遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

ガッテン式体重管理・3(0801・3・0131)

2008-01-31 18:26:28 | 暮らし
  Aさんの第1~第3週(1月第1~第3週)

 第3週を終えたAさんの体重のデーターが送られて来た。グラフを見ると中半に激変があったらしい。27日から体重が下がり始めて翌28日には目標値に対して+1.0を切り、さらにその翌日29日には夜の体重が朝より下がって+0.5に、そして30日には+0.1にまで落ち込んでいる。
 Aさんの第週目(1月第3週)

 書き込みを見て事情を聞くと、職場の施設で風邪が流行っていてその対策に追われて不眠不休となり、遂には自分も風邪にかかって食欲がなくろくに食べていないと言うことらしい。つまりこれは異常事態であるから喜べることではなく、当面は体力の回復に努めるべきである。幸い、30日の夜からは食べられるようになり、元に戻りつつある。
 本人は一気に落としたいと言う意識が強くて第2週から第3週前半の推移が気に入らないらしいが、はじめの頃にどんどんと下がった反動かもしれないので気長に構えるように伝えた。

 木偶の第1~第3週(1月第1~第3週)
 Bのグラフ(木偶)はゆっくり下がる傾向が続いているが、この10日間に3つばかり特徴的なことがあった。
1)20日は真冬日の寒い日だった。善光寺街道ウォークの日だったので早朝6時台にしっかり食べて出て、昼も土方弁当でたっぷり食べたが夕方には腹が減っていた。しかし夜はほどほどにした。昼間しっかり食べても消費しているのが分かる。
2)その翌日からは家にこもって書き物をしていたので朝と昼は普通に食べて夜を控えめにするという流れに沿った食べ方をしていたのだが、23日,24日と午前中,空腹に襲われて体が震えると言う『ガス欠』状態が起こった。
 多分,自分では普通に食べているつもりでも無意識に抑制が働いているのではないかと思うが、頭を使う時にも糖分は必要だと言うことかも知れないし、本当のガス欠ではなくて、体が『抑制』に対して反抗して『飢餓感』を演出しているのかもしれないとも思った。つまり大脳による『抑制』と生命維持装置の飢餓に対する『警戒』との葛藤ではないかと・・。糖分でなく沢庵をポリポリ食べてみたらとりあえず空腹感と震えが収まったところを見ると本当のガス欠とは思えない。

  木偶の第3週目(1月第3週)

3)26日に雪山の偵察で王ヶ頭コースの下から3分の2の辺りまで登り,翌27日には王ヶ頭・王ヶ鼻に登って台上を縦断し、百曲りから下る全長10kmの雪山ハイキングを行った。両日ともしっかり食べたが体重は下がっていたのでよく食べてよく動いたことに気をよくしていたと思う。この傾向は翌日,翌々日も続いて30日には目標に対して+1.2と、これまでの最低ラインに到達した。
 この急激な下降の時に空腹感,飢餓感があったかというとまったくなかったし、特に押さえたという意識もない。そこが分からなくて面白いところだ。また怖いところかもしれない。
 尤も30日の夜にはちゃんと取り戻していて、しかも31日の朝は第2週目からのゆっくりした下降の範囲内をキープしている。
 以上はもちろん素人考えだが、体(私ではなく)というものは賢いものだと思う。
   
 訂正 前回,1日の始めと終わりの体重の幅の大きさが、その日に食べた量と消費・排出した量の差であるかのような書き方をしたのは間違いで、自分のように2時に寝て6時に起きる場合は当然幅が小さくなる。それを知るためには食後と食前,および就寝前後のデータを比較しなければならない。
    

学びつつ歩く歴史の道,村井宿(2)

2008-01-31 12:11:23 | 境界線・新境界線
 ここまで
          山村家 
 本陣を過ぎると街道は斜上して一旦国道19号線に合流し、松本市平田から再び市街地を通って松本宿へと向かう。今回はその街道が斜めに折れる地点までとして全員で記念撮影の後,平田駅まで歩いて帰ると言う2人の参加者を見送って本隊は村井駅へ向かう。
 
 ぶり場
         市神様 
 街道からはずれて駅に戻る途中の共同墓地付近にある『ぶり(鰤)場』。かつては交通の要衝であり、市場の跡とも伝えられるぶり場には、能登の鰤が飛騨を経て運ばれ、明治中ごろまでは市が開かれてて『市神様』も祭られていたと言う。

 ぶり場から篠ノ井線を渡って小屋地区にまわれば、小屋の道祖神,龍泉寺の五百羅漢,都波岐神社,四ヶ村用水の四ヶ堰,平田学校跡等々の見所が集中していて興味は尽きないところだが、今回はそこまでの時間がなく、篠ノ井線の線路に沿ってゆっくり歩き、16:00の電車に乗るには充分な時間を残して村井駅に着く。

            
 Tさんは電車が来るまでおつき合い下さり、最後まで背筋をピッと伸ばしで私達を見送って下さった。その地域をよく知る地元の方に勝る案内はなく、最適の方の案内を頂いて多くのことを学ぶことが出来、感謝にたえない。
                                 終わり

山行記録~王ヶ鼻・王ヶ頭・・・2008年1月27日(日)

2008-01-29 00:48:40 | 境界線・新境界線
 目標点・王ヶ頭
     カラマツ林を行く 

 ハンドルを握る手が冷たくしびれて痛い。無風快晴,朝の気温は前日,前々日からさらに下がって-14℃。 
 三城牧場の登山口を7:40出発,はじめからアイゼンを履いて歩き始める。10分でカラマツの樹林帯に入り、小刻みに先頭を交代しながらゆっくり登る。風がないので20分歩けば厚着をしている人は1枚脱ぐことになる。
 8:22林道着。オーバーヤッケをザックにしまい込む。同37,林道終点の第1標識から登山道に入る。傾斜がきつくなるが、5分で2つ目の指導標を見てさらにひと登りでキツツキの館に着く。意外なことに戸は自由に開けて入ることが出来、中もきれいに片づいていて現役の小屋らしかった。
 キツツキの館で
 ひと休み

 9:00出発。シラビソの林を左にトラバースし、前日の到達点よりやや上部の1800mを越えた辺りで小休止して乗鞍,御岳,中・南ア方面の展望を楽しむ。
            鹿か・・?         
          展望を楽しむ 

 そこから今度は逆に右に斜上する長い直線を登って石切り場からの道を合わせる。樹高がどんどん縮んで50cmにも満たない苗木のようなカラマツが現れようになると、そこは王ヶ頭のアンテナ群の直下である。
 10:07,王ヶ頭のすぐ下で王ヶ鼻に向かうトレースを追って左折,10分で林道に出る。林道は王ヶ鼻のアンテナまで伸びており、そこから200mの散策路を辿って10:41,王ヶ鼻に着く。
 王ヶ鼻にて
 三城を見下ろす 

 王ヶ鼻は美ヶ原の台上から松本平に向けて、まさに鼻のように突き出た小ピークで、北アルプスを望む絶好の展望台になっている。王ヶ頭ホテルが松本市内から送迎バスで客を運んでくれるので冬でも訪れる人が多いが、歩いて登ってくる登山者は十指に満たないものと思われる。
 風がなく天気がいいので展望を楽しみながら弁当を食べ、11:15発,王ヶ頭に向かう。11:40王ヶ頭着。写真を撮ってすぐに塩くれ場に向かう。
          大門沢の頭を  
          台上から見る 

 広大な原には柵に囲まれた遊歩道が延々と伸びていて、はるか先に塩くれ場の看板とトイレがぽつんと見えており、美しの塔さらにその先である。夏場は入ることの出来ない美ヶ原牧場の柵の中にもスノーシューやスキーで歩いた跡があり、また何人かの人達が歩いている姿も見られる。
          陽光眩しく 
      浅間山(1月5日)  

 正午を過ぎて浅間山や志賀高原から妙高・日本海方面の山に雲がかかり始めたが、行く手の正面から照りつける太陽は眩しく熱いほどで、氷点下と言えども歩いている限り寒さは感じられない。
 12:20,塩くれ場手前の倉庫で休憩の後、柵を越えてショートカットし百曲コースに入る。12:37茶臼山分岐,同46,百曲『広木場へ1.0km』の指導標通過。ここから細かいジグザグを繰り返しながらどんどんと下る。南西方向に下るので陽光をまともに浴びて額が暑く、雪面の照り返しが目に痛い。
 13:16広木場着。指導標から30分で降りた。『水神の森・広木場園』は美ヶ原県民の森キャンプ場の一番奥に当たり、茶臼山から下って来る道との出合いでもある。
 水神の森


 13:30発。小さな沢沿いの道を急ぎ足で下る途中,ふいにパラパラッと音がしてカラ類の巡回に囲まれる。現れたのはシジュウカラ,エナガ,ヒガラ,ハシブトガラ等,中でもエナガのしぐさが愛らしくしばらくはせわしなく動きまわる姿に見とれる。
 13:47登山口着,アイゼンを外すと幾分靴の締めつけが和らぐ。王ヶ頭コースの登山口へは車道を歩いて20分で14:10着。
 百曲り登山口
          ヤドリギ     

目的地:美ヶ原,王ヶ頭・王ヶ鼻
コース:三城牧場⇒王ヶ頭コース⇒王ヶ鼻⇒王ヶ頭⇒塩くれ場⇒百曲りコース⇒広木場⇒三城牧場 
参加者:土岐,谷地,古志郎,木偶
コースタイム:6:20スワンガーデン6:30⇒7:20三城牧場7:40⇒8:22林道8:26⇒8:37堰堤第1標識(通過)⇒8:42第2標識(通過)⇒8:50キツツキ館9:00⇒9:28『1800m地点』9:33⇒9:47石切コース分岐(通過)⇒10:07王ヶ頭直下(左折)⇒10:17林道⇒10:41王ヶ鼻・昼食11:15⇒11:40王ヶ頭11:46⇒12:20塩くれ場倉庫11:25⇒(ショートカット)⇒12:37茶臼山分岐⇒12:46百曲りコース指導標(広木場へ1.0km)⇒13:16広木場13:30⇒13:47登山口13:50⇒14:10三城牧場14:30⇒浅間温泉・みやま荘・入浴後スワンガーデンへ
 

初体験~無風・快晴・大展望の美ヶ原へ・・・雪山へのアプローチ

2008-01-27 20:00:37 | 境界線・新境界線
 
 雪山へのアプローチ・・・,雪山3年目の土岐さん,初体験の谷地さん,古志郎さん,美ヶ原,王ヶ鼻に見事登頂!
 朝から快晴,山頂は無風,360度の大展望に大満足。

 この日は富士山が大きかった
      乗鞍岳&松本平 

 土岐さんは2006年元日の茶臼山(2006m)が初体験で、その年3月に夫君と一緒に八ヶ岳東天狗岳に登った。去年は夫婦で黒百合辺りまで写真を撮りに行ったらしい。
 谷地さん,古志郎さんは昨年初めてスノーシューを体験。今年の元日にはちょっとだけ雪のある虚空蔵山に登り、今回,初めて雪の美ヶ原に到達した。
 
 この朝,安曇野は-14℃。そんな寒い日が3日続いたがその間晴れっぱなしで、この日は抜けるような青空だった。
  
 それでも歩き始めるとじきに暑くなってくる。台上は強い風が予想されるので、体熱を逃がしながら汗をかかないようゆっくり登る。王ヶ頭の直下で左折し、車道に出て先に王ヶ鼻に向かう。10:41登頂。

 王ヶ頭にて
 王ヶ頭石仏群  

          南アルプス    
 北アルプス 
 美ヶ原は北アルプスの銀嶺を望む最前線。その中でも王ヶ鼻は松本平に向けて鼻のように突き出した絶好の展望台だ。
 王ヶ頭ホテルが松本から送迎バスを走らせているので、沢山の観光客が2000mからの大展望を求めて上がって来る。散策する人,写真を摂る人,スノーシューの人,スキーで歩く人,ソリで遊ぶ子ども・・・,等々

 
 果てしなく遠いように見える台上の雪原をこれから横切って塩くれ場に向かう。前方には八ヶ岳
 終日晴れて暑いほどだった。塩くれ場から百曲りを下るコースは西向きで、額に太陽の直射を浴びながら下ると日焼け・雪焼けしていた。
 『よかった!』,『大満足!』 を連発して山行を終える。

 『降り来てまたなつかしく 見上げたり 我を呼ぶごとし ・・・』 吉井勇
 
 
 このコースは入門コースとして最適であることが分かった。次は東天狗岳へとジャンプ!

             

偵察

2008-01-26 19:13:52 | 山行
 王ヶ頭アンテナ群
 堰堤から台上を望む 
 
 新雪が降ったので、明日の美ヶ原,王ヶ頭・王ヶ鼻雪山ハイキングに向けて雪の状態の偵察に行って来た。
 13:18発。前回(1月5日)と同じコースで、積雪は元の雪の上に30cmほど新雪が降り積もっており、踏み跡は見られないがラッセルと言うほどではない。
 大門沢沿いの道からすぐにカラマツの樹林帯に入る。この樹林帯の道は意外と長くて林道に突き当たるまでに30分もかかったが、前回はその記憶がない。
 暑くなり、オーバーヤッケ,オーバー手袋を脱ぐ。(13:48着,同53発)
 キツネ?
    鉢伏山を望む 

 林道に出て右折し、キツネの足跡を追うように歩いて10分で大門沢の堰堤に着く。そこが林道の終点で『王ヶ頭⇒』の標識があり、そこから山道に入る(14:10)が、5分歩くともう1つ標識が現れそこからが岩混じりの山道となる(14:15)。
  
 岩場に入って少し雪が多くなり、時々滑って足スカを食うようになる。14:20,キツツキの館(廃小屋)に着き、ここで昼食。
 食後アイゼンをつけて14:55出発。タイムリミットを15:30として行けるところまで行くことにする。

              

 キツツキの館のすぐ上に『王ヶ頭まで1.6km』の標識があり、そこからはシラビソの樹林帯となって道は1800mの等高線に沿って左へ左へと巻いて行き大きな崩落跡に突き当たってそこからジグザグを切って登って行く。

            
 ここまで来る山頂は近く、王ヶ頭のアンテナが間近に見え、また南アルプスの甲斐駒,仙丈岳や中央アルプスの木曽駒ヶ岳も遠望できるようになる。
 

             
 15:25となり、引き返そうと立ち止まった時に上から2人の男性がスノーシューで降りてきたので樹林帯からの上の雪の様子を聞き、そこで下見を打ち切って下山する。
 15:28発,15:38小屋通過,15:45林道へ。15:56カラマツ林,16:13下山。

学びつつ歩く歴史の道,村井宿①

2008-01-25 15:53:30 | 境界線・新境界線
 若山喜志子歌碑
 『四ヶ村せんげ きょうも流れているづらか みなみ長者原屋敷は 夢のまた夢』
 村井宿高札場

 Tさんは県と市の文化財保護協議会等に属され、また地元芳川の史談会と言う歴史愛好家の集まりの会長さんでもあって村井宿の隅から隅までを熟知しておられる方で背筋がピンと伸びた矍鑠たる御年84才。
 村井学校跡から高札場跡,神明宮と案内して頂板後、脇本陣で問屋でもあった山村家を訪ねる。
 
 宿の本屋敷と言われる家屋は間口は6間ほどだが、奥行きはどこまでも長く20~30間(36~54m)もあるのが宿の特徴である。
 この細長い小路に沿った長い土塀(右手)は、脇本陣で問屋でもあった山村家で、現在は山村小児科医院となっている。当主の山村泰彦氏は短歌誌『朝霧』の主宰で、大きな庭の一画には稲荷明神と氏の歌碑がある。

 長い小路を通り抜けて突き当りを左折すると小路を挟んだ右が常照寺で、左側に明治天皇の御小休所がある。現在は蝶ヶ岳ヒュッテと大滝山荘を経営する方の居所・連絡事務所となっている。
 街道に戻ると本陣の前に出る。建物は元のままの大きな屋敷だが居者は本陣とは無縁。                               続く

          

40kg,雪山ボッカ体験不発!

2008-01-25 13:08:46 | 森のくらしの郷&ぐるったネット
  
 40kgの機材をどうやって運ぶか・・,背負子に乗せて2人で交代で運ぶしかあるまいと言う相談をして帰途に就いたが、その後,トモさんから連絡があって現地へのは機材運びはなくなり、技術者を案内するだけに変更になったとかでお役ごめんとなる。
 かくして40kgの雪山ボッカ体験は不発に終わった。35kgまでなら経験はあるが、それは20代の頃の話しで、それより5kgも重く分割できない1個の荷を背負ってあの斜面を登れるかどうか・・,何としてもやってみたかった・・。残念!
 またの機会を待つ。

突然のラッセル

2008-01-24 21:22:24 | 山行

 昼前に森くら支配人のトモさんから『小熊山の南の1079mピークにあるアンテナまで、重さ40kgの機材を運ぶ仕事が入ったんだけど、とりあえずルート工作をしたいので手伝って』くれないかと言う電話が入り、急遽大町へ走った。
小熊山アンテナ 小熊山アンテナ
 赤ピンの先がアンテナのある1079mのピーク。地図下方の、道が逆V字になっている所からすぐ右手の尾根に這い上がって直登する。

 アンテナまでは北側から林道が通じていて、そこをスノーモビルで運んで欲しいと言う要請だったのだが、この道は急斜面を削ってつけられた道で上の斜面から雪が落ちてくる恐れがある。そこで、傾斜が緩くて距離の短いルートを地図上で探し、南側の尾根を検討した。
 ルートは標高差250m余りで距離は約1.5km。積雪は60~70cm程度で、昨夜から降り積もった新雪が30cm余りあるが、全体が小潅木ないし植樹林の緩やかな尾根なので雪崩れの心配がなく、ラッセルもたいしたことはなさそうなので身支度して14:40出発となる。


 トモさんはワカンを履いて谷を詰めてから尾根に上がり、自分はすぐに右手の尾根に向かう。面倒なのと取りつきが急斜面なのとでつぼ足で登る。この尾根は南面が禿げているのが下からよく見える場所で、トモさんによると絶好の撮影ポイントだとのこと。
 いきなりの急登となる。新雪の下に少し凍った雪が30cmほどありその下の落ち葉混じりの地面が凍っているので、蹴りこめず滑る。40kgを背負って登るならアイゼンがいる。ピッケルを両手で眼前の斜面に突き立てて体を引っ張り上げる。
 一気に100mほど上がって崖の上に出たが、絶景と言われても覗き込む気はしないところだ。
 幾分緩くなった斜面を小潅木を分けて更に登り、15:20に谷を詰めて上がって来たトモさんと合流。

 そこからは緩やかな尾根を高みを目指して進むだけの分かりやすい登りとなるが薮がうるさく、『雪山で薮漕ぎするとは思わなかった』等と軽口をたたきながら進む。
 尾根上は40~50cmのラッセルとなり、20分で電波反射板を発見するも周りに目指すアンテナ群が見当たらず更に前進。すでに16:00をまわっていたのでリミットを16:30と決める。
 相変わらず潅木を掻き分けながらのだらだらした登りが膝上までのラッセルとなり、息が切れて時計も気になり始めた頃、5本のアンテナのある目的の場所に到達(16:20)。
 明るいうちにとすぐに引き返す。


 16:25発。トレースをしっかりしたものにするため同じ道を戻る。15分で反射板を通過。16:50,合流点からトモさんが登ってきた尾根を下る。こちらの斜面は雪が滑りやすく、何度も転んで尾骶骨をしたたか打ったりしながら最後は尻セードで谷に滑り降りる。17:05下山。


 突然降って沸いたような薮山のラッセルで汗をかき、久々にいい気分だ。
 

善光寺街道ウォーク,第1行程~郷原宿・村井宿

2008-01-23 14:50:50 | 境界線・新境界線
 郷原宿へ
島木赤彦下宿跡 

 分去れの常夜灯から中原の一里塚跡を経て郷原の入り口に当たるコンビニで小休止し、11:35に郷原宿の桔梗山郷福寺に着く。この間5.3kmを1時間10分で歩く。途中の信号に取りつけられた温度計は-4℃で、その後も上がった感じはなく、この日は終日零度以下の真冬日だったと思われる。
 境内を借りて弁当を食べたが、寒いので早々に出発。郷原宿も見所は多いが、事前調査が出来なかったのでここは素通りして12:50に短歌館に着く。

 短歌館はコンサートのある日で、床暖房の効いた部屋でくつろぎながら暖かい甘酒とお茶を頂くことができると言う常にはない趣向になっており、そこで人心地を取り戻してからゆっくり館内を見学する。子どもが無料と言うのが嬉しい。

 
            
 13:30発,次の村井宿までは約3kmを歩いて14:15に合流。案内して頂くことになっているTさんは寒空の下,R19の広丘との境で、温かいコーヒーと煎餅を用意して待って下さっていて、開口一番『街道を歩きに来る人は沢山いるが、この時期に歩くのはあんた方が初めてだ』と言われた。まったくだ・・。

ガッテン式体重管理・2(0801・2・0123)

2008-01-23 11:14:52 | 暮らし
 Aさんの第1~第2週(1月第1週~第2週)
        
 体重管理を再開したきっかけは『メタボが気になるので落としたい』と言う山仲間のAさんに勧めたことで、記録表(グラフ)をつくったついでに自分もつき合うことにした。そのAさんから時々送られてくるデーターを書き込んだのが上のグラフ。下は自分のその後。
 これを見るとAさんのグラフは着実に右肩下がりになっているのが分かるが、始めの1週間はちょっと張り切りすぎている感じがする。言い訳け欄には、18,19日と2日連続で新年会があったと書かれており、18日にはグンと上がっているが、19日には意識的に抑制して元に戻しているように思われる。
 全体として薄いオレンジのゾーンからブルーのゾーンに入って来ているのと、1日の中の増減の幅が小さくなってきているのがわかるが、Bのグラフと比べるとちょっとペースが速すぎるのと、押さえすぎている感じがするのが気になる。 やり方が分かってきたのだと思うが、まだ気負いが感じられる。下げよう下げようと思わなくても、特別のことがない限り、大きくは上がらなくなっていることを評価すべきなのだ。

 木偶の第1~第2週(1月第1週~第2週)
 一方のBのグラフをどう見るか・・。11日の+4.0,12日の+3.2は放任時代の名残りで、こちらもグラフをつけ始めた途端に抑制が効き始めて3日目以降,上が+3を越えなくなっている。その後の推移を横ばいと見るか、下がっていると見るか、分かれるかもしれないが、非常にゆっくりしたペースで下がっていると自分に都合よく解釈するのが正しい。なぜなら,そう思うことで大脳が喜んで傾向に拍車がかかるからだ。
 さらに都合よく解釈するなら、自分の場合は3日目ですでに流れをつくることに成功していると言える。なのでこのまま監視を続ければ1年後には確実に3kg以上は落せるはずだ。一度経験しているからそう言えるのだが、そう思うと記録を取るのが面倒になると言う悪い癖が出そう・・。まあしかし、せっかくの流れを無駄にしないよう,当分は監視を続けてみようと思う。
 今,自分が心がけていることは『上を大きく突出させない』ことであって、『下をもっと下げたい』とは思っていないと言えば嘘になるが、そのうちポンと下がる時が来ると信じているのであまり気にしていない。
 欲を言うと一日の中の揺れ幅をもう少し大きくしながら全体として下がってくれると嬉しい。つまり沢山食べて沢山消費,または排出すると言うことだ。
 と言うことで、しっかり食べてしっかり動かなくてハッ!
 
 幸いなことに大雪となったのでせっせと雪掻き。

 

ガッテン式体重管理あれこれ・2

2008-01-23 01:11:20 | 暮らし
 唐花見湿原
 たまたま郷里に帰っていたある日,広島での所属山岳会の仲間達と宮島の弥山と言う500mそこそこの山に登ることになり、普段通りに食事をして登り始めたのだが、山頂のはるか手前で突然動けなくなった・・,と言うことがあった。
 はじめは、まだ腹が減る時間でもないのに妙に腹に力が入らないなぁという感じがして、やがて急速に全身の力が抜け、次にガクガクと体が震えて遂には立っていることさえ出来なくなる・・,それはガソリンの切れた車が突然,まったく動かなくなってしまうのと同じ、明らかにガス欠と思われた。
 (低血糖と言うのかな・・?)

 とりあえずは周りにいた人に飴玉をもらってその場を凌いだが、朝食は普段通りに摂ったし、山は何度も登ったことのある低山なのに『何で・・?』と不思議でならなかった。
 多分それは『普段通り』に食べたつもりの『普段通り』は減量モードの中の普段通りであって、登山をするのに必要なカロリーを摂れていなかったと言うことで、つまりその日は『普段以上』でなくてはならなかったと言うことなのだろうと思う。
 逆に言えば例え低山であっても登山と言う活動は相当ハードな運動だと言うことだ。軽い日帰りのハイキングでもその消費エネルギー量はフルマラソンに匹敵すると言うが、それは本当かもしれない。


 2年近く体重の監視を続けて右肩下がりのグラフに魅入られた大脳は、日常生活には支障ない程度に着実に食欲をコントロールしてくれていたようだが、しかしその抑制は、わずか500mほどの山に登ることも出来ない程厳しいものでもあったと言うことなのだろうか・・? 学者ではないからそれ以上のことは分からないが、このことがあってからそれ以上体重に気を遣うことをやめた。
 その時点ですでに-7kgに達していて、それでも一般的に言われる標準体重より多かったが、それ以上の減量は必要ないと思ったのだ。
 こんな風に管理できるようになってくると、下げたいと願えば下がるし、横ばいでいいと思えば横ばいが続くようになる。ベストと思った値で横ばいが続くように監視するのが理想だが、そうなると記録を取るのも面倒になってそれもやめた。


 その2年の間にリバウンドがあったかと言われるとそれは何とも言えない。そもそも節食していると思うほど節食している訳ではなく、食べたいものを食べ、時には大食したり脂っこいものも食べたりしながら、グラフが下がっていくのを面白がっていただけなのでストレスはない。
 しかし、2年かけて下がった体重は、放任すれば2年かかって元に戻るのも事実で、それをリバウンドと言うならあると言うことになる。尤もそれは全然管理していなかった時の状態に戻っただけのことだ。
                                   続く

学びつつ歩く歴史の道,洗馬宿(4)・・・,

2008-01-22 17:22:47 | 境界線・新境界線
 道標
 街道と県道の分岐点には写真のような道標がある。道が2分していて『右中山道』となっているが、これは真の分岐点ではなく、短絡線(右に見えている道路)をつくった時に、道標を街道の分岐点からここへ移動したもの。本来の中山道と善光寺街道の分岐点はもう少し先にあって常夜灯が置かれている。

 分去れの常夜灯
 街道の分岐点を分去れ(わかされ)と言い、ここは中山道と善光寺西街道(北国脇往還)との分岐点に当たる。
 中山道と善光寺街道の分去れは2つあって、こちらは西の分去れ。もう一つは北国街道(善光寺街道)との分岐点に当たる『追分の分去れ』(R18)で、そちらにも立派な常夜灯がある。 


  
 中山道は右に分岐して坂道を登り塩尻宿へと向かう。その小さな坂道を上がりきったところにかつて『肘懸松』と言う銘木があった。
 細川幽斎が木曽路を通行したときに『肘懸けて しばし憩える松陰に たもと涼しく通う川風』と詠んだと伝えられ、また、2代将軍徳川秀忠上洛の際,肘を懸けて休んだために『肘松』と呼ばれるようになったとも伝えられる赤松は、昭和14年に枯死寸前となり伐採された。現在ある黒松は無縁。


 興味深い話しを聞きながら楽しくゆったり歩いて1時間半。洗馬宿はここで終わり、案内をして下さった歴史同好会のお二人とともに記念撮影をして暇を乞い、次に向かう。
 丁寧に案内して頂いたので予定より30分の遅れとなったが、次の郷原宿までは単調な1本道であり、また天気はいいのだが気温が一向に上がらない寒い日なので、ひたすら歩くしかなく、休憩点の郷原のコンビ二に着くまでに30分の遅れを一気に取り戻すことができた。

 

学びつつ歩く歴史の道,洗馬宿(3)・・・,あふたの清水

2008-01-21 22:31:19 | 境界線・新境界線
 広重の絵
 あふたの清水からの風景 

 『洗馬』の図は広重の中山道六十九次の中でも最高傑作とも言われる。その絵を描いた場所ではないかと言う人もある『あふたの清水』だが、絵と実際の風景の間につじつまの合わない点があって異論もあるらしい。
 右の写真は北北東方向の風景で、遠景に鹿島槍,爺ヶ岳が望まれる。たしかにいい景色ではあるが、問題は描かれている月の位置で、この方向から月が上がって来ることはあり得ないらしい。
 しかし、広重は画家であるからこの位置から望む風景に月を配したとしてもおかしくはないとも言える。月の位置よりも川幅が絵よりも狭いことの方が気になる。
 Nさんによると、絶景と言う点ではここよりも更にそれらしい雰囲気で望める場所があると言う。それが下の写真で、前の写真とほぼ同じ場所を南側から望んでいるので方向は北北西~北西となり月とは更に縁遠くなるが、景観は素晴らしい。左端の森の前の崖があふたの清水。

 
 あふたの清水は太田の清水とも邂逅の清水とも書く。『邂逅』としたのは、木曽義仲挙兵の際,木曽から出てきた義仲と今井から出てきた今井兼平主従がこの場所で邂逅したと言う伝聞によるものであるが、Uさんはこのような辺鄙な場所で会うと言うのは説得力に欠けるのではないかと言う。
 ※太田は地名

 また、この時,兼平が義仲の疲れた馬を洗うとたちまち元気を取り戻したと言うところから『洗馬』と言うようになったと言われる。
 ところが、平安時代中期の藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』の長和3(1014)年の記事に、『洗馬の牧』の牧司忠明朝臣が駒,牛などを貢物として納めたことが出てくる。この洗馬の牧は朝日村と芦ノ田、小曽部等にあった牧場と言われている。
 木曾義仲,兼平主従が邂逅したのは治承4(1180)年なので、それより200年も前にすでに『洗馬』の名が出ているのである。
 一説には、谷の入り口などで奥にかけて狭まっていく地形(狭間、狭場)に由来するのではという考えもあり、自分としては『狭まる』⇒『せば』が直截で分かりやすい気がする。





学びつつ歩く歴史の道,洗馬宿(2)・・・,歴史同好会の人々

2008-01-21 14:39:40 | 境界線・新境界線

  脇本陣の隣にある貫目改所跡。この宿に置かれた荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、中山道では板橋宿と追分宿とここの3ヶ所に設けられたとあり、伝馬役に加重な負担がかからないようにするために規定を超えた荷物には割り増し金を課したのだそうだ。

 歴史同好会の人達は、数少ない資料を手がかりに歴史的な出来事や伝聞の痕跡を丹念に調べて検証,検討し、あるいは埋もれた地域の歴史を掘り起こして、未解明な部分や疑問点について、生活者としての感覚で考証を加えるなどして、歴史の真実を探ろうとしている人達でであるように見受けられる。
 学者や研究者が100回通ったとしても、毎日そこで生活している人の感覚には到底及ばないのが道理で、史実とされる歴史的なできごとや伝聞等をただ表面的になぞるのでなく、同好会の方達の案内によって、そこに生活する人ならではの解釈・解説に導かれながら辿ることが出来たのは何よりの収穫であった。

 『同好会』と言う名称が示すように、それによって何かの事業を起こしたり、直接町起こしに結びつけようと言うのではなく、ただ単にそれが楽しくてやっている人達なのだと思う。
 郷土への誇りや愛着と言うものはこのような活動を通して培われるものではないだろうか・・。

 洗馬学校跡地の碑
  洗馬学校見取り図