立峠登り口
境界線ルート分岐点
4月25日(日)・続
10:30発,立峠への登りにかかる。刈谷原から立峠を方面を見ると会田宿の辺りが最も低く、道標を鍵の手に右折した所からかなりの勾配の登りとなって岩井堂を経、この登り口からは衝立のような急登になっているのがよく分かる。その最後の壁を登って行く。
20分で稜線に出る。稜線を左に行けば旧四賀村の境界線ルートである。右折して数分で立峠に着く。荷物をそこに置いてすぐに100mあまり上の送電線鉄塔に案内する。
刈谷原宿・会田宿方面(02年当時)
青柳宿方面(同)
そこから越し方と行く手を見て、立峠が刈谷原宿-会田宿-青柳宿をほぼ一直線に結ぶ重要な位置にあることを見てもらうつもりだった。実際、青柳宿方面は城跡公園の1本松までもがはっきり見えており、180度向きを変えると刈谷原宿を望むことが出来る筈であったが、残念なことに刈谷原宿方面に潅木が繁っていて見づらくなっていた。
それでも立峠が四賀村と麻績村を結ぶ要に位置していることはよく分かるし、何より送電線がそれを示している。(写真は02年のもの)
立峠を5分ほど南に進むと唐鳥屋城と言う山城の城跡がある。刈谷原(鷹巣根)城-唐鳥屋城-青柳城を結ぶのろしによる危急の連絡網を想像すると、戦国時代ののろし台としての唐鳥屋城・立峠の位置の重要性が浮かび上がってくるが、実際はどうであったのか・・?
立峠にて
立峠(たちとうげ)茶屋跡
立峠はこれから進む善光寺に思いを馳せ『あの山(聖高原)を越えれば善光寺平だ。まずは一服』と、それまでの我が労苦をねぎらい、さらなる旅路に向けて気を引き締めなおす,といった場所で、かつては『みたらしや』をはじめとする茶屋があってその跡をとどめている。会田宿で食事処を営む『あぶらや』も、ご先祖様がここで『蘭方・正薄荷』なる気付け薬を売っていたとは先刻教わったばかりである。
峠の一帯は広い平地で、今は乱橋側から車を乗り入れることも出来るようになっている。
キバナノアマナに似ている
何とかイチゲ?
無風快晴のさわやかな空気の元で早目の昼食を摂り、11:45出発。路の脇にキバナノアマナと思われる黄色い花やイチゲの花を見る。ニリンソウにしては大きな葉はトリカブトかも知れぬ~等と当てずっぽうなことを話しながら乱橋に向かってのんびり下る。
越後の国 孫右ェ門,墓
石畳
以前,ルート調査で走り回っていた時に見つけた行き倒れの人の墓を探しながら歩いていると、峠から10分あまり下った辺りにそれはあった。
『越後の国,X(読めない)善寺村孫右ェ門,墓』と刻字された墓石である。行き倒れの人は無縁仏として村人によって葬られたものと思われがちだが、意外とそうではなくて身元はかなり正確に突き止められ、郷里に伝えられたようだと聞いたことがある。
この墓も近くにある石に俄か文字で彫ったようなものではないしっかりとした墓であるところを見ると、没者の縁者がつくって行き倒れた場所まで持ってきたのかもしれない等と想像してみる。
ニリンソウ咲く
里近し
谷すじのきれいな水場の周辺の咲くニリンソウの群落のある場所まで来ると乱橋の集落は近い。乱橋上町,中町,本町と急な坂を下って12:33,県道303号に至る。
棉の実道祖神
物種太郎塚
ここからは低い丘陵につけられた曲がりくねった路を行くだけであるが、途中に『馬の水のみ場』とか『棉の実道祖神』『一里塚』などの史跡があって面白い。
その1つ,中ノ峠付近で『物種太郎塚』なるものを見つけた。この『物種』を何と読むのだろうか? すぐに浮かんでくるのは『ものぐさ太郎』伝説のことだが、ネットで調べた範囲では『物種』=『ものぐさ』を示す記述は見当たらなかった。ご存知の方があればお教え願いたい。
せっかくなのでお伽草子『ものくさ太郎』を ↓
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokus...
几帳面
終点
だらだらと歩いても乱橋から西条駅までは40分あまりのもので、同道した女性達は次の坂北駅まで歩きたい様子だったが、電車の都合で断念したようだ。
13:15,西条駅着。5月1日からの海岸線歩きに向けての軽い足慣らしにはなった。
境界線ルート分岐点
4月25日(日)・続
10:30発,立峠への登りにかかる。刈谷原から立峠を方面を見ると会田宿の辺りが最も低く、道標を鍵の手に右折した所からかなりの勾配の登りとなって岩井堂を経、この登り口からは衝立のような急登になっているのがよく分かる。その最後の壁を登って行く。
20分で稜線に出る。稜線を左に行けば旧四賀村の境界線ルートである。右折して数分で立峠に着く。荷物をそこに置いてすぐに100mあまり上の送電線鉄塔に案内する。
刈谷原宿・会田宿方面(02年当時)
青柳宿方面(同)
そこから越し方と行く手を見て、立峠が刈谷原宿-会田宿-青柳宿をほぼ一直線に結ぶ重要な位置にあることを見てもらうつもりだった。実際、青柳宿方面は城跡公園の1本松までもがはっきり見えており、180度向きを変えると刈谷原宿を望むことが出来る筈であったが、残念なことに刈谷原宿方面に潅木が繁っていて見づらくなっていた。
それでも立峠が四賀村と麻績村を結ぶ要に位置していることはよく分かるし、何より送電線がそれを示している。(写真は02年のもの)
立峠を5分ほど南に進むと唐鳥屋城と言う山城の城跡がある。刈谷原(鷹巣根)城-唐鳥屋城-青柳城を結ぶのろしによる危急の連絡網を想像すると、戦国時代ののろし台としての唐鳥屋城・立峠の位置の重要性が浮かび上がってくるが、実際はどうであったのか・・?
立峠にて
立峠(たちとうげ)茶屋跡
立峠はこれから進む善光寺に思いを馳せ『あの山(聖高原)を越えれば善光寺平だ。まずは一服』と、それまでの我が労苦をねぎらい、さらなる旅路に向けて気を引き締めなおす,といった場所で、かつては『みたらしや』をはじめとする茶屋があってその跡をとどめている。会田宿で食事処を営む『あぶらや』も、ご先祖様がここで『蘭方・正薄荷』なる気付け薬を売っていたとは先刻教わったばかりである。
峠の一帯は広い平地で、今は乱橋側から車を乗り入れることも出来るようになっている。
キバナノアマナに似ている
何とかイチゲ?
無風快晴のさわやかな空気の元で早目の昼食を摂り、11:45出発。路の脇にキバナノアマナと思われる黄色い花やイチゲの花を見る。ニリンソウにしては大きな葉はトリカブトかも知れぬ~等と当てずっぽうなことを話しながら乱橋に向かってのんびり下る。
越後の国 孫右ェ門,墓
石畳
以前,ルート調査で走り回っていた時に見つけた行き倒れの人の墓を探しながら歩いていると、峠から10分あまり下った辺りにそれはあった。
『越後の国,X(読めない)善寺村孫右ェ門,墓』と刻字された墓石である。行き倒れの人は無縁仏として村人によって葬られたものと思われがちだが、意外とそうではなくて身元はかなり正確に突き止められ、郷里に伝えられたようだと聞いたことがある。
この墓も近くにある石に俄か文字で彫ったようなものではないしっかりとした墓であるところを見ると、没者の縁者がつくって行き倒れた場所まで持ってきたのかもしれない等と想像してみる。
ニリンソウ咲く
里近し
谷すじのきれいな水場の周辺の咲くニリンソウの群落のある場所まで来ると乱橋の集落は近い。乱橋上町,中町,本町と急な坂を下って12:33,県道303号に至る。
棉の実道祖神
物種太郎塚
ここからは低い丘陵につけられた曲がりくねった路を行くだけであるが、途中に『馬の水のみ場』とか『棉の実道祖神』『一里塚』などの史跡があって面白い。
その1つ,中ノ峠付近で『物種太郎塚』なるものを見つけた。この『物種』を何と読むのだろうか? すぐに浮かんでくるのは『ものぐさ太郎』伝説のことだが、ネットで調べた範囲では『物種』=『ものぐさ』を示す記述は見当たらなかった。ご存知の方があればお教え願いたい。
せっかくなのでお伽草子『ものくさ太郎』を ↓
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokus...
几帳面
終点
だらだらと歩いても乱橋から西条駅までは40分あまりのもので、同道した女性達は次の坂北駅まで歩きたい様子だったが、電車の都合で断念したようだ。
13:15,西条駅着。5月1日からの海岸線歩きに向けての軽い足慣らしにはなった。