遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

ビタミンたっぷりの総合スタミナドリンク,甘酒完成!

2009-01-30 00:35:26 | 喰う寝る○太

 52~55℃に保つこと8時間あまりで甘酒が出来た。砂糖を使ったわけでもないのにすごい甘さになるのには驚いた。こんなに美味しいものがこんなに簡単につくれるのならもっと早く着手すべきだったと思う。 
 
 2002年6月から7月に放送されたNHK人間講座『発酵は力なり』小泉武夫(東大農学部教授)によると、甘酒には、ブドウ糖が20%以上含まれ、人間が生きていくために不可欠なビタミン類が豊富に含まれているのだそうだ。
 以下,同大学講座より~

◆甘酒は、総合ビタミンサプリメント
 麹菌が繁殖するときに、ビタミンB1、B2、B6、パントテン酸、イノシトール、ビチオンなど、すべての天然型吸収ビタミン群を作って米麹に蓄積させ、それが甘酒に溶出される。それゆえ甘酒は、まさに総合ビタミンドリンクなのだ。
 また甘酒は天然の必須アミノ酸を最も多く含む飲物である。米の表面はタンパク質が多く、そこに麹菌が増殖すると、タンパク質分解酵素を出して分解し、アミノ酸に変えてしまう。病院でよく行われる点滴は、ブドウ糖溶液とビタミン溶液とアミノ酸溶液を血管から補給するものだから、これと同様の効果が得られるということだ。

◆腸内環境を改善するジャパニーズヨーグルト!!
 麹に由来する食物繊維とオリゴ糖が腸内環境を整えるので、便秘や肌荒れなどを予防・改善、体内の有害物質の排出に役立つ。この働きにより、甘酒は『ジャパニーズ・ヨーグルト』と呼ばれてもいる。
 さらに、ペプチド(たんぱく質を酵素で分解してできる物質)の一種である『アンギオテンシン変換酵素阻害物質』という物質は、天然の降圧剤と云われ本態性高血圧症の人に効果があると言われている~。
 以下略

 甘酒は、江戸時代には夏の飲み物だったらしい。即ち、夏は暑さのために食欲が減退し、エネルギーや栄養素が不足しがち。そのため神経や筋肉の働きが鈍くなり、疲れやすくなる。これが夏バテで甘酒は夏バテを防ぐ総合栄養補助食品として飲まれていたのだそうだ・・。

 さて、この甘酒に酵母や酵母代わりに酒粕をを加えて一定の温度を保つとどうなるだろう・・? ナンテことはやってはいけないのだ! 

醗酵研究~甘酒をつくる・・・1:仕込み

2009-01-28 14:27:36 | 喰う寝る○太
 米150g(1カップ)で粥を炊く
 60℃の粥に麹を混ぜて
 布巾をかけて55℃で保温
 さらにタオルケットでくるむ
 醗酵研究の第1段階として『甘酒』をつくる。マニュアル通りに米150gを研いで粥をつくり、60℃に冷ましてから市販の麹200gをほぐし入れてよくかき混ぜる。
 炊飯器を保温にしたまま蓋を開けた状態で布巾をかけて55℃で保温,8~12時間。冷め過ぎないようにタオルケットをかけて置く。温かいのでコタツに入れる必要はなさそうだ。

外は青く中紅く・・・,信州地ダイコン3種

2009-01-25 19:44:24 | 喰う寝る○太
 信州地ダイコン3種
 信州にはこの地方特有の地ダイコンがある。信州新町の道の駅で求めた3種類。左の紅いのは辛味ダイコン『ただら』,白いのは『辛味ダイコン(ネズミ大根か?)』,右の青いのは『紅芯』

 中でも変り種は紅芯で、外は緑色だが切ってみると中はスイカのように紅いのが特徴。スライスして3倍酢に漬けていただく。

 3倍酢に漬けると次第に紅が強くなる。ボールの上部にある半割りの玉は切った直後でまだ色が薄い。

 左半分は先に漬けたもの,右は漬けたばかりのもの。

 3倍酢に漬けたところ。しばらく置くと調味液が真っ赤になる。

 他の2種はおろし用

ぐうたら生活の帰結

2009-01-22 09:53:44 | 暮らし


 体重管理開始から1月10日で満1年が経過した。76kgに達しようとしていたのが一時は70kgを切る(昨年11月)ところまで下がったが、年末から年始にかけてのぐうたら生活が祟って今は72kgまで戻されてしまった。まあしかし1年間の目標播3kg程度だったので悲観するほどではないと思うし、畑作業を始めればすぐにも70kを切るだろうと思っている。
 以下は昨年9月~12月の推移表。
 9月 70kg以下,11日。
 10月 70kg以下,4日に後退
 11月 70kg以下,6日,やや回復
 12月 70kg以下,1日に後退

 外食の影響を示す2つのピーク。
 11月16日(左)と23日

戦国の山城探訪ハイキング・・・桐原城

2009-01-20 22:00:40 | 境界線・新境界線
桐原城
 桐原城の廓/廓にて
林城広域
 最後に訪ねた桐原城は、規模こそ小さいが戦国時代の山城の成り立ちを最もよく伝えている点で出色である。

 竪堀を思わせる登り口
 まず第1に桐原城は林城に比べて急峻な山に設けられていて、それ自体が敵の侵入を阻む要塞としての主要素になっていると言う印象を受ける。そのことは廓に登る道自体がまるで竪堀を登っているかのような急坂であり、しかも他に攻める道がないと言うことからも伺える。堀切が設けられているのは言うまでもない。

 狭い上に斜度30度以上の竪堀

 第2に、仮に他の侵入路から攻めることを試みるとすると、それらはすべて無数に設けられた竪堀につながっていて侵入者が横に移動することを阻み、まっすぐ登れば上から迎え撃たれて容易には落とせない仕組みになっていることを非常にわかり易く提示してくれている。

 土塁を支える石垣と補強の欅/一の廓の下にも腰廓

 また、こんもりした小ピークを切り開いて平坦にした感じの一の廓の土塁と土塁を裏側から支える石垣や腰廓の二~四の廓,帯廓等の保存がよく、つくられた過程や山城の成り立ちが一目瞭然である点,絵に描いたように博物館的でわかり易い。

 竪堀を下ってみた!
 竪堀は少なくとも8本以上あり、中には行き止まりになっているものや畝状に畝ってしかもそれが枝分かれし、どこへ導かれるかわからないままバラバラに分断されて孤立したところを迎え撃たれるようにつくられた(畝状竪堀)ものまである。
 帰路はその竪堀の最も大きなものを下ってみたが、実際に上から見下ろしながら下るといかに急傾斜であるかがよく分かる。


 まず狭い上に急坂なので攻め手は1人づつ登ることになり、数にものを言わせることが出来ない。横に走ろうにも堀は深いし連絡路もないので竪堀の中を上へ上へと行くしかないが、それは攻めている筈がいつの間にか誘い込まれているに等しい。上には巨岩や槍ふすまが待っていたことであろう・・。

 面白雑兵体験終了

 途中から雑兵になったような気分に襲われた。後からは槍で追い立てられ、登れば死が待っていると分かっていながら進むしかなかった雑兵達の恐怖と悲哀に身がすくむ思いがする。

戦国の山城探訪ハイキング・・・林小城&広澤寺

2009-01-19 20:36:58 | 境界線・新境界線
林城
 陽だまりに咲く/林小城の土塁

 林大城から西に下って大嵩崎と言う小さな集落を挟み林小城が東に相対して連立式の要塞をなしている。陽だまりに早春の花を咲かせる集落の急坂をを300mほど下って小城の入り口に達し、ここから小城を目指して杉,カラマツ,アカマツの林を登る。その入り口付近に『地獄の釜』と称する底なし沼(?)があった。馬1頭を荷物ごと呑み込んだと言われる沼は今は半ば干上がって2~3坪ばかりの泥場に過ぎないが、試みに棒を突きたてて底を探ってみると確かに深かく、そのような言い伝えが生まれるのも頷けぬことはないかも知れない。


 急登20分で林小城の廓を支える石垣が見える場所に着く。廓の一方の端は山の斜面を残して土塁とし、削った土を反対側の端に移動して平面を確保したものと思われる。石垣はその裏側をしっかりと補強するものであるのことがよく分かる。



 石垣を廻り込んで廓に入る。廓は大城のそれに比べれば半分ほどであるが周りを囲う土塁や石垣が築城当時の姿をそのまま残していて興味深い。


 下って小笠原氏一族の墓がある広澤寺に向かい、お参りさせて頂きたい旨,案内を請うと内部を見学させて頂いた上に、雪を被った庭園を窓越しに見る暖かい部屋で昼食休憩をとらせて頂く。


山城をめぐるハイキング・・・林城&桐原城

2009-01-19 02:04:32 | 境界線・新境界線
林城広域
          
 里山楽会・境界線の1月山行は『長野県史跡・小笠原城跡めぐり』と称して松本市内の林城と桐原城を訪ねるハイキング。
           
 林城は建武年間(1334~),信濃守護・小笠原貞宗が府中に井川館を設けて以来,小笠原長時が武田晴信に敗れて退去した天文19年(1550)までの約200余年間,厳しい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で、中世における連立式の築城遺構を持つ。城跡は林城の大城,小城および、その前衛をなす桐原城を含めた雄大な要塞として、守護小笠原氏の貫禄を示すものであり、県の代表的な史跡となっている。

 美ヶ原を背にした薄川にかかる金華橋のたもとから城址公園の尾根につけられた散策路に入るといきなりの急登となり、ふり返る正面には鹿島槍・爺ヶ岳を見る。尾根を登りきると松林に囲まれた緩やかな道となり、一ノ門跡を経て30分ほどで大城に着く。

 林城等の山城は、平城の城郭の本丸・二の丸に当たる『廓(くるわ)』と称する平坦地を中心に、廓の下側に設けられた『帯廓』・『腰廓』と呼ばれる平坦地,廓の周辺に土を盛り上げてつくる『土塁』,尾根筋からの敵の侵入を防ぐために尾根を切るように設けられた『堀切』,敵の横移動を防ぐために山の斜面に縦方向に設けられた『竪堀』,敵が登りにくいように地面を掘削して急斜面を作り出した『切岸』などからなる。即ち、城は『土から成る』ものであり、それが城と言う字の元(土偏に成)になっていると言える。

 林大城の廓はかなりの広さで、周辺には土塁が設けられてある。このように廓の周りに土塁を積み上げるのが小笠原氏の山城の特徴なのだそうだ。    
 化粧井戸跡
 水は薄川の上流から用水路で引いて来て、この粧井戸に溜められたものと思われる。
          
 大城から下って大嵩先(おおつき)と言う集落に下り、集落を挟んで連立する林小城に向かう。
                        

ブナの森から雪原へ・・・スノーシュー&スキー

2009-01-14 11:26:06 | 山行
 
 1月10日(日)
 大荒れの予想に反して朝からピーカンの好天で気温も屋内でー2℃程度とさほど低くなく、絶好のトレッキング日和。冬季の周辺の事情がよく分かっていないので『森の家』で情報収集した後、スノーシューと歩くスキーで家の裏から続くブナ林に向かう。

          
 スノーシューは初めてと言うKeitiさんはすぐに要領をつかんでぐいぐいと先頭を行く。自分は相変わらず下手なスキーで追いかける。ストックの雪止めが壊れてただの金属棒にすぎず、うっかり転ぶと起き上がれなくなるので転ばないよう慎重に歩く。

          
 雪面に長く伸びるブナの影を横切って先行者2人の足跡が点々と続く。見上げれば抜けるような空。


          
 ブナ林を抜けると目の前に広大な雪原が広がり、その先に信越トレイルが走る県界稜線のうねりを望む場所に出る。そこは原野を開発して新しくつくられた大規模な農場で、夏には主にアスパラガスを生産していると聞く。その雪原を今は自由自在に,思いのままに歩くことが出来る。

          
 畑と畑の間を走る農道の間の本来は切通しになっている部分に雪が溜まって程よい斜面ができ、そこでソリ遊びをしている一団の歓声が響く。他にはこの広大な雪原に遊ぶ人の姿は見当たらず、先行する2人は無垢の雪を蹂躙するかのように蹴散らしてまっすぐ進む。

 鍋倉山はどれ・・?
 正面やや左が関田峠方面,さらに南方に鍋倉山と思われるどっしりした山が見えていた。だがそれを鍋倉山とするとその北にある筈の黒倉山にあたる山が見えない。2.5万図を見ていたKeitiさんの『鍋倉山の陰になっているのではないか』と言う読みで出来るだけ高い位置を目指して進むうちに、『森の家』が圧雪した幅5mほどのコースに突き当たる。コースは農道にそって延々と伸びており、おそらく山の麓に達しているものと思われた。圧雪されたコースを歩くにはつまらないが、ガスに巻かれた時などはこのコースを下れば無事に下山できると言う安心感を与えてくれているようだ。

          
 Keitiさんの読み通り鍋倉山の影からもう1つ尾根が見えてきてそれが黒倉山だろうと言うことになった。見届けて引き返したが自分にはどうしても納得が出来ず、鍋倉山から派生する支尾根ではないかと思って『森の家』のスタッフに聞いてみるとkeitiさんの説が正しいことが分かった。けれど往生際が悪いと言うか頭が悪いのか、地図では鍋倉山の北にある筈の黒倉山を北から見ているのに、なぜ鍋倉山の陰になるのか未だに理解できない。しかも2.5万図では明らかに黒倉山が鍋倉山より北であるのに、スタッフは『黒倉山は鍋倉山の南』だと言った。これまた理解できない。
鍋倉山
 改めて地図を穴が空くほど見続け、結論に合わせて解釈を試みるとこうなる。
 鍋倉山と黒倉山の高度差は約40mで自分達の位置は鍋倉山の東北東である。普通,ほぼ同じ高さのピークが隣り合っていて、それを直角方向から見れば2つのピークが仲良く並んで見えるものと思い込む。だがこの場合は思ったほど北に寄ってはいなくて両者が重なって見えてもおかしくない斜め方向から見ていたというのが1点と、もう1点は、地図でもわかるように鍋倉山から東に伸びる尾根が思ったより大きくて、それは黒倉山を隠すに充分なほどであったと言うことになるだろうか・・。
 あまりスッキリした解釈ではないが、そう考える以外に自分をなだめる術がない。拘り性にも困ったものだ。

鍋倉山の麓から

2009-01-14 04:26:13 | 山行

      
          
 鍋倉山の麓・柄山地区の古民家に宿泊中。10日13:30 着。道路の除雪終了点から家の入り口までの20mを腰まで埋まりながらラッセルして玄関に辿り着き、5週間ぶりに中に入る。ヒンヤリと空気は冷たいが、湿気も黴くささもなく家はいたって健康。

          
とりあえず荷物を運んでから道づくりと駐車スペースの除雪にかかる。雪の多い飯山市では積雪が10cm越えると幹線・支線を問わずすぐに除雪車が出動するのでどんなに降っても家の近くまで車が入れるのだが、この家に場合は赤いポールまでが除雪対象で、そこから先は自力で除雪しなければならない。
 その赤いポールから先に車が2台入れるスペースをつくるべく奮闘するも奥行き3m×幅2.5m×厚さ1.5mの除雪は容易でなく、3時間で半分程のスペースを確保した頃には暗くなりはじめて中断。夕食の準備,風呂焚きへと続く・・。

          
 夜は中高年男3人,薪で焚いた風呂で冷えた体を温めた後、熱々のキリタンポ鍋をつつきながらの大放談。いつしかそれがイビキに変わり、そのまま豆タン行火のコタツに足をつっこんでのごろ寝となるる。
雪の割にはと言うか雪だからと言うかちっとも寒くない戸狩・柄山の夜。ただ、朝になって車のドアが凍りついて開かないのではないかと言う一抹の不安のみあり。
 

知床

2009-01-13 17:25:08 | 獲れたて瀬戸内・わし&岳じゃが情報
国後島から昇る朝日

年末年始の休みを利用して北海道へ。
羅臼岳
向かったのは世界遺産知床。知床は知床峠を境にオホーツク海側のウトロ町と太平洋側の羅臼町に分かれとるが今回向かったんは羅臼の方。流氷にもまだ早いこの時期、観光なるものははっきり言って何もない。ただ美味いもんを食いたいということのみで札幌から一日かけてやってきた。
札幌から釧路までは特急で約3時間半、釧路からバスに乗り換えて約4時間、午後5時に羅臼に到着。事前に予約しておいた漁師が営んどる宿で、その日の朝水揚げされたばかりの蟹や魚を頂く。
もちろん、食材は羅臼産
この日(12/29)は漁の最終日、そして宿泊客も2組ということで食事もいつもよりも豪華とのこと。
羅臼から国後までは直線で約28km
この日、もう1組宿泊しとったのは北海道大学の生徒3人。「トド」の生態系について研究をしとってここに一週間滞在するらしい。
この時期夜行性のトドは夜活発に行動して沖まで出て、昼間は岸の近くまで来て休んでいる。この日も約50頭のトドを見たとのこと。「運がよければ」見れるということじゃったが今回の旅では結局みれんかった。




久々に緑

2009-01-09 11:17:50 | あまってら農園

 草に埋もれたホレンソとルッコラ。08・10・16播種
          
 ハウス内は真冬でも乾燥するので潅水しないと萎れてしまう。なので1週間に一度くらいは水遣りに行く。だが水ダメの水はカチンカチンに凍ってどうなるものでもないのを忘れていた。やむなく水を汲みに走る・・。その水汲み用のポリタンも地面に凍りついていて無理に剥がすと壊れそうだ。
 
 ハウス内ではホウレンソウとルッコラが相変わらずしっかり草に埋もれながらゆっくり育っていて、ホウレンソウはいつでも収穫可能だ。採るのをためらうほどにほど緑が濃く、それが愛おしい。まもなく播種から3ヶ月。
          
 08・11・10播種のコマツナと同じ苗の08・11・30の写真。播種から2ヶ月,前回から40日でやっとここまで育った。



 同じく08・11・10播種のナバナとホウレンソウ
           11・10播種

 
 ナバナの蕾は瑞々しいが、
     
       露地のアカバナミツマタの蕾はまだまだ固く
          
            アルプスは今日も雪景色

中条村役場

2009-01-07 16:36:51 | 安曇野
 
 元日登山の際,聖山に登ろうとして虫倉山の登山口にピッケルを置き忘れて帰ったことに気づき、やむなくピッケルなしで登った。探しに戻ろうにも前夜から一睡もせずに登った後で、運転できる状態ではなかったし、半日以上過ぎた時点ではもはやそこにあるとは思えなかったのでその段階で半ば諦めた。

 アンチストック派で夏山では決して手に何も持たないのが信条だが、雪道はちょっとした山でもピッケルがないと不安定でいけないし、10日からの鍋倉山の偵察のことを考えれば買うかどうにかしなくてはならない。
 買う前にせめて地元の駐在には届けておこうと思い、また山頂にいた人が地元の人だったので名前でも分かれば,と思ってダメ元で役場に相談してみた。

          
 電話に出た役場の職員女史が『役場にも山に登る者がいるので聴いてみましょう』と気軽に言ってくれたのが9時前。それから3時間もしないお昼前に件のピッケルが見つかったと言う知らせを受けてびっくりした。
 失せものが見つかったのだから喜ばしいことなのだが、『見つかりましたよ』『〇〇課の者が現場まで行ったところあったそうです』と言われるのを聴いた瞬間,『何てことしたんだろう』と血の気が引くのを感じた。

 本当に必要な大切なものなら、見つかろうが見つかるまいがまず探しに行くのが筋である。それを、八方手を尽くした最後の手立てとしてならまだしも、自分は何もせずに電話で他人を動かして探させ、見つかったから受け取りに行くとは何様のすることであろうか・・,と、嬉しいはずが逆に気が滅入る。
 受け取りに行くのは気が重かったが、電話で応対してくれた女史も現場まで行ってくれた職員氏も、さらにはその場にいた他の職員諸氏までもがにこやかに『見つかってよかったですネ』と言ってくれ、それが決して表面的な物言いでないことがよくわかって益々恐縮した次第。2度と繰り返すまじ!
 
 帰路は久々にオリンピック道路を小川村まで走り、美麻から唐花見湿原の傍を通って大峰高原経由で池田町に下るビューコースを取ったが、この日は雲が重くアルプスの銀嶺も聖山のアンテナ群も望めなかった。