遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

旅は終わり,また続く

2013-03-30 12:17:20 | 山のあしおと小学校
 今回の各駅停車・瀬戸の旅の参加者は
 長野からの参加者
  大町・松本周辺からの参加者~はじめから最後まで18切符で全行程を共にした人
   子ども4名,おとな2名(木偶を含む),計6名
  1日遅れで車で追いつき、23日の朝合流してから最後まで行動を共にした人
   子ども1名,計1名
  1日遅れで車で追いつき、23日の朝合流し、26日午後から離脱して別のルートに移行した人
   子ども1名,おとな1名,計2名
  小計 
   子ども6名,おとな3名,計9名
 広島・山口,他からの参加者
  岩国市在住の一家~木偶の長男一家・・23日~24日全員参加 26日~28日子ども2名再参加
   子ども3名,おとな2名,計5名
  広島市在住&大阪市から帰省~木偶の初任地の卒業生(当時中2)・・23~25日参加
   おとな2名
  小計 子ども3名,おとな4名
  総計 子ども9名,おとな7名,計16名(最多時)

 と言う内訳で、最多の23日~24日には16名となるかつてない参加者数だった。

 これにノンちゃんが加わって最多時10名の子ども達に対応する大人のスタッフは基本的には木偶1人だが、はじめから最後まで同行して下さったMomoさんと、車で追いかけて合流してくれたTomoさんと言う強力な援軍があって無事に初期の計画を遂行することが出来た。
 いつも大勢の子ども達を相手にしているTomoさんから見れば、危機管理面ではハラハラし通しだったに違いないと思う。
 広島と大阪から参加してくれた2人の卒業生氏も事実上,スタッフ的に動いてくれて大いに助けられた。

 けれど、私達スタッフがどんなに頑張っても現地在住の方々の支援と協力が無ければ出来ない旅であり、またその方々との交流が無ければ意味をなさない旅でもあった。それはこの旅を始めた当初からそうである。
 列挙すれば・・,
 平郡島に於いては、宿舎・食事の手配,ことに新鮮な山海の食材たっぷりの手料理による心のこもったおもてなしと楽しい集いでの心に残るお話しの数々,荷物の運搬とハイキングコースや海岸,みかん畑への移動・案内,畑の作業と苗や道具の手配等々・・。それに加えて道々で頂いた差し入れやお声かけ等,枚挙に事欠かない。
 五日市の宿舎では、着いた日と帰る日の駅~宿舎間の送迎,宿舎と寝具,炊事場と調理器具,食器等のみならず、米やオニギリの提供,入浴の準備,洗濯から子ども達の心や体への気配りとケアまで,お母さん代わりで面倒を見て頂いた。

 その大きな支援の輪の中で子ども達は生き生きとした1週間を過ごし、平郡島,岩国,長野と環境のまったく異なる3つの地域に住む子ども達同士,また多くの人達とのふれあい,交流を果たすことが出来た。
 そして少しだけ逞しくなった。

 子ども達だけでなく、関わりを持ったおとなたちにとっても意義深い経験だった筈である。
 自分自身もまた楽しくてアッという間の1週間だったことをつけ加え、尽力下さったすべての人々と保護者各位に感謝して旅のまとめとしたい。

 旅の終りは次へのステップであり、次の旅へと続く。子ども達の未来を見るためには、留まってはいられない。

無事還る ・・・ 3月28日(木)・2

2013-03-28 21:56:48 | 山のあしおと小学校
 いつものように中津川駅で1時間待ち。これから松本に着くまでが決算・追い込みの時間だ。

 1円の狂いもない子、レシートをもらっていなかったり無くした子,帳簿のつけ方がまだしっくり来ない子等々・・。

 何よりも預かった中から請求に応じて渡した額と、子ども達が受け取った額が一致し、尚且つ帳簿上の残高と所持金が一致していなくてはならないので、この時間帯はずっと計算のし通しなのだが、それも帳簿があってこそのことで、中には帳簿が行方不明~等と言うのもあって、そうなるとお手上げである。

 レシートがないものや自販機の場合は本人の行動を遡って辿りながら思い出せるだけ思い出してもらい、乗り物や入館・入場料等,分かっているものを加え、それでも分からないものは使途不明とするしかないが、それは未熟さ故のことであっておとなの『使途不明金』とは意味が違う。

 こうして何とか帳尻を合わせることができてホッとしたのは塩尻駅に着く頃。Momoっちさんに手伝ってもらって大助かりだった。

 そのMomoっちさんが平田駅で下車した後の20時22分,松本駅着。お迎えのあった4人が降りて残る2人もまもなく大町着。

 平郡島での宿舎・食事の手配,ことに新鮮な山海の食材たっぷりの手料理による心のこもったおもてなし,ハイキングコースや海岸,みかん畑への移動と荷物の運搬,案内,道々で頂いた差し入れやお声かけ等,いつに変わらぬ島の人々のご厚情,さらに広島での宿舎の提供,移動,運搬に尽力下さった方々等、多くの方の支援を得て大きな旅が終った。
 そのすべての方々に感謝。とりわけ信頼して託して下さった保護者の母さん、お父さんに感謝して旅の締めくくりとしたい。

お金の出し入れ ・・・ 3月28日(木)

2013-03-28 12:55:34 | 山のあしおと小学校
 何度も利用した五日市駅なのでだいぶ慣れたが、子ども達にとっては切符を買うことを始め、金銭の出し入れは大変な仕事だ。

 特にバスの場合は始めから料金が分かっているとは限らない,と言うより分からないことの方が多く、必要な額をお釣りが要らないように用意して素早く料金箱に乗車券と一緒に入れ、そこを通過するのは大変なこと。
 子ども達にはお金と財布を落とさないようしっかり持って置くことを口やかましく言ってあるので、色んなものを買う時の支払いもまずリュックにしまってある財布を取り出すところから始まり、必要な金額を揃える~と言う一連の動作をこなさなければならない。
 それがババッと瞬時に淀みなくできる子は稀で、一つを完結して次に入るのが普通であるから時間がかかる。あるいは早めに必要な額を手にしていると揺れるバスの車内では落とす危険性も高くなる。
 通勤時間帯の車内では急ぐ乗客ばかりなのでなるべく最後に降りるようにしているが気を遣う。
 それでついつい急かしたり早めにお金を用意しておけ等と、自分も今額が分かったばかりなのに無理難題を強いていたりすることがある。
 お金の支払い現場は正に戦場なのだ。
 
 その上、夜になるとその日に使った金銭の出し入れを明確にするための出納帳の記入と厳しい点検が待っている。
 あまりやりたいことではないのだが、何にどれだけのお金を遣ったのかを無自覚のまま、遣いたい放題にすることは看過できないのでやむを得ない。
 とは言え、行く先々で小遣いを帳を引っ張り出して記入したりするのを見ると複雑な気持ちになる。

 しかし子ども達が何時までもそこに留まっているとは思えない。そう言うやり方も1週間のそんな繰り返しの中で子ども達自らが考えついた知恵なのだから、やがてはそれに代わるやり方を習得してもっと要領よく上手に金銭の管理ができるようになるのではないかと思うし、同じやり方をずっと続けたとしても、それがその子のベストならそれでも構わないと思う。
 そんな1週間だった。

 まもなく大阪駅,今日もみんな元気。


雨の錦帯橋 ・・・ 3月27日(水)

2013-03-28 08:33:08 | 山のあしおと小学校
 3月27日は登山を予定していたが朝から雨。子ども達が小降りなら登ると言うので、試しに雨具を着て近くを散歩させて見るとたちまちギブアップ・・。
 雨具が上着だけだったりレインコート式だったりでgoサインが出せるのは2人だけだったので登山は中止して、では今日1日どう過ごすかの話し合いとなる。

 家の中でトランプをする,電車に乗って何処まで行けるかやってみる,錦帯橋に行く,動物園に行く,宮島水族館に行く,小降りになるのを待ってあくまで登山etc・・・。

 論議の末,1日中家の中で過ごす派と電車または登山等外出派に別れた。
 家の中で過ごすのなら外に出ないこと,家主の許可のない部屋には行かないことを条件に家の中派には1日中家の中で過ごしてもらい、外出派は登山か電車旅~,と言う提案をしたところ家主さんが難色を示されたのでどちらにしても一緒に行動するしかないと言うことになった。
 が、この時点で始めは2人だった外出派が4人になり5人になり最後は全員が出かける派になった。
 
 そこで小降りになることも期待しながら錦帯橋までバス・電車で行き、錦帯橋を見た後、山の上にある岩国城に登ってはどうかと提案したところそれがいいと言うことになり、11時前にようやく出発の運びとなる。

 バス停に着いて見ると次のバスが来るのは30分も先だったので停留所3つ分を歩いたらバス賃が20円安くなった。
 子どもの料金は大人の半額だけど、こう言う時、『同じ距離(を歩いて安くなる金額も)でも大人の半分だね・・,』とYuki君。


 岩国駅からはバスで錦帯橋へ。期待も空しく雨は上がらず、橋を渡ってアーチのたもとで雨を避けながらの昼食。
 5分咲きの桜に、晴れていれば花見客でごった返すところがほぼ貸切状態で、子ども達は観光客相手の茶店で『日本一のから揚げ・・』の口上に乗せられて大はしゃぎで散財を楽しんだ。

 昼食後は吉香公園を通り抜けて岩国城を目指す。標高差170mの山上にあるお城へ、子ども達は歩いて登るンだ~と意気盛んだったが、時間が押していたのでロープウエイで往復し、城の内部も見学する。
 

 この日の狙いはお金を遣わせることにあり、子ども達にはあらかじめその日に使う費用を少し多めに渡してあったので散財は放任。
 何に遣ったのか、『○○を買いたいけど、帰りのバス賃が無くなるから追加して~』と事前に申告に来た子には追加したが、遣った後になって、しかもバスを降りる直前にバス賃がないことに気づいた子には『自分で(他の子に)借りろ』とどやしつけて突っぱねた。
 100円入れたのに見えなかった双眼鏡の100円,お金を入れても出て来ないガチャの50円,100円は自分で係員に言ってしっかり取り戻させる一方、無思慮な金遣いだけは厳しく叱責した。

 無駄遣いを含めて、誘惑に負けたり我慢したり、計画的に貯めて何かを買ったり失敗したり・・,挫折や成就感を重ねながらも、遣うことによってお金の主人公になって欲しいと思う。


 最後の夜は家主さんがオニギリをいっぱいつくって下さっていたので副食だけを買ってしっかり食べ、翌朝の早起きに備えて満足の顔で眠りに就く。

平和公園から宮島へ ・・・ 3月26日(火)

2013-03-27 17:21:57 | 山のあしおと小学校
 広島電鉄の電車で平和公園に向かう。午前中は平和公園・記念館の見学、午後は世界遺産航路で宮島に行き、厳島神社等を見学する予定。よく晴れて暖かい朝。

 Tomoさん・Ruriさんとは今日でお別れで、2人はツリーハウスの完成確認のため島根県の益田市に向かう。

 子ども達の旅は折り返し点を過ぎて残り3日となったが、みんな今日も元気だ。
 路面電車がとても珍しいようだ。


 今年は原爆記念館のボランティアガイドの予約を忘れてしまった(※1週間前までに申し込む)。
 こう言う場合は当日の朝10時半に受けつけで申し込むことが出来、ガイドさんの空きがあれば可能,予約がいっぱいであれば不可となる。
 幸い,この日はお一人だけガイドさんの空きがあって受けつけてもらうことが出来た。
 ガイドさんについてもらうのとそうでないのとでは大きな違いがあり、広島にいる間,ずっと平和教育に携わっていて尚且つそう感じるので、毎年申し込んでガイドしてもらっている。
 1時間半と言う子ども達が集中できる時間内に適切にガイドして頂いたので、子ども達もよく学べたのではないかと思う。


 
 平和公園・原爆記念館の見学を終えて12:55発の世界遺産航路(アクアネット広島)で13:35宮島着。
 ここでYu・Yui兄妹が再参加すると言うサプライズがあった。

 世界遺産航路の料金1900円(片道)はちょっと高いが、45~40分で宮島に着くことが出来、これによって平和公園と宮島と言う2つの世界遺産を1日で巡ることが出来るようになった。


 厳島神社や大鳥居を見学してTomo・Ruri父娘が益田に向かうのを見送った後、Towa・Azuri・Yu・Yui&Momoっち等水族館グループとYuki・Tubsa・Aoi&木偶等山登りグループに別れて夫々別行動となる。

 山登りグループは時間がないので弥山まではロープウェイで登り、山頂から駒ヶ林に移動して中央ルートから一直線に下山。連絡船の桟橋に着いたのが18時前で丁度水族館グループも桟橋に着いたところだった。


 電車とバスを乗り継いで宿舎に帰った後、近くのスーパーに買い出しに行き、夜と朝の食糧を確保。
 時間に余裕があったのでヤズ2本と大アジ1尾を刺身,カワハギ2尾を吸い物にして頂く。

 初めの頃は魚の生食に馴染めなかった子ども達だが、パクパクとよく食べられるようになった。



3月16日・閖上にて

2013-03-22 17:18:22 | 山のあしおと小学校
 野焼きの作業を見た後、教わった方向に進むと、先刻来遠目に目印になっていた黄色い壁の建物~外観はさほど傷んでいないが中がからんどうの何かの施設のような~に到達。そこで川に突き当たり、左折して遡って進むうちに左手に土台だけ残して地上部を失った住居群・即ち津波によってすべてを押し流された市街地の跡に差しかかる。そのどの家の跡地にも「○○××」と犠牲になった人の名を記した札が立てられ花が手向けられてあるところから、いよいよ閖上地区に入ったものと思われた。

 川を挟んだ先に低い小山が見えるのが話しに聞いていた日和山であろうと見当をつけて進むとやがて欄干の一部が欠け、壊れるのをやっと免れているような橋~その端に無数の白いカーネーションが置かれて萎れかけてている~があり、『日和~』の文字が見えた。

 日和山にはマイカーだけでなくバスやTXで慰霊に訪れる人が絶えず、そのために駐車場が設けられ、また神社の昇り口には震災前の街並みと周辺の様子を写した写真や手作りの新聞などか張られた掲示板があった。
 階段を登ってわずか数メートルの丘に立ち改めて周囲を見廻すと360度、本当に何もないのだ。ここに来て初めて「閖上」の意味を知らされた気がした。

 さてここからどう帰るか・・,当然歩いて駅に向かうしかないのだが方角がさっぱりわからないのでTXの運転手さんに最寄り駅への道を聞こうとしたら先客にして同類の人がいた。
 東京から来たと言うその人は、途中までは来た道を引き返すことになると言うので自然と一緒に歩くことになり、お互いにそれまでに見聞したことを語りながら連れだって駅に向かう。
 その彼から閖上中学校の前に語り部のハウスがあり、当時の様子を詳しく教えてもらうことができるので寄って見てはどうかと勧められ、名刺を交わして語り部のハウスを訪ねる。

 閖上中学校の門前にあるそのハウスには震災以前の町並みのバネル写真があり、それに依って被害の凄まじさを改めて認識させられる。
 閖上中学校の生徒が屋上から撮ったと言う動画の生々しい映像もYoutubeで見る(閖上,動画で検索)のと津波が駆け抜けたその現場で見ると全く違う。現場に立つことの意味は計り知れないぼど大きい。

 その閖上中学校では14名の生徒がなくなった。それはたまたまその日が卒業式の日で、式を終わって早く帰った生徒が犠牲になったと言うことで、すぐ近くの小学校が普通に授業をしていて全員が学校にいたたために、当日休んでいた児童1人を除いて犠牲者が出ていないのと明暗を分けてしまったと言う。
 中学校の時計は今も止まったままで校門の前には14人の名前を刻んだ碑があり、生徒達の亡き友への思いが書かれた机があった。
 自分が中学生を送り出す立場だっただけにいたたまれない思いでそこを離れ、美田園駅に向かう。

 1時間あまり歩いて美田園駅着。名取から福島、会津若松、喜多方を経て野沢と言う無人駅で仮眠。



 海を見くなり、翌朝5時台の電車で新潟まで直行、越後線に乗り換えて寺泊で下車。漁港までの5.5kmを1時間後に発車するバスと競争し、バスが来ないうちに海岸線に着く。
 糸魚川から北に向かう日本海海岸線歩きは寺泊まで達しているので、その続きで一気に新潟まで歩きたいところだが、次の旅が迫っているのでその日のうちに帰らなければならず、信濃川放水路・大河津分水路まで4kmの海岸線を歩くに留め、そこから越後線分水駅までの7kmを歩いて終了。
 分水駅では2時間待って柏崎-直江津-糸魚川-南小谷経由,22時過ぎに大町着。
 

大町発5:34 。

2013-03-22 10:47:34 | 山のあしおと小学校
大町からはAol君(小2)とYuki君(小3)がお母さん、お父さん達に見送られて元気に出発。松本から常連のTubasa君(小4)・あずりさん(小3)兄妹、平田からMomoさんが加わって6名となる。
明日はTomoさんとRuriさん(小5)、Towa君(小3)が現地合流し、長野勢は9名。さらに現地の参加者が7名あり、最大16名と言うかつてない規模になった。

今回は初めて名古屋でなく金山で乗り換えた。以前は中津川からセントラルライナーで料金の発生しない多治見まで行き、快速で名古屋に向かっていたが、これにより大きな駅の混雑を避けてスムーズに大垣行きに乗ことができ、かつ多治見で乗り換える必要もなくなった訳だ。
ここまで順調!

強風・欠航が心配!

2013-03-21 22:43:15 | 山のあしおと小学校




 水無月さん(ノンちゃんのお父さん)から定期的に届く『平郡島頼り』

 3月14日版
 『ようやく晴れて、道路にヒジキが並べられました。太陽と強い風がヒジキを乾かしてゆきます。第1回目のヒジキの出荷の日。東西合わせて800袋超えとか。
 去年の平均より二割も安かったので、この先どうなるやら・・。』





 3月19日版
 『風が夜から吹いていて、朝の便は往復共に直行になりました。戻って来ても、接岸がうまくゆかず大変だったようです。昼食に戻った時、風予報をみたら収まりそうでした。
 でも、午後便は全面欠航になり、波が収まり、陽の射す港に静かに浮かんでいました。
 明日から、生乾きのヒジキが再び道路を占拠します。
 今日のヒジキ刈りは昨日より楽でしたが、並べている時の寒さ。強い風がみるみる手を凍らせて行きました。胴切れして腰にも冷たい風が当たっていました。
 危険を感じて、相棒にギブアップして戻って来ました。』






 明日から28日までの1週間,広島・山口方面の『各駅停車瀬戸の旅』。
 長野からの参加者は、子ども6名,大人3名の計9名。これに現地参加を加えると最大16名とかつてない規模になった。
 
 一番の心配はこのところ全国的に吹き荒れている強風。
 当日,欠航や直行にならなければいいのだが・・。

 とにかく行って来よう。






 北は宮城から東は新潟,西は広島・山口・・と,4本(述べ20日or20人分)の18切符をフルに活用している今年の春。
 計算では3日(人)分余るので、もう一度新潟に行けそう・・。


今日は日本海

2013-03-17 21:47:47 | たび・出会い
 ゆりあげのことは後で報告。
 昨日は名取から東北線・磐越東線・磐越西線を経て野沢と言う小さな駅で過ごし、今日は朝一番の新潟行きから越後線を乗り継いで寺泊駅へ。
 駅から寺泊港までの6kmを70分後のバスと競争で歩いてバスより早く着き、そこから海岸線を5kmほど歩いてさらに7km先の分水駅に戻り、糸魚川廻りで大町へ帰る。

 越後平野の田園風景と日本海を見てホッとした。

 まもなく白馬。


仙台空港から閖上( ゆりあげ) へ

2013-03-17 21:11:23 | たび・出会い
 3月16日・続
 幾つもの仕分け場を通り、何人かの警備員と話したり道を聞いたりしてゆっくりと閖上に近づいて行く。
 はるか遠くに野焼きの煙が上がり、大勢の男女が田圃の草を焼いているねが見えた。『どんなに遠くても見たかったら傍まで行くべし!』 これが5年間の海岸線歩きで得た教訓。
 どこにでもある筈の、しかし原ノ町にはなかった田園の風景。だがここの野焼きも他とは少し違っていて、これから耕作するためのではなく除塩前の作業の一つなのだろう。
 それでも仲間達が集まっての和気藹々の作業にはうきうきした高揚感と和やかさ、長閑さが感じられてこちらまで嬉しくなる。

 この何町分もの広大な田圃の除塩と配水溝敷設も年内には完成する見通しだと言う。
復旧してもすぐに稲を作ることは出来きないんじゃないかと言う問いに婦人達は『塩に強い品種があるそうよ』と言った。女性達はしぶとくてしなやかだ。

仙台空港から閖上( ゆりあげ) へ

2013-03-17 19:42:49 | たび・出会い
 3月16日
 日立木を一番の電車で仙台に向かう途中、名取駅で仙台空港アクセス線~云々のアナウンスを聞いた瞬間に体が反応してアクセス線に向かっていた。
 計画段階で空港の周りを一周する予定だったので、滑走路側にして放水路沿いの道を歩いている時、名取市在住で一時避難的に安曇野に仕事に来ていたUmiさんから『閖上市がお薦めですよ』のメールが入った瞬間にまた体が反応してためらわず閖上地区に向かった。

 離着陸する飛行機の写真を撮っていたマニアによると、空港は海に面しているが『津波は海側からではなく名取川を遡って押し寄せて来た』と言う。
 その5~6km先に閖上地区はある。時刻は9時過ぎ。仙台発11:04が今日中に帰るリミットなので帰るのは明日に延期だ。

 放水路でのフォー(高校時代に自分もやっていた)の練習を見ながら土手に沿って歩いていたらその道は行き止まりで、大きく戻って放水路に対して直角に右折して500mばかり進んだ所からまた直角に右折し、そこから2kmはあろうかと言う直線道路をまっすぐ進む。
 それは何十町分にもおよぶ広大な水田の中につけられた復興工事用の道と思われ、原ノ町のそれと同じように辻々に警備員が立って出入りする車両の誘導に当たっていた。

 田圃と言う田圃にはこれも原ノ町と同じように表土を削りとって掻き集めた小山が出来ていた。ただ原ノ町と違うのは土の表面が白い点で、取り除くのは放射能ではなく海水がもたらした塩であること。除塩と言う作業の一行程だと言う。

 その前に田圃に流れ込んだ瓦礫の除去があり、はじめは自衛隊がやり、残った瓦礫の混入物の大きさや種類に応じて次々と専門の業者が機械で選別・除去に当たり、最後は農民自身がボランティアの助けをも借りて人海戦術で取り除く過程があり、除塩と並行して灌水のための配水側溝が施設されてようやく田圃として甦ることになる。
 『それは今年のうちにも完成する見込み』だと若い警備員君が言った。復旧してもすぐに稲を作ることは出来きないんじゃないかと言うと『塩に強い品種を使うそうだ』と言う。

 ここでも田圃の一画が瓦礫の置き場・分別場になっていて、それぞれに応じた業種のトラックが頻繁に出入りしており、その邪魔にならないように気を遣って歩く。

相馬市

2013-03-17 16:39:15 | たび・出会い
 途中を略して・・

 8時過ぎから9時間歩いてやっとコンビニと農産物直売所に行き当たり、食料と水を買う。そこに至るまでに野営できる場所はいくらでもあったのだが、食料品店がなくて缶詰めの1つも買えず水も足りずで、とにかく店がある所までと頑張っているうちに暗くなり、同時に突然市街地に出てしまって今度は場所がない。
 こうなったら相馬の駅まで歩いて電車で原ノ町に戻り、前夜の道の駅に行くしかないと決めて相馬駅に向かう。
 5~6kmと言う人もいれば3.5kmと細かく言う人もいるが歩いて見るしかなく、1時間あまり歩いて相馬駅に着く。

 電車を待っていると前夜顔見知りになった婦人が待合室に入って来て、話しているうちに隣の日立木駅が無人だと分かり、そこを塒にすることなする。

 この日はラッキーな出会いがあって原発から7kmの地点まで迫ることが出来た。
 そこでは復興が未だ始まらず時間が止まったままであり、復興がようやく緒についた所でもそれはそれで大変な事業で、活気に満ちているように見えても動いているのは重機や大型トラック等を駆使して働く復興従事の人達やボランティアの人達が殆どで、普通の人の普通の生活~商売をする人,野良仕事をする人,歩く人,子どもの姿・・等々,が見られない。

 一方で今なお残る爪痕と癒えることのない哀しみ・苦痛を目の当たりにする等、短時間であまりに多くのことを見聞きしたことで混乱し、迷いが生じてきた。
 足が痛いとか体力・気力がどうとかでなく、この日見聞きしたことを一度整理しないと、ただ惰性で歩くだけになりそうな気がする。
 なので今回はここで打ちきりとし、明日帰ることにする。自分の中で風化が始まってしまうのではないかと思うのだ。

原ノ町から相馬市へ

2013-03-16 20:12:02 | たび・出会い
 原ノ町小高地区の最も海に近い場所で下ろしてもらい、できるだけ海岸線を歩くつもりで壊れた防波堤の上を歩こうとしたがすぐに行き詰まり、砂浜を歩こうと防波堤の破れ目から降りて見たが堤防の外側は消波ブロックの山だった。
 その砂浜に無数のまだ新しい折り鶴が打ち上げられているのを見つけ、いくつかを拾ってバッグにしまい、防波堤を歩くことは諦めて国道に戻る。思えば今回の旅で波打ち際まで近づくことができたのはこの時だけだった。

 海岸線から離れるように大きく左に曲がる国道を捨てて防波堤からあまり離れない道に入る。遥か彼方まで一直線の道が続き、その道と防波堤の間には広大な瓦礫置場や消波ブロックをつくる作業場が延々と続く道の長さほどあり、辻々にはダンプカーの出入りを誘導する警備員立っていた。

 田圃いっぱいに付近の表土をかき集めて小さな山がつくられている一方で、その表土を一ヶ所に集めた置き場には黒い巨大な土の山が出来ている。

 以下、続きは帰宅後に・・。

原ノ町・2

2013-03-16 08:27:28 | たび・出会い
 4時過ぎに起きて簡単な食事をすませパッキングしていると『お早うございます』と声をかける人があり、挨拶を返すとその人=Wさんは災害ボランティアの方で主に遺跡の発掘に携わっていると言って地域の古墳や遺跡の話しを矢継ぎ早に繰り出し、ついて行けなくてマゴマゴしつつも意気投合。トントン拍子に話しが進んで浪江のすぐ近くの小高と言う地区まで車で送ってもらうことになった。

 原ノ町の小高地区は原発から近くて居住できなかっために震災当時の状態がほぼそのままで、これからライフラインの回復等、復興に向けて動き始めようと言う地域だとのことで、堤防や海岸線どころか、家屋や道路さえも殆ど手つかずだった。
 波が家屋の1階部分を通り抜けて行ったのが特徴的だと言うWさんの言葉通り、1階の柱を残して内部がスッカラカンで向こうが透けて見える家が多かった。

 道路は幹線であるR6だけは何とか確保されているものの県道や町道はあちこちで崩落したり波打ったりしており、流されて境界だけになった田圃に至る道はバラスを敷き詰めただけのものであったり途中で途切れていたりで、目的地に行くにも右往左往させられた。
 北隣りの原町地区に比べると道路修復の重機の数も少なく動きもあまり見られないし、瓦礫の処理も進んでいない。それでも動き出したと言う感じはあった。
 小高地区の居住者であるWさんの家は大きな損壊はなく、これから手入れするがライフラインが復旧しないことには戻れず、まだ2年くらいはかかりそうだと言う。

 そこから更に進んで原発から7km地点付近にあるWさんが発掘に携わっている5700年前・縄文晩期の貝塚に行く。Wさんのご自慢にして一番見せたかった所なのだろう。

 この後小高地区を少し戻った地点で車を降りて県道を北に向かう。ここから歩き旅の始まりとなる。