遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

第1行程前半の記録⑤

2007-06-18 07:49:43 | 踏み跡
  10分休んで列を整え林道歩きを開始。曲がりくねった林道を10分歩いた所で前日調べておいた山道に入ったが、半数はそのまま林道を歩き、14:40に3人姉弟のお母さんが待っておられる分岐点に着く。林道組がなかなかやってこないので声をかけるとキクラゲを見つけて採っていると言う。この辺りには桑の木が多く、今がキクラゲの盛期のようで、袋をいっぱいにしている子どももいた。2年生の男児はここでリタイア。
  14:50,林道が尾根を避けて大きく左に屈曲する辺りから林道と別れて山道に入る。山道に入って100mほどで境界線にぶつかった後、南東にむかって松林の中を進む。この一帯は松茸山で、いたるところに『入山禁止』『松茸止山』の張り紙があり、今は薮が被って歩く人もないがシーズン中ならとても入れない所である。
  15分歩いて大きな松の倒木を越えるとそこに松茸の作業小屋があり、そこで後続のオカリナの集団を待つ。そこからは鉄条網の松茸山にそって南に進み,分岐点を右折して広い手入れの行き届いた松茸山の中を遠慮しながら下り、もう一つの小屋の横を通り抜けるとすぐに葬祭センターへの道に出る。
  先頭が15:30着。10分後に全員到着し、駐車場に集まって記念撮影。次回の再会を約して15:50,解散する。
  
  所要時間;5時間40分。実働時間;4時間20分。参加(徒歩)20名中,完踏者19名。  終わり
 
※お断り:この記録は,03年6月11日~14日の調査山行と同じコースを19名の参加者と一緒に歩いた記録なので記述の大半は重複する。
  



第1行程前半の記録④

2007-06-17 07:49:07 | 踏み跡
  13:40,沼に到達。沼畔のか細い鹿道を慎重に越えるとほどなく,明らかに人が歩いた踏み跡があり、放棄された田んぼ,次いで稲が植えられた田んぼが現れると、そこからは先の道は草が刈られて歩きやすくなる。
  それまでまっすぐ東に向かっていた沢はここで大きく北に向きを変えるが、境界線はそのまま一直線に東に伸びているので道は境界線を外れることになる。そこで沢の向う側に渡って斜面をよじ登り、南に向かってしゃにむに進めば間違いなくその先の山道に出られるはずである。が、今回はそのルートの探査が果たせなかったのでここからは沢筋の道を辿り、十二沢林道を使って迂回せざるを得なかった。
  沢からの出口付近で草を刈っている一団の人達に『迷いなすったかね?』と声をかけられる。どこから来たのかと訝られても不思議ではないが、『ご苦労様』と笑って声をかけてくれる人もいた。
  14:10,十二沢林道に出て休憩。ここまで一番心配だった小学2年生の男児がトップでついてきたし、はじめにバテかけた中学生達もその後は元気に歩いてきた。

※お断り:この記録は,03年6月11日~14日の調査山行と同じコースを19名の参加者と一緒に歩いた記録なので記述の大半は重複する。
  
  

第1行程前半の記録③

2007-06-17 07:47:49 | 踏み跡
  13:10,小ピークから谷底に向けて義経の『ひよどり越え』さながらに、スリ鉢状の斜面に飛び込む。蔓に足を取られてもんどり打つ場面もあったが、斜面全体が堆積した柔らかな腐葉土で大きな危険はなく、一同無事に谷底に降り立つ。
  ここからは両側が切りたった幅5~6mほどの谷間の、かつて桑畑であったらしい階段状の平地とその一隅を流れる細い沢の中を歩く。今はうっそうと木が生い茂っているが一面の薮というわけではなく、身を低くすればどうにか歩けた。所々に水がたまった平地があって、そこは鹿が転げ回って泥浴びしたと思われる跡があった。イノシシのヌタ場と同じものであろう。
  一帯は鹿の歩いていない所はどこにもないと言えるほどの足跡である。中には水を求めて足しげく通った踏み跡が太いしっかりした道になっている所さえあり、これを見ると最初の道は人間ではなく、鹿や獣たちがつくったもので、それを人間があとから使うようになったのではないかと思えるようになる。おそらくそれは当っているだろう。めったに人が訪れることのないこの谷は、鹿にとっては安全でお気に入りの棲み家であり、楽園に違いないと思われた。
  鹿だけでなく野鳥も多い。3日前の調査の時『ツゥィフィ-ヒー ホイホイホイ』というサンコウチョウの声を聴いた。風の音で前半部分ははっきり聞こえなかったが『ホイホイホイ』の部分ははっきり聞こえたのでほぼ間違いないと思われた。野鳥に詳しい知人の話によると意外に近い所で営巣・抱卵していることがあると言うことなので静かに歩いてもらったが、残念ながらこの日はその声を聴くことはできなかった。

※お断り:この記録は,03年6月11日~14日の調査山行と同じコースを19名の参加者と一緒に歩いた記録なので記述の大半は重複する。
  

第1行程前半の記録②

2007-06-15 07:47:07 | 踏み跡
  ここから子ノ神という集落までは天平林道と並行するので林道組と山道組に別れる。山道にはベニバナイチヤクソウの群落があり、ちょうど花の盛期だった。11:50,子ノ神分岐着。
  12:00,隊列を整えて出発。しばらくは林道歩きとなる。同20,左側が開けた見晴らしのいい地点に着く。戸谷峰をはじめ、保福寺峠,二ツ石峰,入山,虚空蔵山等の四賀村の境界線の山並みがよく見えるのでここでお昼休みとし。各自思い思いの場所に陣取って昼食を摂る。
  この場所は展望がいいだけでなく、眼下に3~4戸ばかりの集落が見える場所でもある。この集落のことで参加者のMさん(じゅんちゃ)に重要な指摘をいただいた。それは、四賀村側にへそのように飛び出したこの集落は実は豊科町の一部だというもので、地図を注意深く読めば確かにそうなっているのにそれを見落としていたのだ。従って忠実に境界線を辿るのであればその集落の周りをぐるっとまわらなければならない。大ポカという外ないが、今回はこのままこの道を行くしかない。
  13:00出発。林道を直進すること10分で十二の集落に下る分岐点に到達。五常小学校の学校林の標識がある所まで案内し、十二の集落から十二沢林道につながる景色を見てもらった後、林道に戻って進入禁止の標識から50mほど先の小さなピークに向かう。

※お断り:この記録は,03年6月11日~14日の調査山行と同じコースを19名の参加者と一緒に歩いた記録なので記述の大半は重複する。
  
  

四賀村境界線を歩く・・・第1行程前半の記録①・・・2003年6月15日

2007-06-15 07:41:33 | 踏み跡
  第1行程前半;執田光から刈谷原峠・稲倉峠へ・・・四賀村一周境界線ハイキング

 6月15日(日)
  降りだしそうでいて何とか持ちこたえそうな朝。7時までに参加者全員へ決行を連絡。今回の行程はR143止まりになると踏んで集合場所を豊科葬祭センター入口に変更し、9:15に参加者22名のうちの16名,車9台が集合。ここに車5台を置き、他の4台に分乗して出発点の矢の沢分教場に移動。直接分教場に来た6名と合流する。
  新聞募集による参加者は11名で、内訳は22才から70才までの男性7名,女性4名。うち1名はバイクによる伴走。冒険学校関係は子ども達が小学1年生の女児1名,2年生男女児各1名,4年生男児2名,中学1年生と2年生の女子それぞれ1名の計7名に保護者2名(うち1名は車による随行)とスタッフ2名。冒険家の平田和文さんにスタッフとして同行してもらった。
  9:50出発。10:00丁度に四賀村と明科町の境界の沢に入る。草ぼうぼうの沢を前に子ども達が『えぇぇ~ッ』と声を上げ、大人たちは苦笑しているのを尻目に沢に入ってどんどん進む。
  すぐに取水口に着き、そこからは道のない細い谷底の流れの脇を歩く。早々に左(南)側の尾根に逃げるつもりで登り始めたが、あらかじめ調べておいた取りつき点を間違えたらしく行き詰まってしまい、平田さんのリードで後続を分離して少し先の取りつき点から上がってもらった。
  先に登り始めていた子ども達数人だけは慎重に崖の上に引っ張り上げてここを切り抜ける。いきなりのミスリードでスリリングな崖登りを余儀なくされ、顔を蒼白にした男の子もいれば、ケロッとしている女の子もいる。
  10:40,尾根に出て小休止。5分後に出発。尾根に上がれば展望が開けるだろうという期待に反してそこは何本かの踏み跡が交錯しただだっ広い林で、その踏み跡を拾いながら左寄りに進んで徐々に高度を上げる。
  ゆっくり進んだつもりだが最初の急登の疲れでバラつきが出て列が長く伸びたらしく、かなり後ろの方で遅れた子ども達を励ます平田さんのオカリナが聞こえた。11:10,その音が近づくのを待って小休止。揃ったところで平田さんの発案で全員に番号をつけてもらい、同15,出発。
  11:22,地元の人達が烏帽子と呼んでいるピークに着き、境界標識を確認。左折して下り、3分で天平林道へ出る。

※お断り:この記録は,03年6月11日~14日の調査山行と同じコースを19名の参加者と一緒に歩いた記録なので記述の大半は重複する。
  

薮漕ぎ,鹿の道追い~5(2003年6月14日)

2007-06-14 08:57:04 | 踏み跡
6月14日(土)
  残るもう一つの課題をやり遂げて明日を迎えたかった。冒険学校のFさんが中学1年生と2年生の女の子とともに小学2年生の男の子を参加させるために、ご自身が林道を伴走されることになり、コースを覚えてもらうために矢の沢を振り出しに葬祭センターまで道案内する。
 その後国道から谷底へ降りる道を整備しようと思ってその道を探す。道はすぐに分かったが造林鎌で刈り払いしながら進むとやがて倒木が何重にも折り重なっている所に出て行き詰まった。そこから先は容易には切り開けそうにないので、前回降りたルートに切り替えて刈り払いし道をつける。谷底まで道をつけたかったが、次回にまわして懸案の直線コースに向かう。

直線部末端
 ここ(赤ピン)から入って沢に出るつもりが・・・,

  最後の課題は直線部分の後半である。十二沢林道の入山点の100mほど先から下に向かう道が見えていた。この道を辿って見ると屈曲した林道に戻ってしまったので引き返し、境界線をさらに奥に進んで北側の沢に降りる尾根を探したが見つからなかった。更に奥へ進んで適当な所から急斜面に飛び込んで降りる。
  道はまったくなかったが、半分くらい降りると鹿の足跡が見つかったので意を強くし、それを頼りにやっとの思いで沢まで降りた。
  ところがその沢には見覚えがなく、急いで下ると200mほど下流で本沢に合流した。改めて地図を見ると水線はないが沢があると読み取れる地形で、それは境界線よりも豊科よりだった。要するに奥(西)に入り過ぎたのであり、境界線をつなぐにはもっと手前(東)から降りるべきだったのだ。

沢違い
 赤ピンの先辺りは水線のない沢で本流を外れてここに出たので200m下って本流に戻り、逆方向からやり直す。

 ならば沢の側から探すしかない。沢ははじめにまっすぐ東に向かって伸び,途中から大きく北向きに曲がるので、東に向かう延長線あたりの斜面をよじ登れば必ず境界線の道にぶつかるはずである。考えてみればはじめからそうすべきだったかもしれない。
 けれども先ほどの斜面の下りで疲れ切っていた上に午後からの雨で合羽の中までぬれで気力が湧かず、あきらめてトボトボと林道を迂回し車に戻る。不本意だが、明日はこの部分だけ境界線を外れて歩いてもらうしかない。

  知らない山の中を歩き回った1週間だったが、未知の部分が多い分,ワクワクさせられて面白かった。今後も全てのコースを事前調査することになるので可能な方には参加をお勧めしたい。

薮漕ぎ,鹿の道追い~4(2003年6月13日)

2007-06-13 23:55:39 | 踏み跡
直線部
 直線部下降点(赤ピン)が確定。

 6月13日(金)
 学校林の降り口から沼に向けての下り道をつくるため、刈り払いしながらテープを巻いて降りた後、沼から逆に沢を遡ってルートを切り開く。沼の上流は幅5~6mほどの広さがあり、樹木に被われてはいるものの小さな平面が階段状に連なっており、かつては桑畑だったのではないかと思われた。その一画をえぐって細い流れがある。ところどころに水がたまった場所があって、そういう所では鹿が転げまわって泥あびをした跡があった。
 一面が鹿の踏み跡で頻繁に歩く所はしっかりした道になっていた。踏み跡は両側の斜面にもあり、そこいらじゅうが鹿の通り道だった。近隣の山で鹿の歩いていない所はどこにもないと言いきれるほどである。これを見ると最初の山道は人間ではなく、鹿などの獣たちがつくったに違いないと言うことが分かってくる。鹿の踏み跡はそれほど頼りにもなるのである。
 沢の奥は思ったより長く、かなり歩いてようやく源頭に到達した。左右だけでなく正面にも急な斜面が迫り、その上に青空が見えている。その一番低い部分を目指して最後の登りにかかる。
 「進入禁止」と書かれた先の林道に出ると信じて疑わなかったが、登り切るとそこに見慣れた車があった。間違えて出発点に戻ってしまったのだ。
 身体中の力が抜ける衝撃だったが、冷静になって考えてみると沢はほとんどまっすぐで右にカーブしていたとは思えなかった。そうだとすれば最後の詰めを誤っただけかもしれない。思い直して林道側から見当をつけて直下降してみることにした。
  分岐点から中谷寄りに50m程先の左手に小さなピークがあった。その一番高い所からまっすぐ谷底に滑り降りると思った通り先ほどの沢に出た。
  そこから振り返って見上げると、やや右よりの奥に青空が見えている。ここは左よりの壁状の斜面を登るべきところを正面に上がった結果が先ほどの失敗であるが、低い方に気持ちが向かったのは責められない。調査登山と言うものはこういうことの繰り返しであるから、一つひとつの間違いは失敗とは言えない。

  懸案の直線部分の下降点がこれで確定したが、このルートには境界標識は一本もなかったところを見ると、地図に定規で真っ直ぐ線を引いてつくった境界線であることは疑いないようだ。

薮漕ぎ,鹿の道追い~3(2003年6月12日)

2007-06-13 23:54:03 | 踏み跡
馬飼~刈谷原峠間
 馬飼峠までバイク・車と徒歩で入り、馬飼峠~刈谷原峠の中間ピーク(赤ピン)へ。

6月12日(木)
参加申し込みされたTさん(70才)がバイクで見えたので入山点を案内した後、天平林道に車を回し、烏帽子から子ノ神までのルートの未調査の部分を一緒に刈り払いして歩く。終わって車に戻り、子ノ神から十二の集落経由で十二沢林道の入山点までのコースを案内する。さらに前日馬飼峠から歩いて戻ったコースに車を乗り入れて行ける所まで走り、そこから峠まで歩く。
峠には何も標識はなかったが、馬飼峠であることは間違いなく、そこから管理歩道を登って鉄塔まで行き、Tさんにはそこで待ってもらって刈谷原峠に向かう。
 20分の登りで中間のピークに到達。前回(5月4日)の調査の時の見覚えのある赤いテープを確認して戻る。
馬飼峠の後、ついでとばかり刈谷原峠に向かう。車で入れるところまで入ってから歩き始めたが、時間がなくなったので中断してR143に戻り、葬祭センター入口の下降点を見てもらって散会する。その後は十二沢林道の入山点にもどり、松茸山の中のコースの薮を監視小屋の手前付近まで刈り払いして終わる。
刈谷原峠
 車・バイクで刈谷原峠の手前(赤ピン)まで。


薮漕ぎ,鹿の道追い~3(2003年6月11日)

2007-06-12 02:41:17 | 踏み跡
マツタケ山
 赤ピンの先から再び山道に入る。

  その入口は十二沢林道が尾根を避けて北東に大きく曲がる手前にあった。そこに車を置いて再び歩き始める。赤松の多いその山は松茸が豊富に産出する所らしく、いたるところに「松茸止山」「入山者は罰金○○万円いただきます」の張り紙があった。
  道ははっきりしているが、シーズン外れなので薮が被っている。あまりにひどいところだけ少し薮を払ったりして進むと大きな松の倒木があり、それを避けて林の中をくぐり抜けるとひょっこりと松茸用の作業(監視?)場らしい小屋のある場所に出た。
マツタケ2
 赤ピンが小屋のある場所。ここから西に向かって車の入れる道がのびていた。

  そこからは車で入れる道が西に向かっているが、境界線は左手の鉄条網で囲われた松茸山に沿って進む。5分ほどで分岐点に到達し、右折(南東進)するとよく手入れされた松茸山の丸い尾根に出る。R143を走る車の音が聞こえるようになるあたりまで下ると作業小屋がもう一つあり、その横を通って2分ほどで豊科葬祭センターの道に出る。
 松茸の止め山を歩くのはシーズン外れとは言え気が引けるが、境界線という幾分かの公共性に免じて歩かせてもらうことにする。
矢の沢から国道143号まで、2つの問題点は残したものの一応これでルートがつながったので、次の課題である馬飼峠へのルート調査に向かう。
豊科葬祭センター
 赤ピンの先が豊科葬祭センターの入り口に当たるR143の降り口。ここから国道を横切って反対側の谷に下りる。

  国道の四賀村と豊科町の境界標識のある駐車スペースから適当に下の沢に向かって下る。道はなく、谷底に辿り着いて振り仰ぐとはるか高いところで車の音がした。沢には殆ど水はなく、丈余の草が繁っており、草をかき分けて反対側の斜面の取りつきを探す。

  どこを見ても崖である。むき出しになった松の根を頼りによじ登って木のある所に身を置くと汗が噴き出した。来た道を引き返すしんどさを思い煩いながらも上へ上へと登り、国道が見える高さにまで達した時、引き返すより進む気になった。
 そこから激しい登りが続いた。登るほどに傾斜が緩くなるはずだという期待を何度も裏切られながらようやく尾根に辿り着き、標識を発見。これを左折して20分も歩けば馬飼峠に着くと小躍りしてぐんぐん進むと国道を走る車の音が近くなってきた。そこまできて間違いに気づき引き返す。地図を見れば分かることなのに一瞥した時の思い込みで歩いているとこうなる。
馬飼峠
 赤ピンの所でオレンジ色の境界線ラインは一条ヶ峰に向かっている。これは四賀村が松本市に吸収合併されて境界線が変わったためで、当時の旧四賀村の境界線は馬飼峠に向かっていたのである。

 はっきりした踏み跡と所々にある標識のおかげでルートに関する不安はなかったが、そこから先の登りは長かった。やがて送電線の保線道の階段が現れ、それを登って降りると小さな峠に出た。馬飼峠を示すものは何もなかったが、状況から考えるとそれは目指す峠に違いなかった。
 時刻15時半。車を降りて歩き始めたのが12時半。国道から降り始めたのが13時過ぎだったから2時間近い登りだったということだ。国道から馬飼峠までを30分しか見込んでいなかったのが大きな誤算となり、第1行程で刈谷原峠までという計画が絶望的になってきた。
  馬飼峠から刈谷原峠への調査は後日にまわしてこの日の調査を終えることにしたが、帰りをどうするかで迷った。峠からは送電線に沿って錦部方面に向かう道があるが、この道はうんざりするほど長い。かと言って今登ってきた道を下ってまた谷底から国道まで登り返すのはもっと辛いので送電線に沿って錦部への道を選ぶ。
刈谷原トンネルへ
 馬飼峠から赤ピンが示す点線の道を歩いてR143の刈谷原トンネルへ向かう。

 この道からはKDDIの正三二面体の特異な形をした電波塔が目印になって、この日歩いたコースのほぼ全体を望むことができた。車のある位置も大まかに掴むことができたがそれはあまりにも遠かった。
 この道はまた境界線とほぼ並行して北進しているので、歩きながら国道から馬飼峠への長い長い尾根の全貌を真横から見ることもできた。
  1時間以上歩いて国道の下降点に戻り、そこから山道を登り返して17時05分に車に戻る。
刈谷原トンネル
 この地図の中に後半の行程が全部入っている。馬飼峠から刈谷原トンネル(赤ピン)までの道がオレンジ色の境界線とぴったり並行しているのがよくわかる。



薮漕ぎ,鹿の道追い~2(2003年6月11日)

2007-06-11 02:20:51 | 踏み跡
蟋蟀 
オレンジ色の線が境界線で、地図上の赤いピンの先の丸い部分は旧四賀村に食い込んだ旧豊科町。

6月11日(水)
  前日走った林道を子ノ神から逆に走る。2km足らずで左手が開けた展望のよい場所に出る。そこからは二ツ石峰,入山,虚空蔵山等の稜線が望まれ、また眼下には2~3戸の家のある集落が見えた。 その先の小さなピークを過ぎると林道に「進入禁止」の標識がかかっていて、ちょうどそこから左に折れる道があった。その道に入ってすぐの右手に枝道があり,そこに「五常小学校学校林」と書かれた標柱があったが、素通りして進むと道はぐんぐん下がりはじめ、やがて数個の家が密集する十二の集落への分岐点に着いた。
 その集落のひと山南向こうに深い谷が走っているのが分かった。直線部分はその沢に間違いあるまいと考えて、学校林の標柱の所まで戻り、そこに車を停めて造林鎌を手に歩き始める。
直線部
 ピン先の部分から谷底に飛び込んで東に進む。直線の中間部にため池がある。
  
  100mほど歩くと左側に小ピークがあって、そこから降り口を探したが違う気がして枝道にもどると赤いテープがあったのでそれに従って進む。やがて小さな平らでテープが途絶えたので、そこからは見当をつけて一気に下る。
  急斜面を50~60m近く下ってそろそろ谷底と思う当りににぶく光る平板な部分を見つける。目を凝らすとそれは沼だった。ほとんど滑るようにして沼の際まで降りて地図を見直すと、気づいていなかっただけで、沼はちゃんと載っていて水色にぬられていた。
  境界線上にあるその沼を発見したことで確信を深め、鹿の足跡を頼って薮を切り開きながら東に進むと、やがて明らかに人の踏み跡とわかる道が、次いで田んぼが現れた。
  沢沿いの道はやがて大きく北に曲がり、稲が植えられた田んぼが現れるとそこから先の道は草が刈ってあって歩き易くなり、ほどなく目の前に十二沢林道のガードレールが見えた。ここまで来ると境界線から外れていることは明らかなので引き返す。帰りも薮を切り開きながら歩く。
直線部終わり
 直線部の最後の部分には道がなく、ピンの先の林道めがけてよじ登るしかない。  
  
  沼からの気が遠くなるような急登を登って車に戻り、十二地区を通って十二沢林道に出る。集落と林道をつなぐ橋のたもとに車を停めて歩き始め、先ほど上から降りてきた地点まで歩いてから引き返す。調べた沢が直線部分であることは間違いなかったが課題が2つ残った。
  一つはその沢筋の道から十二沢林道に出ずに林道の西の山の中を走っている境界線につながるルートを見つけること,もう一つは沼の奥をまっすぐ西に進んで林道とぶつかる地点を見つけることである。その課題を保留して、先に十二沢林道の西の山からR143までの境界線を探すことにする。


薮漕ぎ,鹿の道追い・・・四賀村境界線調査山行~1(2003年6月10日~14日)

2007-06-11 02:05:26 | 踏み跡
矢の沢出発点
オレンジ色の線は市町村の境界線を表す。赤いピンの所が出発点。

四賀村境界線・調査山行の記録~2003年6月10日~14日 
第1行程;執田光~刈谷原峠・稲倉峠

 境界線ハイキング構想を実行に移すことを決断してから、先に刈谷原峠から稲倉峠とその次の無名の峠を経て戸谷峰に至る境界線の踏み跡と戸谷峰から三才山に至る稜線の道を調査し、自分の活動範囲に近い明科町との境界から刈谷原峠への調査はいつでも調べられるという気楽さから後回しにしていた。
 6月7日の新聞で参加を呼びかけたその日から申し込みがあり、希望者はすぐに5~6名に達したので慌てて矢の沢から刈谷原峠までの調査を始める。

6月10日(火)
 新聞の募集記事を見た明科町のYさんが調査に同行して下さることになる。9時半に矢の沢から四賀村の執田光地区に続く道のちょうど境界線に当る沢の入口に車を停める。入口にはうっそうと草が生い茂っていたが、構わず長い柄の造林鎌で草を払いながら入ると、沢の水を引く黒いパイプに沿った踏み跡が見つかった。
 道は取水口まででそこから先は両側が切りたった細い樋状の沢の中を歩く。沢をどこまでも詰めるのが本来だが早く尾根に出たかったので尾根に上がる取りつき点を探す。
 沢をはさむ両側の斜面には人の踏み後はない代わりに無数の鹿の足跡があった。鹿が何度も水を飲みに通ったためか、中にはしっかりした道のようになっているものがあって、そういうはっきりした踏み跡の一つをたよりに崖のような斜面をよじ登って南側の尾根に這い上がる。
 斜面を登り切れば尾根に出られて南側の執田光の集落が確認できるという予想に反して、そこは尾根というよりなだらかな平面で、木立に視界を阻まれて展望が利かなかった。執田光の一番上のリンゴ農家の上の尾根に出るだろうという予測は外れ、思ったより北側の明科寄りにいるらしいことがわかる。
 交錯するいくつかの踏み跡を拾いながら登って行くと道はやがて一本にまとまり、ほどなくそれが地元の人達が烏帽子と呼んでいるピークに続く道であることに気づく。
烏帽子
赤いピンの先,天平の森のすぐ東の直角に折れ曲がった所が烏帽子で、そこから林道と並行して南進する。

  かつて矢の沢と田沢が上川手という同じ行政区であった頃,矢の沢の人達が光城山を経て田沢へ通った道の一部である。その道は烏帽子のピークを巻いて子ノ神に近道するが、境界線はピークを通っている。矢の沢から1時間かかって10時30分,烏帽子(910m)に着く。
 烏帽子から林道に出て入山点の車まで40分程歩いて戻り、Yさんと分かれて子ノ神に車をまわし、そこから逆に踏み跡を辿ることにする。この道ははっきりした踏み跡として残ってはいるが、歩く人がめったにいないせいか薮が被っていて歩きにくいので造林鎌で薮を切り開きながら歩く。
  途中で迷って四賀側をぐるっとリングしてしまい、1時間を無駄に費やしたりしながらようやく道を切り開く。2度ほど林道に出ざるを得ない所があり、そこで切り上げて次に向かう。

 第1行程で不確定なルートが2ヶ所あり、それが最大の不安要素である。その1つが子ノ神から中谷地区へ至る林道の途中から四賀村の十二沢林道の西に向かってつけられた直線の部分である。はじめ、この直線部分の起点を読み違えていて天平林道上の光城山の南側あたりで豊科町高萩地区へつながる道と境界線を表す標識を探したが見つからず、一旦県道に出て大口沢から国道143号にまわり、中谷地区から高萩に入って境界線を探そうとした。
 この林道は大型ゴミの不法投棄を警戒して「進入禁止」となっていたが無視して進入する。道はやがて舗装も切れ、轍の間の草をなぎ倒しながら進むという心細い状況になった。
 自分が今どこを走っているか分からないまま走ること20分あまり,突然右手に家が現れ、T字路にぶつかった。何となく見覚えがある気がして左折すると50m程で舗装された林道に出たが、何とそこは先ほど車を停めていた子ノ神の分岐点だった。つまり、子ノ神から天平林道,県道,国道,林道中谷~子ノ神線をぐるっとひと周りしたのだった。
 そこで初めて直線部分の起点となる林道を読み違えていたことに気づく。失敗に苦笑しつつ、起点の発見の可能性に安堵して後日の調査に託し、この日の調査を終える。
子ノ神
 赤いピンの先が子ノ神



サンショウウオの天ぷら

2007-05-03 01:16:26 | 踏み跡
 飯豊へ                      
 民宿の夕食は豪勢で、ウドの葉と花,コンフリー,シソのテンプラ,鮎の塩焼き,ミズナ(ウワバミソウ)のおひたし,ウドの酢のもの,カノシタの油いため,アンニンゴの塩漬けなどたっぷりの山菜料理。
 ソバとソバ粉を練って菱形にした餅をごまだれで食べるのも逸品だったが、きわめつけはサンショウウオのテンプラだった。イモリのようなグロテスクな格好で抵抗がある人もいるそうだが、私達は食べられるものは何でも食べる。
 釣ったイワナも昨日と今日の分を焼いてもらい全部食べて満腹。初日の疲れと1本の缶ビールでしきりにあくびが出る。
 入浴後竿の手入れをして9時のニュースを見ているうちにうとうとする。10時の気象通報によると台風7号は発達しながら沖縄近海まで接近。予想では明日,四国,九州に達し、東よりの進路を取れば広島も暴風圏に入ると言う。スピードが速くこちらに影響が出るのは明後日、飯豊本山から門内岳,藤七の池に向かうコースのあたりか。大荒れになることはないだろう,足が速いので一気に抜けてくれるだろうと、あまり根拠はないが自分の都合のいいように考えることにする。
 11時。まだ山の生活に体がなじまないのと早朝から目いっぱい行動した疲れと快さでたちまち深い眠りに落ちる。 
 明日から、まっすぐまっさらに飯豊に向き合うことが出来ることに満足きって・・。
                        19787月29日,水曜日


 



区切り

2007-05-03 01:00:47 | 踏み跡
 通過手続き                 
 沼山峠に着いた時,丁度16:05のバスが発車するところだった。そこからゆっくり歩いて10分足らずでバス停に着く(16:23)。
 バス停で見る人の中に大江湿原ですれ違った人の顔が多いのは、バスで来て大江湿原か尾瀬沼まで行き、すぐに戻ってくるというのが日帰りハイキングのパターンだからであろうと思われ、私達のように縦断する者は少数派らしかった。

 沼から峠への道は単に尾瀬に区切りをつけて次の山域に向かうための通過手続きのようなものだったが、実際に歩いて見ると何の感慨も湧かず、ひどくつまらないこだわりだったことに気づいて後悔した。一時も早くその場所から逃れたい気持ちでバスを待つ一方で、飯豊への期待が次第に高まるのを覚える。
                       1987月29日,水曜日

ヒオウギアヤメ,ニッコウキスゲ,ヤナギラン・・・,

2007-05-01 11:39:14 | 踏み跡
 湿原を彩る花                
 14:22出発。左手に燧岳をみながら沼岸の木道を長蔵小屋へ向かう。まわりにはニッコウキスゲをはじめ、ヤナギラン,ウバユリ,オタカラコウ,メタカラコウ,ヒオウギアヤメ,サワキキョウ,カラマツソウ,タチギボウシ,ワレモコウ等,湿原になくてはならない花達が咲き乱れ、木道の音が心地好い。
 14:47,長蔵小屋着。赤茶色の板壁に白い窓枠が印象的な小屋で2階建の長い建物は昔の木造校舎を思わせる。小屋の近くの環境庁ビジターセンターのベンチで休憩。尾瀬の環境庁の建物は立派すぎてなじみにくく、景観にもマッチしているとは思えない。
 15:04,出発。大江湿原は尾瀬の湿原にしては見るものがなく印象が薄い。田代と湿原では田代と名のつく方が花の種類が豊富で矮性種が多く、雰囲気も数段優れているように思う。 
 湿原はハイカーが多い分だけ荒れており、また富栄養化が進んでいるせいか草丈が長い。木道もひどく傷んでいて歩きにくい。
 20分で沼の平を通過。間に合わなければ最終便でもいいと言うアバウトさで途中休みながら歩く。

                       19787月29日,水曜日

 

怪力! ガスボンベ女とドラム缶男夫婦

2007-04-26 11:38:38 | 踏み跡
 ボッカは尾瀬の風物詩             19787月29日,水曜日
 11:41,小休止。昨日まで町で淀んだ生活をしていていきなりの山歩きに体がおいそれとなじむはずがなく、今日1日は思うように体が動きそうにない。再び歩き始めたが相方の調子が上がらず、12:03,林道終点で再度休む。 
 朝、降り出しそうだった空も今はすっかり晴れて下界なら暑さを感じるほどの天気になったが、ここではそれが丁度よく、時おり吹く風もさわやかで涼しい。
 シシウド,ツリガネニンジン,チダケサシ,ヒヨドリと可憐と言うほどではないが花もにぎやかだ。喧騒とは無縁の清浄な高原の空気の中に、心が次第にとけ込んで行く。

 きつい登りを一気に登り、少し平らな道をのんびり歩いていると、ドラム缶を軽々と背負った男と背の高いプロパンガスのボンベをこれも軽々と背負った女の夫婦連れがすれ違って行った。尾瀬のボッカさんの強力ぶりには驚かされるがこの夫婦はその中でも別格だった。
 12:40,三平峠着。5分休んですぐに出発。ウグイスがしきりに鳴く。じきに沼が見えはじめ。12:58,三平下の尾瀬沼休憩所に着く。

 尾瀬沼は6年ぶりだが思いのほか波だっていた。休憩所には登山者やハイカーは意外と少なく、ほとんどの人は波打ち際で沼と燧岳の景色を楽しんでいる。  
 我々はベンチの一つを独占して昼食をつくる。昼食は実沢山のスープとイワナ入りのみそ汁。相方はレトルトの赤飯パック。食後,少し汗ばむほどの花曇りの午後のけだるさの中で束の間,ウトウトする。