奥を通過した辺りに『イルカウォッチング』用の観望台があり、『イルカウォッチングのルール』と書かれた看板があって数名の人が双眼鏡で沖を見ているのに出くわした。
 話しには聞いていたので車を停めて沖を見ると、先刻通過したそわじ鼻に近い海に数席の船とカヌーがいて、その周りでイルカが泳いでいるのを見ているらしかった。肉眼でしばらく船の周辺を見ていると、時おり波頭に黒いもの浮き上がるのが見える。『アァ,見えますネェッ!』と言うと周辺の人が『肉眼でよく見えますネェ』と言い、双眼鏡の人が『何処.どこッ』と言う。



 イルカを見る人々/アケビの花

 イルカの動きは変幻自在で、右端の船の近くに現れたかと思うとしばらく後にははるか離れた左端の船の近くに頭を出したりで間近で見ているはずの人達もその動きについていけず、後で写真を拡大してみると乗船者の視線がバラバラだった。
 遠くで見る方が動き巨視的に捉えることができるのかもしれない。がしかし遠すぎて点にしか見えないのも事実だ。


能登島東端を越える

2012-01-22 14:50:08 | 海岸線を歩く

 目(えのめ)町/『神威』の鳥居



 名前のない神社/目港を見下ろす

 10:03発,左幸屋敷跡から能登島長崎町,能登島目町と目まぐるしく町名が変わる中,同23勝尾崎分岐を右折して目町に入り(10:31)、同38『神威』と書かれ足を大きく踏ん張った鳥居に着く。
 緩やかな石段の上に神社があり、港や町の全貌を見渡せそうなのでそこに登って見たが、神社自体はガラス戸のような覆いの中にあって名前を表すものはおろか字を書いたものがなく何もわからない。

 神社のある丘の林を抜ければその先端が勝尾崎でそこは能登島の東の端に当たり、前日歩いた七尾市の観音崎とほぼ同経度であるがパスして目の町と漁港を見おろしながら石段を下る。(10:57)。



 大鯛に得意満面/カワハギ


 11:00漁港で漁から帰った人が獲物を箱詰めしているのに出会う。写真を撮らせてくれと言うと大きな真鯛を得意そうに持ち上げてポーズをとってくれた。他にもハゲ(カワハギ)がいっぱい獲れていた。



 目漁港



 定置網・魚網


 釣りに来た男性に声をかけられたり、波頭を片付けている夫婦に挨拶したりしながら漁協の水産物荷捌き施設を通って定置網の漁網がうず高く積み上げられた広い敷地に出る。漁網の固まりには使い古したものから現役のもの,これから下ろされる新調のものなどがいくつもあり、クレーンでなければ扱えないそれらのスケールの大きさに目を瞠る。



 のどか人~お爺さんと孫


 11:18漁港を後に町道に戻って八ヶ崎バス停の先から2~3分で護岸堤に入り、コバルトブルーの浅瀬が続く湾状の岸の護岸を進んで八ヶ崎の突堤に向かう。竹の竿に糸を垂らして釣りをしている少年の傍らで、棒きれの先にハリのない糸をつけた老人が何度も何度もその棒を振り廻しているのが可笑しく、また微笑ましくもあった。長閑だ。



 八ヶ崎突堤/突堤から多浦鼻をかすめて穴水町火打崎・円山方面を望む


 11:50鉢ヶ崎の突堤に着き、突端まで進んで改めて周囲を見廻す。右手後方に松島キャンプ場のあるダガ岬,そこから逆に大口瀬戸を隔てて見えているのは穴水町の火打崎・円山方面,その右手,真北方向に霞んで見えるのは能登町だろうか・・。
 先刻通過した勝尾崎が能登島では一番東に位置するので、やっと島の端っこ,ほぼ半分の所まで来たことになる。



 祖母ヶ浦(ばばがうら)へ/祖母ヶ尼行者碑


 正午のサイレンを聞いて突堤を後にし、町道に向かうべく葭原の縁の道に入ると途端に強い北風が吹きつけて来た。12:18左手に祖母ヶ浦(ババガウラ)町の標識,右に多浦鼻と言う岬を見て12:26祖母ヶ浦の港に至る。


野崎から勝尾崎へ

2012-01-22 14:04:07 | 海岸線を歩く

 野崎港/定置網漁の漁網



 ネギ畑/松島海岸


 8:39定置網の漁網が広げられた野崎港を右手に見て左折し、海に向って真っすぐ伸びた水路を渡ると左手にダイビングスクールと思われる建物があって数人の若者がウェットスーツの手入れをしており、その先から右折してタマネギ畑のある農家の横を通り、最後は草原を抜けて防波堤に出ると、そこは大小の岩が点在する浅瀬の海岸で、右手は漁港に繋がり、左手には松島と言う小島があってその一帯が、『松島』を冠したオートキャンプ場になっていた。



 松島海岸/松島オートキャンプ場

 

 声かけられて道を問う/働く女たち 


 8:51同キャンプ場着。ざっとひと回りして利用規定などをチェックするに留め、田んぼの中の細道を通って町道に向かう。途中で声をかけて励ましてくれた農婦人に道を聞き、道のない畑の間を通らせてもらって町道に出る。



 働く男たち/向こうの端にも



 勝尾崎/松島をふり返る

 
 そこにも黙々と働く婦人の姿があり、また町道から見下ろす田圃のあっちの端とこっちの端にも相呼応して働く夫婦の姿があった。再び堤防に戻り、振り返ると松島,前を見ると勝尾崎と思われる半島が望まれた。



 史跡・小浦左幸屋敷跡/


 がしかし、そこまで行くためにはもう一度海から離れなければならない。9:31長崎町と言う次の町との間にあるトンネルに向かう山沿いの道で木陰を求めて休み、10分後出発。9:59『小浦左幸屋敷跡』と言う町の史跡に着く。いくつかの伝説の中に『銭懸松』と言うものがある。
 

 子殺しの跡『こつほ』/ 

 当地に住んでいた小浦左幸は大金持ちで、土用の虫干しの時期が来ると、すべての銭を屋敷の松の枝に懸けてその眺めを楽しんでいた。さほどの金持ちでありながら、小作の百姓達は年貢を減らしてくれるように頼んだが決して聞き入れなかった。そこである日百姓達は相談して1人残らず越後に逃げてしまった。
 残された左幸も『小浦の左幸も1人おられん』と後を追って越後に行ったと言うものである。これは伝説であるが、史実としても加賀藩への年貢米の未進により、一村を上げて逃散して無住になったと言う。

 他にも前田利家が石動山を焼き討ちした時に石動山側について参戦した小浦の人々が上杉景勝を頼って越後に落ち延びたと言う説や、揚浜式塩田による塩づくりの技術に長けていた村人が越後の上杉氏に召喚されたと言う説があり、上杉氏との関係を窺わせるものが多い。屋敷跡には塚状の中世の墳墓や五輪の塔などが残存する。↓
小浦左幸と村民の逃散『http://www.geocities.jp/une_genzaburo/KouraSako.htm』

 屋敷跡の椿の木の下に「子どもを殺した所 ここが『こつほ』」と書かれた標柱があったが、説明がなく意味不明。



弘法の池&日出ヶ島由来・・,能登島津々浦々

2012-01-22 14:03:19 | 海岸線を歩く
 弘法の池
 
 7:43日出ヶ島の小さな漁港を通過。民話・弘法の池と書かれた標柱があり、その一面には『日出ヶ島 筆ヶ島』とも書いてある。弘法の池とは何か,日出ヶ島と筆ヶ島は如何なる関係なのか・・,この時点では窺い知る手がかりが何もなく、後日調べたところによると次のような伝説があることがわかった。

 日出ヶ島の東端には『弘法の池』がある。ある時、弘法大師が巡錫の際、この地にやって来て、出会った村人に水を所望した。しかし村人は、『井戸も川もなく隣村の二穴まで行かないとないと事情を説明し、気の毒だが隣村に行ってくれ』と詫びる。
 弘法大師は、飲料水に乏しい地であることよと村人達を不憫に思った。そして近くの筆を岩上に撫でたところ(一説では突付いたともある)、不思議なことに清水が湧き出てきた。この水は『筆しみ水』と名づけられ、村じゅうの飲み水として利用されるようになった。
 また弘法大師は、その際『小泉と聞いて来たれど薄墨や筆はなけれど筆が島なり』と一句詠んでこの地を筆ヶ島と名づけた。後にそれが訛(なま)って日出ヶ島と呼ばれるようになったと言う。

 野崎・大宮神社
      獅子の子落とし伝説  

 日出ヶ島から海岸線を離れて山道に入る。道の右側には水田が細長く伸び、その外側は50m位の丘が海に迫り、崖と砂浜が交互する海辺には道がない。道の左側も同じくらいの丘陵で、道の傍らには白花のイカリソウやウルイが見られた。
 左右に水田を見ながら1.5km,30分ほど歩くと野崎の集落に出る。その最初に出会うのが大宮神社で、暑くなりはじめた陽射しを避けて神社に逃げ込み(8:16)長めの休憩をとる。


 

 大宮神社ではまず狛犬(高麗犬),ここでは獅子の像に目を奪われた。本堂前の石段の両脇に自然の岩を崖に見立て、崖を攀じ登ろうとする子獅子とそれを見下ろす親獅子の像を配し、「獅子は千尋の谷底に我が子を突き落とし、這い登ってくる子だけを育てる~」と言う物語を表わしている。岩は富士山の溶岩だとある。このような唐獅子は初めて見た。

 横穴古墳 
             横穴 
 その傍には野崎横穴古墳群と言う標柱があり、神社の裏手の山には崖に横穴を掘って墳墓とした横穴古墳群があったが、覗き込むととても古墳とは思えない浅い穴だった。
 また『上段四~七号,下段一~三号』等と記した標柱も立てられている。穴の1つを覗き込むと奥行きは浅く中に水が溜っていてひんやりと涼しい。
 涼しい境内でゆっくり休んで8:36に出発。野崎の海岸線を目指す。


※2010年7月8日22:33 ⇒ 2012年1月22日14:03

珠洲から禄剛崎へ・・・日本海海岸線津々浦々・奥能登編

2011-10-16 07:03:48 | 海岸線を歩く
                                           バリントンも200回!~『明日のカープ』もどうぞ


 前方,蛸島方面/後方,飯田港越しに鵜飼漁港方面を望む


 珠洲市後背の山地/黒い影の先端は見附島か

 10月10日(月)
 金沢市内と羽咋,穴水周辺で行われた『トキのいた森を訪ねる旅』に参加したのを機会に、海岸線歩きの続き,珠洲~輪島間の踏破を企画する。過去4年間はすべて5月連休だったので異なる季節に歩いてみたいと言う願望があり、今回初めて秋の奥能登を歩くことになった。
 前日,穴水町の広大な森を散策して15時半頃一行と別れた後、5月に歩いた時の細かい部分の記憶を掘り起こすべく、穴水から珠洲までの道を走ったが、縄文真脇辺りで日が暮れて道が分かりにくくなり、後半を後日廻しにして20時前に珠洲市の道の駅・すずなり館に着き車中泊。



 オナモミ/ナミノリヨコエビ~海鳥たちの餌/名残のハマヒルガオ


 4:30に起き、5:45すずなり館を出発。今回は小さいザックに雨具と防寒着,水500㏄とコンビニで買った鯖寿司,パンなどを詰めただけの軽装で歩く。すずなり館は5月の最終日に近くの銭湯に入ったりスーパーで買い物したりしてウロウロしたので、周辺の地理はある程度分かっており、記憶を手繰って5:54頃海岸線に出る。

 緩やかな湾状の浜であっても、前方の海岸線は大きくカーブして海に突き出た岬のように見える。その岬のような先端に30m程の小山が見え、さらにその先にもう1つの島影が見える。
 恋路ヶ浜辺りから飯田港を望んだ時から、そこは視界の限界点になっていた所であり、従って海岸線はその先で左に曲がっているものと思われた。
 後方もまたしかりで、振り返ると飯田港の向うに鵜飼港や見附島と思われる黒い影が見え、さらにその背後に連なって延々と伸びる低い丘陵が尽きて海に落ちる所が灯台のある赤崎と思われた。



 海浜植物帯/オナモミ/雲間からの日の出

 
 護岸堤を乗り越えて浜に入ると波が打ち寄せるギリギリの所まで、幅にして10m程の草原があり、オナモミのイガイガの実が人や動物の衣服・毛にくっついてやろうと待ち構えていた。構わず進んで波打ち際に向かう。
 波打ち際に近い所はきめの細かい砂で歩きやすく、そこに早朝の散歩の足跡が続いているが人も犬もすでになく、生き物と言えば水際に10羽ほどのウミネコが屯しているのを見るばかりである。
 6:09,前方の一番低い島影の上空が赤く染まり始め、2分後に雲の中から太陽が顔を出す。



 馴染みとなった銭湯/正院町の川を渡る



 アオノツヅラフジ/クコの実

 誰もいない海岸を歩くのは気持ちがいいものだが、歩き始めてすぐにぬかるんで通れない場所で行き詰リ、5月の時の終点でもあった銭湯の薪小屋の脇を通らせてもらって一旦市道に戻ってすぐにまた浜に出る。そこからは昇る朝日に向かってゆっくり歩き、6:37に正院と言う町で2つ目の川を越え、アオノツヅラフジやツルムラサキ(野菜),ハマヒルガオ,クコ等の花や実を楽しみながら三たび浜に降りる。



 磯遊び/漁港


 朝日が躍る波間に3つの黒い影があり、大の男がスコップのようなもので改定を掘っては何かを探して子どもに手渡しているのが見えた。男の子は『釣りの餌』だと言った。



 オオダコ民話


 長い砂浜が終わって7:01,蛸島港と言う港に着く。高い防波堤に沿って右折すると、堤防の壁に『珠洲の民話~蛸の島』と書かれた大きな絵が飾られ、紙芝居式に物語が展開されていた。民話の他にも『早船狂言』とか『蛸島の秋祭り』『川尻の曳山』などの絵があった。蛸島と言うのは今は陸続きになっているが、港の沖にある小さな島のことで、それは元々は悪さをして村人を苦しめていた大蛸が島に化身して今は村人を守っていると言う民話に基づく名であるらしい。



 アオリイカ釣りの若者/漁師さん達


 そんな微笑ましい絵物語りのある港を歩いていると1人の若者が何か言いたそうに再三振り返るので『アオリイカか』と聞くと『そうだ』と答え、『どうだ』と聞くと『さっぱりだ。姿も見えん』と言ってカラカラと笑った。



 水揚げ

 

 港の突き当りで2人の漁師が捕ったばかりの魚を選り分けているのを見る。大半は小アジで中にコノシロやカマス,小サバ,ハゲ等が混じるがいずれも小さい。聞くと『小さな定置網なんでネ』と聞き『なすった』と逆に聞かれる。



 油流出防除資材置き場/蛸島

 邪魔にならない程度に談笑して立ち去り、さらに進むと『石川県流出油防除資材置き場』と言う看板と広い置き場があった。それは1997年1月2日に起こったタンカー,ナホトカ号重油流出事故の産物と思われた。



 高倉彦神社/修復記念碑

 港の端で今度は30m程の小山に突き当たり、その先を海沿いに廻れるか確かめに行くと行き止まりだったので戻って内回りに進むと高倉彦と言う名の神社に出る。その神社の鳥居の足元には『鳥居修復記念』と書かれた丸い碑があった。1993年の能登沖地震で被災した鳥居を修復したことを記念したものである。



 何を思うかアオサギ/エビヅルかな・

 こうしていくつかの場面を通り抜けて蛸島を過ぎると、湾状だった海岸線が逆に緩やかな凸状に変わり、それとともに波と風が幾分強くなって外洋の様相を呈するようになってきた。緩やかであってもその差は大きく、それは漂着するごみの量にも現れる。内湾にはゴミが貯まり易く、外向きにカーブしているところではゴミが皆無の所さえある。
 これまでで最もゴミが多かったのは富山湾の最奥部で、逆に8日訪ねた河北市の白尾海岸には全くゴミがなかった。

 それまで東南東に進んできた海岸線は蛸島から真東に、そして徐々に東北東へと変わり始めいよいよ能登の最先端に迫ってきた。



 バリントンも200回!~『明日のカープ』もどうぞ


席を譲られて・・

2011-10-15 03:45:14 | 海岸線を歩く

 恋路ヶ浜・恋人達の像とバス停


 5月6日は能登町の縄文真脇から30kmあまりを歩き、恋路ヶ浜で終わってバスを待っていた。バスのドアが開くと中は高校生達で満席だった。この日は連休明けの平日で登校日だったのだ。

 吊り革を持って立っていると1人の女子高生がつと席を立って『どうぞ!』と言う。一瞬,『えッ! 何故?』と言いそうになって『下りるの?』と言い換えた。高校生は『いえッ』と首を振って『どうぞ,座って下さい』とにこやかに言う。席を譲られるなど初めてのことなら、女子高生に声をかけられるのもないことなのでドギマギしてしまった。



 小木港のバス停/小木港


 席を譲って断られ,気まずい思いをしたことがあるので、ここは恥をかかせてはいけないと思い、素直に『じゃあ,せっかくだから・・,ありがとネ』と言って座らせてもらったが、俺ってよほど爺くさく見えるのかなぁ・・,とか、よほど疲れた顔をしていたのかなぁ・・,等と内心複雑だった。まあ、穴水を出発してから4日目で通算100km近く歩いていたので疲れが顔に出ていたのかもしれない。
 でも彼女は単純に、車内では最も年長の私に席を譲ってくれたのだと思うことにした。戻りのバスでは歩いてきた道を目で追って確かめながら、その日の行程を反芻したいと言う思いもあったので実際有難かった。



 小木港・待合室のおばさん達/白い船と外国人船員が目立つ


 ポツポツと生徒達が下りて行き、彼女もすぐに空いた席に座ったのを見てホッとする。小木港と言うバス停で大勢の仲間達と一緒に彼女も降りたが、そこは昼間,ちょっと長い休憩を取ってユニフォーム姿のおばさん達と談笑したところだった。 
 降りる彼女にもう一度礼を言い、車外の姿に目をやるとにこっと笑って去って行った。

 そんなことがあって小木と言う町が印象深い地名になった。

蟷螂

2011-10-12 13:50:29 | 海岸線を歩く
                                           遅ればせながら・・~『明日のカープ』へジャンプ



 粛々と 蟷螂雄の肉食らう





 山口誓子の句に


 カリカリと とうろう 蜂の顔を食む

 と言うのがあるが、それよりよりもっと凄い場面に遭遇した。

 ただ、交尾中ではなかったのが残念!





 輪島の市街地と港が見えてきた。今回の海岸歩きはまもなく終了。



 遅ればせながら・・~『明日のカープ』へジャンプ


海岸線・珠洲から輪島へ

2011-10-10 04:03:24 | 海岸線を歩く
                                          横浜相手でも・・~『明日のカープ』もどうぞ!

 昨日まで2日間の金沢・能登を巡る「トキのいた森を訪ねる旅」が終わり、今日から奥能登の珠洲市から輪島市に向けて海岸線を歩く。

 今回は下調べもなにもせず行き当たりばったりの無計画な旅で距離も分からない!
 幸いこのところ晴れっぱなしなので何とかなるズラ・・。

 れまでの4年間はすべて5月連休に歩いて来たのが今回初めて違う季節に歩くのでそれが楽しみ!



 横浜相手でも・・~『明日のカープ』もどうぞ!

静かな入り江で牡蠣の養殖・・・麦ヶ浦

2011-05-29 13:13:20 | 海岸線を歩く

 七海川べりの木瓜の花/山と積まれた牡蠣殻

 穴水駅から2時間半かかって湾に突き出た小さな半島を歩き、七海と言う地区で一旦国道(R249)に戻って七海川の橋を渡って麦ヶ浦と言うさらに小さな半島に向かう。穴水高校や陸上競技場のある由比ヶ丘を下ってゆるゆる進むとやがて行く手に広い田んぼが見えてくる。


 七海川川べりを下る/田圃が広がる

 目の前のその田んぼとの間には七海川があってそれを渡るにはさらに国道まで進まなくてはならない。その七海は前日,バスを停めてダイヤを聞いた所で、そこまでは国道を走れば穴水駅からわずか2.4kmのであるが、潮騒の道から由比ケ丘と言う小さな岬を縦断すると5.3kmとなり、さらに金沢工大のヨットハーバーまでの往復を加えると7.3km歩いたことなる。
 穴水から能登町に至る海岸線はこのようなリアス海岸の連続で、出入りの激しい行程となるので焦らずのんびり歩くべし・・,なのだ。


 麦ヶ浦の牡蠣ヒビ/浮標が直線状に並ぶ


 先刻遡った七海川の、今度は対岸の川べりを田圃の縁に沿って下る。川べりの出づくり小屋の側で畑仕事をしていた2人の婦人に麦ヶ浦から先の道を尋ねると、やはりそこは行き止まりで先端まで行けば戻って来なくてはならないが、『静かな入り江で、牡蠣の養殖をしているとてもいい所なのでぜひ行ってみて下さい』と言った。
 小屋の傍らにホタテの貝殻が積まれていたので養殖の方法を尋ねると、ワイヤーに一定間隔で種付けをした貝殻を取りつけ、それをメインのワイヤーに吊るして張ると言うやり方で、筏を使わない点を除けば広島湾のやり方と同じだった。『広島では竹で組んだ牡蠣筏に吊るして筏を船で引っ張って移動させながら育ててます・・』と言うと、『種は広島から取り寄せているのよ』と言った。


 波静かな入り江/金沢工大のヨットハーバーが見えている

 川は大きく湾曲して一旦国道に接近するが、教えられた畔道を行くと国道を通らずに入り江に向かうことが出来た。集落に入る手前の対岸は湿地帯になっていて葦の茂みの中にアオサギやカモの姿が見られるちょっとした水鳥の楽園になっていた。
 その湿原の切れ目が入り江の始まりで、波のない穏やかな海面に点々と牡蠣養殖のワイヤーを浮かべる浮標が並んでいるのが見られた。入り江では海面にワイヤーが張られているために小舟が通る道も自ずから決まっているようで、いかにも小さな漁村のささやかな営みと言う気がする。それはその地域の平和な日常を象徴しているようにも思えた。


 麦ヶ浦の人々/子どももいる



 神社を教わった/神社の階段を登る

 戸数わずかな集落は岬の突端で東に折れるがやがて行き止まりとなり、最後の民家で休んでいる人達と言葉を交わした後、2.5万図に記されている山道を探すべく道を尋ねる。地図上では神社があってそこから破線で示された道があることになっており、その神社に登って道を探すとそれらしい踏み跡があったが、薮になって難渋しそうなので諦めて元の道を戻る。


 対向車が突進してくるのでストロボを焚く/右下に護岸堤

 来た道の反対側の山際の田圃の畦道を通って強引に国道に這い上がるとすぐにトンネルになり、その先のあるもう1つのトンネルの手前に右に進む道があった。先刻の麦ヶ浦の東に続く小さな入り江や突起のある海岸線には近づきようもなく、直近の海岸線に出るにはこの道を右折し、さらに何mか先から派生する廃道のような道を行くしかない。
 その道は舗装されてはいたが近来車が通ったと思われるような形跡がなく、両側から灌木の枝が延びていて歩きにくい。進むにつれて道は薮と化して心細さが募ったが、道幅が一定していて路肩がしっかりしているのと、右下の海岸線に護岸が施されているのが見えることに確信を強めて遮二無二進むうち、やや開けた場所で反対側から来たと思われる車に出会って無事通り抜けたことを知る。


 シロバナイカリソウ/道々に見られる祠

 こういう時,同行者がいるとちょっと躊躇う。まして女性だとこんな道を歩かせていいものかと悩むところだが敢えて思い通りに歩かせてもらった。尤もそんな心配はお日様達にとっては無用のことで、2人ともケロッとしてこの状況を楽しんでくれているようだった。





穴水駅6:13-6:17穴水大社-6:24小又川橋(四手網漁)-6:38潮騒の道始点-7:05同終点-7:44金沢工大穴水湾自然園-8:34バス停穴水高校-8:56七海-9:35麦の浦-10:11トンネル-10:54中居農村公園P(昼食)11:46-12:26中居鋳物館12:52-13:01中居ふれあいP13:08-13:34比良分岐点-14:28岩車〒局-15:56バス停鹿波16:25-(バス)-16:50ふれあいP~以下略