遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

借り物の人生

2006-12-31 23:59:59 | 私・あなた・世界&シニア便
 畑うち・・・大関松三郎
どっかん どっかん たがやす/むっつん むっつん たがやす/鍬をぶちこんで 汗をたらして/どっかん どっかん/うんとこ うんとこ たがやす/葡萄園の三人兄弟みたいに/深くたがやせば たからが出てくる/くわの つったたるまで たがやす/長い長い ごんぼうできよ/まっかな 人参もできよ/ぷっつん ぷっつんと/でっかい大根もはえてこい/かぶでも 山芋でも でっこくふとれ/たがやせば 畑から たからがでてくるのだ/汗をたらせば ちからになって 生まれてくるのだ/うまいことを いったもんだ/けれどもそれは ほんとうのことだ/ぐっつん ぐっつん/腰までぶちこむほどたがやす/星がでてくるまで たがやす

 松三郎の『畑うち』を?十年ぶりに引っ張り出して読んで見た。すっかり忘れていたが、自分がやっていることは、松三郎のこの詩そのままだったことに気づかされる。
 13才の松三郎には農民の子として土に生きることへの微塵の疑いもゆらぎもないように見える。運命を受け入れる諦めに似た覚悟と言うのとは違う、ごく自然に当たり前のこととして、むしろ誇らしく土への思いを歌っているように見える。
 何がそのまっすぐな思いを支えているのか未だに謎であるが、そのまっすぐさには強く惹きつけるものがある。
 自分は農民の子ではない。農民の子でないからこそ土に惹かれる。それはやはり遠いところで農民の血を引いているということなのだろう。
 多分私は松三郎になりたかったのだ。例え借り物の人生であっても、松三郎のあのまっすぐさを、実践してみたかったのだろうと思う。

最後の映像はこれ!・・・国営あずみの公園のイルミネーション

2006-12-31 23:58:59 | 境界線・新境界線
 夜の静けさ,冬の寒さ,澄んだ空気と夜空とイルミネーション・・・,今年最後の絵は12月15日のじゅんちゃの写真を借りた。
 
 以下はじゅんちゃのコメント
 『星がきれいだったので二人であづみ野公園にでかけた。雪が積もっていれば光が反射し、より一層のイルミネーションが楽しめたのだが・・・。夜の静けさ,冬の寒さ,澄んだ空気の下,夜空と地上の光の競演をそれなりに楽しんできた。
 結婚してから先月で28年。若かりし日々を懐かしく思う。ドキドキする感情はない代わりに、よく連れ添ってきたものだとの感慨がある・・・』

 デジカメが水浸しならぬお茶浸しで使えなくなって自前の写真は当分の間なし。原因はポットの栓の閉め忘れ・・・,何度この失敗を繰り返したことか! 何とも締まらない年の暮れではある。

ミス連発!・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑬

2006-12-31 15:06:35 | 踏み跡
8月9日(月)
山小屋でなければ起こり得ない失敗であったが、他にもいくつか失敗をした。小屋泊まりとは関係のないものもあって、それは私にとってかなり深刻な問題だった。まず、朝になってサングラスを忘れたことに気づいた。場所は昨日の最後の水場だろうと思われた。
 三河の3人は予定を変更して太郎平に登り返し、薬師岳に写真を撮りにいくと言って発って行った。出がけにサングラスのことを聞いてみると1人が『見た』と言った。もしあったら車の上に置いておいてもらうことを頼んだが、ほかにも似たような失敗をした。
 これらは決して小さなことではなく、登山では重大な問題になりかねない。まして組織を引っ張って行く上では『ミスをしない』と言うことが信頼を得る上で決定的に重要な条件になるのだから、ミスの内容ではなくミスすることそれ自体が問題なのだ。
 私は元来そそっかしくて注意力散漫で早合点をするタイプだ。まあ人に気づかれる前に自分で気がついて何とか辻褄を合わせてごまかしてきたのだが、冒険クラブを運営している時は決してこんなミスはしなかった。
 どんな小さなミスも取り返しのつかない結果を招きかねないのが登山である。だから念には念を入れ“そこまでするか・・・”と言うところまで緻密に,周到に準備して、万事遺漏のないように用意してことを進めたし、終わってからも全員にチェックを入れた。それはほぼ完璧に近かったから保護者からの信頼を得ることができていたし、実際10年間,かなりハ-ドな内容の活動を無事故で続けられてきたと思っている。
 注意力散漫でそそっかしい私の性格も“一度事故を起こしたらおしまい”という強い緊張感の中で押さえられてきた。それゆえ私は、登山という行為に必要欠くべかざるこれらの資質は“完全に私の身についた”“そそっかしく注意力散漫で早合点な性格は克服した”と思い込んでいた。
 3年間の空白で大ボケはぶり返し、前よりひどくなっている自分に気づけば落ち込むなと言われても落ち込む。技術的なことや気力や体力の衰えよりもこのほうが厄介なのだ。
問題は立場であろう。企画して取り組んで引っ張っていく立場と、ただついていくだけの立場の違いである。もう一度5年前までのあの緊張感に満ちた立場に戻らなくてはと,意を新たにする。(以下,赤木沢遡行記録に続く)
 (写真,’06・8,雲の平)




カメラがない!・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑫

2006-12-31 15:01:08 | 踏み跡
 夜の食事は食担の小形が用意してくれていたので持ってきたものは無駄になったが、味噌汁だけつくってそれにイワナのぶつ切りをぶち込んだ。尾数が人数に足りない時や焼くことができない時にはこうやって味噌で生臭さを消す。
 沢に下りてイワナを切っている時、パラパラっと雨が降り出して、小形と中本が戸外のテ-ブルに広げていた食事を自炊部屋に運んでいる間、テーブル周辺が無人になった時間があった。
 その前にスナップを1枚撮ってカメラをそこにそのまま置いて沢にいった。全部の荷物を自炊部屋に運びこんだ中にカメラがなかったことに気づかず、翌朝出発前までカメラのことは忘れていた。
 気づいて慌てて小屋の人に何度も探してもらったが出てこなかった。愛用のカメラだったのでがっかりして、そこから先の行動がどうでもよくなってしまった。山を下りてから、私には大事な撮影目的があった。カメラがなくてはそこに行く意味がなくなるのだ。
 (写真,’06・8,雲の平)
 

幕営禁止・小屋嫌い・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑪

2006-12-31 14:45:38 | 踏み跡
 禁止区域だから野営はできない。けれど、はじめから沢登りを目指している者にとって、この野営禁止は非常に困る。沢に泊まってこその沢登りである。
 例えば上の廊下から奥の廊下・最源流部を目指して遡行してきた者が、薬師沢付近でだけわざわざ沢から離れて小屋に泊まるだろうか・・。そんなことをしていたら沢登りの純粋性は失われてしまうし、雰囲気も壊れてしまうではないか・・。おそらく彼等はその“モラル”とけんかすることもなく、従って罪悪感もなく沢歩きを継続するだろう。
 けれど太郎平から下りて来れば“野営禁止”の立看板はいやでも目に入る。これを無視するにはちょっと度胸がいる。度胸だけでなく、敢えて野営するための“沢登りとはそも何たるか”と言う“ウンチク(屁理屈)”もいる。
 本流から遡行してきたのならともかく、途中から入って“いいとこだけ”ねらいの私には、何のためらいもなく入渓・幕営できるだけの“度胸”も“屁理屈”もないのだ。だからそのまま入ると後味の悪さが残る。けれど、沢の中に泊まらなければ楽しさは絶対に半減すると思う。それは確かだ。
 山小屋がきらいだ。素泊りで5200円の金額のことよりも、自分達の空間がないのがいやなのだ。暑くて寝苦しいし人に気を遣わなくてはならない。同宿者との交流には楽しいものがあるが、やはり誰にも気兼ねなく山の雰囲気を味わいたいではないか!
最後に山小屋に泊まったの88年の鳥海山だったと思う。夕食前後の一時を私達はなごやかに交流したが、翌朝起きてみると事態は一変していて、私の顔に周囲の白い目線が突き刺さってきた。
『仕方がないではないか,早く寝た方が勝ちなのだ』とは開き直れない。以来山小屋には泊まらないことにした。そんな思いをするよりテントで一人のうのうと寝る方がいい。だから穂高の登山バスのリ-ダ-で小屋泊まりを余儀なくされた時も1人で外に寝た。
 (写真,’06・8,雲の平)

薬師沢にて・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑩

2006-12-31 14:32:17 | 踏み跡
 すぐに小形,中本を探したが見つからず、小屋の受付けで調べてもらうと小形の名で予約してあり、私が着いたら3人になることまで申し込んであった。まずい展開である。小屋に泊まる気はなかった。しかし、一帯は野営禁止区域である。それを無視するかどうかはモラルの問題になる。
 予約された部屋を覗いてみたが2人の姿はない。どっちに釣りに行ったのだろう。3つの方向がある。一つは薬師沢の上り,一つは本流の下り,今一つは本流の上り。このうち本流の上りは明日の赤木沢の遡行と途中までダブルので多分ない。小形が薬師沢で中本が本流の下りだろう。 
 合流点にはかなりの竿が入っていたが、釣れているようには見えなかった。まずここでこの時間に釣るのは難しいだろう。小屋にはOさん達や町田の二人,釣り目当ての中年等が次々と着いて宿泊を予約し、あちこちでビ-ルを手にして乾杯の声が上がっていた。
 なかなか帰ってこないので荷を置いて本流の上流側を探りに行ったが、やはり場荒れしていて反応がなく、すぐに戻ると中本がいて、ほどなく小形も上がってきた。小形は午前中2尾でサイズは20cm。午後は釣果なく、中本は帰って寝ていたのだそうだ。
 その日のうちに本流を赤木沢の出合い付近まで遡行するには時間が下がり過ぎていた。すぐに暗くなる。それに野営禁止の問題がクリア-できていないので小屋に泊まることにした。
 (写真,’06・8,雲の平)

薬師沢小屋へ・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑨

2006-12-31 14:24:08 | 踏み跡
 後からOさん達と、釣竿を持った2人連れの中年が来て少し話し込んでいるうちに町田の夫婦が先に行く。14:50,2人を追いかけるように出る。ほとんど平坦な下り。やがて木道のある湿原に出る。
 ウメバチソウの少し緑色を帯びた清楚な白,イワウチワ,アケボノソウ,タムラソウ,タテヤマリンドウ.ミヤマリンドウ・・。リンドウの紫がものすごく濃い。タムラソウも同様に紫が濃い。ミヤマホタルイ,コバイケイソウ(実),タカネニガナ。モミジカラマツはキンポウゲと同じコンペイトウのような実をつけていた。
 先行した二人は夫人の方は元気だが、男性の方が『バテてフラフラ』だそうでベンチで休んでいる。本当にふらつきそうになりながら座り込むのが見えた。
 15:35から水場で休み、モチ1個と練り物のテンプラ1枚を食べて10分後出発。若干の登り下り,と言うより木の根っ子や階段を乗り越えながらゆっくり高度を下げる。
 やがて薬師沢の水音に混じって発電機のポンポンと言う音が聞こえ始め、その音が大きくなったと思う頃、眼下に小屋の屋根が現れ、16:21,薬師沢小屋着。
 (写真,’06・8,雲の平)

ヤマメ!?・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑧

2006-12-31 14:16:06 | 踏み跡
 適当に食べて13:10発,水が欲しかったので急ぐ。枯れ沢が1本,水が止まっているのでやめて急な坂を一気に下り、13:43に沢に着く。やっと喉を潤すことができて生き返る。
 この沢が意外と大きく、また2つの沢が合流していたので毛針を振ってみると一発で20cm強のイワナが飛びついてきた。もう1度振ると同じサイズのイワナがまた来た。2振り2尾である。もっとも2尾目は向こうが勝手に飛びついてきたもので釣ったというより釣れたというべきだろう。
 リリースかキープか迷うサイズだが、黒部の源流域のイワナは小ぶりなのであまり大物は望めないと考えてキ-プする。ちょっとかわいそうだったか・・。
問題は3尾目である。出方が全然違っていた。電光石火、ガバッと水を割って飛び上がり、頭を中心にくるりと反転して水中へ・・,アドレナリンがどっと出る。 その間まばたき1つ分,いや瞬くひまはなかった。合わせたが遅かった。けれど毛針には触らなかった。様子を見にきただけ だ。『もう一度来る!』と思った。 来た! アドレナリン分泌! 合わない。針にも触らない。やはり様子見だった。イワナのライズではない。魚体も幾分白かった。あきらかにヤマメである。それっきり出てこなかった。
黒部にヤマメがいるとは思っていなかった。イワナなら確実に釣れていたはずだが、ヤマメなら私に釣れる率は10に0か1である。それにしてもヤマメとはネ!

 釣ったイワナの腹を開けて胃の内容物を調べると小さな甲虫と川虫が主だった。餌も小さいから大きくなりようがないのだろう。細々と生きているのでろうと思えばあれば釣るに忍びなく、急速に釣意を失って納竿する。
 (写真,’06・8,雲の平)

花の絨毯,草原の風・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑦

2006-12-31 14:05:14 | 踏み跡
 11:38発。話しこんで大幅に遅れたので先を急ぐ。いつしか森林限界を越えていた。
 2196mの独標を過ぎて左前方に薬師岳がその全貌を現すと、右手のゆるやかなモスグリ-ンのカ-ペットの広がりの向こうに太郎小屋が見えて来る。萌黄色に見えていたのはキンコウカの花で、それが一面にびっしりと咲いて絨たんのように見えたものだった。」 
 タテヤマリンドウが盛期を迎え、コバイケイソウ,イワイチョウ,ニッコウキスゲの花はすでに終わって早くもアキノキリンソウが咲いていた。チングルマの綿毛が草原の風に揺れて、山はのどかな昼の時を迎える。
 陽射しは強いが風は冷たい。どんなに優れたF分の一ゆらぎのフラクタルな風も、この風の心地好さにはおよばない。この涼しさを人の手でつくりだすことはできない。

 12:20,太郎小屋に着く。三河のOさん達が迎えてくれた。ポリタンクに水を入れるのを忘れ、愛用のひょうたんバッグも忘れてほとんど水なしで登ってきたのでやむなくジュースを一つ買う。Oさん達に南木曾から大平宿に入る道,大平から飯田に抜ける道,飯田から新城・三ケ日に至る道(R153)を教わる。
 (写真,’06・8,雲の平)

元気な登山者達・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑥

2006-12-31 13:38:46 | 踏み跡
 10:05発。そこからは広々としたゆるやかな登りとなる。下から元気のいい歌声が聞こえてくる。小学校6年生くらいと中学生と思われるの女の子とその両親の4人づれで、下の子は会う人すべてに『こんにちは~』と大きな声をかけ、大声で歌っていた。姉と両親もいっしょに歌っている。おそろしく元気な明るい家族である。私の知らない歌ばかりなので尋ねると、夏休みのはじめのサマ-キャンプで習ったばかりの歌で、全部オリジナル,登山の間に覚えるのだと言う。
 下の子がリ-ドして他の3人がついて歌う。ついついその家族に引きずられてペ-スが狂ってしまったが楽しかった。もう少しつき合って歌の一つくらい覚えたかったが、先が気になった。
 道が木の枠の中に石を並べた石畳になる。歩き易いと言えば言えるかもしれないがこの手の道は苦手だ。
 11:00,“折立から6.0km・太郎平へ2.0km”の標識を通過。2分後にベンチのある休憩所に着く。ゲ-トで知り合った三河ナンバ-の3人連れパ-ティ-に追い着く。行動食を腹に入れる。入善のFマ-トで買った餅がおいしくて食べやすかった。
 昨夜この道を夜通しで歩いて今朝早く黒部五郎に登り、今下山途中だという人が話しかけてきて沢と釣りの話になる。赤木沢や黒部源流の沢と谷,イワナのこと等、地元の人ならでの情報を仕入れる。金木戸沢の情報も得た。
 金木戸沢に興味があったので赤木沢の後,入り口まで行ってみるつもりでいたが、支流の蓮華谷左俣について得た情報によるとゴルジュは6m以内で、泳いで越えた後ザイルに結んだザックを引っ張るという泳ぎか少なくとも8ケ所はあると言う。水量の多いきつい沢と言う点は予想通りでシュラフなし,テントなしのビバ-グ,ザイルは8mmを20m。火器,食糧等,最小限の装備での強行軍を強いられるようだ。のんびり釣りを楽しむ沢ではないことが分かった。
 (写真,’06・8,雲の平)
 

山にもどってきた・・・’99・8,復帰へのアプローチ⑤

2006-12-31 13:26:33 | 踏み跡
 雲一つなく行く手太郎平方面もすっきりと晴れ上がり、天気は安定していると思われた。三角点は絶好の展望台だが、早く樹林帯を抜けたいのでもう一つ上のピークまで休まず行くことにする。
 オオシラビソとダケカンバの樹林帯と草原が交互に現れる中、10分ほど(9:30)でピ-クに着いたが、期待に反して展望が利かないそのピークを飛ばして、その先の鞍部で休むはめになる(9:45)。勘の働きが悪い。
 雲が少し上がり始めていた。右手の白山方面も晴れてはいるが、白山自体は雲で隠して顔を見せない。
 目の前やや左手の薬師岳西部の斜面の緑は一色ではなく、萌黄色から芝を思わせる濃い緑まで変化に富んでのびやかに広がっている。それはかつて幾度となく目にした景観であり、山は少しも変わっていないのだが、その変わらないことに新鮮さを感じることが山との隔たりを物語っていると言える。それはあらゆる緊張と束縛から精神と肉体を解き放つ作用をもって私を迎えてくれていた。雲の上にこんな世界があったことを長い間忘れていたように思う。
 もう何年も職さがしを続けているが、思うような仕事は見つからず、いらつき疲れる日々,あらゆるものが目まぐるしく変化し、自分が自分であることを確かめられなくて、本当に生きているのだろうかといぶかしく思う日々である。
 悠久の存在として山が変わらずそこにあること,その存在の確かさがどれ程大切なものであり、どれほどそれを求めていたことであるか・・,と気づく。
どんなに生活に追われていても山から離れてはいけなかった。精神の解放と充実がなければ生きていても本当の生ではないのだということを、ようやく思い出している。
 (写真,’06・8,雲の平)

出会い・・・’99・8,復帰へのアプローチ④

2006-12-31 12:55:49 | 踏み跡
 ある年、大汝山で行き暮れて本来は泊まることのできないその小屋に泊めてもらったことがあった。自分は別山小屋まで行くつもりだったが、たまたま道連れになった岩国から来たという単独の女性の足取りが危なっかしい様子だったので、泊めてもらうように頼み込んだら『ついでに泊まっていけ』となったのだ。
 あるじは『朝の大汝山からの展望に勝るものはない。せっかく泊まったのだから早く起きて見にいけ』と言ってくれた。小屋主の言葉通りの素晴らしい展望に声も出なかった思い出がある。
その日は原爆記念日だった。8月6日のその時間にはどこにいても黙祷をするのが常で、山でもそうしていたので8時15分のその時間に断ってラジオを入れ、黙祷させてもらった。
 遠北(あぢきた)さんと言う名の主人は、私が帽子につけていた原水爆禁止世界大会のバッジに目をつけ、自分の持っているバッジと交換してくれないか,と言った。
 私が快く応じると『梁場駅の近くで民宿をやっているのでぜひ寄ってくれ』と言い、翌々年尋ねて行くと今度は『剣沢から降りてくることがあったら仙人小屋に寄ってくれ』と言った。その仙人小屋にも後年,剣沢から下の廊下に下る途中に泊まって“光り苔”を見せてもらった。それが最後の立山連峰である。
その後しばらくは東北や南アルプスが多く、北アルプスからは遠ざかっていたが、こんな風だったんだなぁ,と改めて思い返す。その広がりと大きさには北アルプスならではのものがある。
 (写真,’06・8,雲の平)

三角点からの大展望・・・’99・8,復帰へのアプローチ③

2006-12-31 12:49:20 | 踏み跡
 8:22発。もっと上の方で会うことを予想していたので予定外の休憩となり、その遅れを取り戻そうと急ぐ。8:50,休んでいるFさん達を追い越す。一帯はブナ林にクロベとダケカンバが混じり、高度が上がるに連れてオオシラビソがそれに替わるようになる。
 9:10“折立から50分・三角点へ30分”の標識の先で高校生とお母さんの親子連れと2組の夫婦を追い越す。そのうちの1組がついてきた。ペ-スメ-カ-になるのが嫌なので先を譲る。その後を大きめの荷を背負った単独の若者が大粒の汗をぼたぼた落としながら登ってきたのでこれも先を譲る。9:25,1870mの三角点を休まず通過。道を譲った夫婦と青年が休んでいた。
 三角点を通り過ぎながら左手・立山方面を見ると、弥陀ケ原の上に大日岳から始まって剣,立山,薬師(裏側)へと続く山並みがせりあがって来て、いきなり、北アルプスの大展望の中に飛び込んだという感じにさせられる。4年前は厚いガスに覆われて山は見えなかった。それ以前からというともう20年になるだろか・・。
 (写真,’06・8,雲の平)

遭遇・・・’99・8,復帰へのアプローチ②

2006-12-31 12:40:58 | 踏み跡
 7:45出発。昨夜ゲ-ト前で一夜を明かしたと言う町田の若い夫婦,F夫妻も出るところだった。登山口の無料休憩所の横を通ってすぐに登山道に入る。
 3年ぶりの登山は4年前と同じ道で、太郎平までは5時間の行程だが4時間で着きたいと思ってはじめから飛ばす。
 けれど始めはやはりきついので30分歩いたら荷物調整をしようと思っていた時、降りてくる一団を交わし、もう一つのパ-ティ-を待っていると、それが小形,中本と別れて先に降りてきた藤井,高橋の2人だった。時刻は8月8日8時8分の8並び。思ったより早く降りてきたのに驚く。
 東北・朝日岳以来3年ぶりの再会。15分ほどそこで休んで近況報告と情報交換。話している間にFさん達はじめ、いくつかのパ-ティ-が追い越していく。
 来年の夏,かつての冒険クラブをリメイクして信州のどこか,例えば涸沢とか大平宿あたりで大集合する,と言う構想を話して協力を要請し、年内に広島でその打合せをすることを約して別れる。個人的には大平宿が最適だと思っており、この後、その下見に大平宿に行く予定である。
 (写真,’06・8,雲の平)

有峰湖から赤木沢へ・・・’99・8,復帰へのアプローチ①

2006-12-31 12:24:44 | 踏み跡
 有峰湖~薬師沢山行記録 1999年8月7(土)~9(月)
 広島・佐伯FHC(広島県勤労者山岳連盟)中本慶昭=CL,小形正則/西多摩山歩会 森田義彦
 8月7日(土)~8日(日)
 7日8時:40,国分寺の自宅を出る。水上のK自動車に寄って新しい車を受け取り、日本海まわりで有峰湖・折立を目指すも20:00の閉門に間に合わず、神岡町に廻ってR471の駒止橋から東谷林道に入り、金木戸川沿いに有峰湖に向かう。途中で1時間40分の仮眠。
 8日4:00に目覚め、同:54,ゲート着。先着の車が2台。後続車数台。6時の開門までにパッキング。6:00開門。40分で折立へ。快晴。大変な車の数で登山口のはるか手前に駐車する。
 小形達は私の出発が丸1日早くなったことを知らない。着くのは今夜か明朝と思っている。だから夜通し歩いて彼等が薬師沢に降りる前に太郎平でつかまえようと思っていたが、その目論見がはずれた。日本海まわりでなく、松本からまっすぐ有峰湖に入るべきだった。
 小形達と太郎平で合流することにこだわったのは、赤木沢で幕営するためである。おそらく彼等は荷物を薬師峠にデポして薬師小屋泊まりの軽装で薬師沢に降りるだろう。それでも予約は後まわしにして釣りに出ているかもしれない。そのわずかな望みに賭けてテントと炊事道具を持って行くことにする。
 当然荷が大きくなるので渓流足袋で歩く。が、私が着いた時彼等は既に小屋を予約しており、思惑が裏目に出て結果的に余計な荷物を持って歩くはめになった。
 (写真,’06・8,雲の平)
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