驚視・・・ムンク(ウソ)
ホウノキの花
広い庭の手入れ。庭と言うより里山の一画で沢があり、沢沿いの松林にホウノキが勝手に生えて大きくなっている。
サルがホウノキを伝って屋根に上がるので切って欲しいと・・。
青々とした大きな葉が茂り、花までつけている勿体ないくらいの立派なホウノキで切るに忍びなく『切ってもサルは別の方法考えてやって来ますよ・・』と翻意を促したが、やはり切って欲しいと言うことで高さ10mあまりの木に5mほどの梯子をかけ、そこから登ってまず上3分の1を切り落とす。
受け口を1/3ほど切り込み、追い口から切る。手鋸で10分かかった。
1本の木が途中から2本の株に分かれている。追い切りが斜め下方に進んで受け口の下に達してしまい下手の証拠を残した。別の木で証拠隠滅を謀る。
きれいに切りなおしてみると2つの目玉がびっくりしたようこっちを見ていた。こっちだって驚いたからお互い様かナ・・!
ホウノキの花
広い庭の手入れ。庭と言うより里山の一画で沢があり、沢沿いの松林にホウノキが勝手に生えて大きくなっている。
サルがホウノキを伝って屋根に上がるので切って欲しいと・・。
青々とした大きな葉が茂り、花までつけている勿体ないくらいの立派なホウノキで切るに忍びなく『切ってもサルは別の方法考えてやって来ますよ・・』と翻意を促したが、やはり切って欲しいと言うことで高さ10mあまりの木に5mほどの梯子をかけ、そこから登ってまず上3分の1を切り落とす。
受け口を1/3ほど切り込み、追い口から切る。手鋸で10分かかった。
1本の木が途中から2本の株に分かれている。追い切りが斜め下方に進んで受け口の下に達してしまい下手の証拠を残した。別の木で証拠隠滅を謀る。
きれいに切りなおしてみると2つの目玉がびっくりしたようこっちを見ていた。こっちだって驚いたからお互い様かナ・・!
雨晴海岸付近
ハナイバナorキュウリグサ
5月4日(続)
伏木駅で1時間の仮眠の後、もう2駅分くらい歩くつもりで17:30に伏木駅を出る。駅前の道を直進して氷見線の踏み切りを渡りきらないうちに右折すると伏木錦町の小路を通って伏木左岸港の道路に出る。
数奇屋風回船問屋
棚田家(国定有形文化財)
その細い路地に国の登録有形文化財である『棚田家』住宅がある。棚田家は今から120年近く前に建てられ、明治時代から昭和初期まで栄えた回船問屋で、建物は明治の代表的な数寄屋造り建築で、代々伝わる調度品や美術品は見ごたえがあると言うことだが、見学には予約が必要~とあり、パスする。
伏木漁港
左岸港の川沿いに進み海岸線に出ると万葉埠頭と言う大きな埠頭に至る。万葉埠頭にはロシアの各都市と結ぶ貨物や旅客船の定期航路があり、大型船が寄港するそうだ。緑地公園もあり釣り場としても人気が高い
『万葉』の名は大伴家持が越中国々守として伏木にいた時に詠んだ和歌『奈呉の海人の釣する船は 今こそば 船棚打ちて あへて漕ぎ出め』(奈古は射水市の放生津周辺の海の古名)が万葉集に収録されていることによる。高岡市は万葉の詩情あふれる文化都市を目指し、大伴家持ゆかりの地として『万葉のふるさと』づくりを進めている。
テングサを干す
次第に色が抜けてくる
埠頭の隣には漁港があり、ここにも天草が干してある。漁港を過ぎて小さな川を渡ると越中国分駅でここまで2.7km。18:10,駅で伏木方面行きの電車の時刻を確かめ、18: の電車に間に合うよう雨晴海岸駅まで行くことにする。
越中国分駅
忍者ハットリ君電車
前方に海に迫る小高い丘があり、氷見線は海岸線を走ってトンネルに入る。国道は海岸線より内陸を通ってやはりトンネルに入るが、丘の上に道らしきものが見えたのでトンネルの入り口付近で道を尋ねるともう1つトンネルがあると言う。そのトンネルを通るつもりが別の道に入ってしまい丘の上の道を歩いていると下方に教えられたトンネルが見えた。
男岩
女岩
おりしもその道を足早に歩く人が見えたので、意識的に急いでその人の前方でその道に出て雨晴海岸駅までの距離を尋ねると『2000歩ほど』だと言った。女岩や義経岩を教えてもらったりしながらつかず離れず足早に歩く。
義経岩
18:31,義経岩。伏木駅から4.1km
通算5日目にして初めて真っ赤な夕陽を見た。だがまだ海に沈む夕陽を見ていない。
雨晴駅
18:38,雨晴駅着。伏木駅から4.7km。小杉駅からの距離は26.2km。18:54の高岡行きを待つ。
首切り地蔵尊云われ
電車で伏木駅に戻り、スーパーで夜の食糧を買った後、氷見の道の駅まで走って温泉を探す。あちこちウロウロしたが日帰り温泉が見つからず、朝1番の電車の時刻を調べるために氷見駅を探していて偶然温泉を見つけて入浴。駅の駐車場で眠る。
ハナイバナorキュウリグサ
5月4日(続)
伏木駅で1時間の仮眠の後、もう2駅分くらい歩くつもりで17:30に伏木駅を出る。駅前の道を直進して氷見線の踏み切りを渡りきらないうちに右折すると伏木錦町の小路を通って伏木左岸港の道路に出る。
数奇屋風回船問屋
棚田家(国定有形文化財)
その細い路地に国の登録有形文化財である『棚田家』住宅がある。棚田家は今から120年近く前に建てられ、明治時代から昭和初期まで栄えた回船問屋で、建物は明治の代表的な数寄屋造り建築で、代々伝わる調度品や美術品は見ごたえがあると言うことだが、見学には予約が必要~とあり、パスする。
伏木漁港
左岸港の川沿いに進み海岸線に出ると万葉埠頭と言う大きな埠頭に至る。万葉埠頭にはロシアの各都市と結ぶ貨物や旅客船の定期航路があり、大型船が寄港するそうだ。緑地公園もあり釣り場としても人気が高い
『万葉』の名は大伴家持が越中国々守として伏木にいた時に詠んだ和歌『奈呉の海人の釣する船は 今こそば 船棚打ちて あへて漕ぎ出め』(奈古は射水市の放生津周辺の海の古名)が万葉集に収録されていることによる。高岡市は万葉の詩情あふれる文化都市を目指し、大伴家持ゆかりの地として『万葉のふるさと』づくりを進めている。
テングサを干す
次第に色が抜けてくる
埠頭の隣には漁港があり、ここにも天草が干してある。漁港を過ぎて小さな川を渡ると越中国分駅でここまで2.7km。18:10,駅で伏木方面行きの電車の時刻を確かめ、18: の電車に間に合うよう雨晴海岸駅まで行くことにする。
越中国分駅
忍者ハットリ君電車
前方に海に迫る小高い丘があり、氷見線は海岸線を走ってトンネルに入る。国道は海岸線より内陸を通ってやはりトンネルに入るが、丘の上に道らしきものが見えたのでトンネルの入り口付近で道を尋ねるともう1つトンネルがあると言う。そのトンネルを通るつもりが別の道に入ってしまい丘の上の道を歩いていると下方に教えられたトンネルが見えた。
男岩
女岩
おりしもその道を足早に歩く人が見えたので、意識的に急いでその人の前方でその道に出て雨晴海岸駅までの距離を尋ねると『2000歩ほど』だと言った。女岩や義経岩を教えてもらったりしながらつかず離れず足早に歩く。
義経岩
18:31,義経岩。伏木駅から4.1km
通算5日目にして初めて真っ赤な夕陽を見た。だがまだ海に沈む夕陽を見ていない。
雨晴駅
18:38,雨晴駅着。伏木駅から4.7km。小杉駅からの距離は26.2km。18:54の高岡行きを待つ。
首切り地蔵尊云われ
電車で伏木駅に戻り、スーパーで夜の食糧を買った後、氷見の道の駅まで走って温泉を探す。あちこちウロウロしたが日帰り温泉が見つからず、朝1番の電車の時刻を調べるために氷見駅を探していて偶然温泉を見つけて入浴。駅の駐車場で眠る。
5月10日。『境界線』5月山行はブナの新緑と根明け,残雪の鍋倉山登山。
7:50発。関田峠から残雪の山道をゆっくり歩き、オオカメノキ,ユキツバキ,ムラサキヤシオ,イワナシなどの花々や、ウリハダカエデ,ナナカマド,クロモジ,リョウブ等の芽吹きを楽しみながら最初の目標点である黒倉山に向かう。
道は快適
残雪に埋もれていた木の枝が雪融けで立ち上がり、信じられないほど歩きやすくなっていた。
1週間前はその上を歩いて向こうの雪面に直接降りた疎林がこんなに立ち上がってしまった。
上越市方面
今日は地下足袋で
8:20,上越市の海岸を望む場所で10分の休憩。海は見えなかったが海岸線はよく分かる。能登半島が終わったら糸魚川から北上するコースを歩くつもりなので、あの海岸を歩くのはそう遠い日ではない。
黒倉山にて
米山,刈羽黒姫山
8:53,黒倉山着。途中で一緒になった人が柏崎の人で、上越方面の景観を説明してくれた。かすかに見えているのは三階節の米山。
巨木の谷下降点
最後の雪壁
9:03発,最低鞍部で巨木の谷への分岐点を通過し最後の雪壁にかかる。これをを登りきると鍋倉山頂。9:17登頂。関田峠から1時間27分で着いた。
妙高山?
飯山市
予定より大幅に早く着いたので巨木の谷に下り、あわよくば森太郎,森姫に会いに行こうと言うことになって9:30出発。
ムラサキヤシオ?
ユキツバキ
先週(5月10日)の下見に続いて月例登山本番の鍋倉山は、わずか1週間で大きく変化していた。
まず、関田峠付近にツツジ(ムラサキヤシオか?)が咲いていた。ツツジは鍋倉山に向かう稜線上でも蕾が大きく膨らんだ状態で散見された。
オオカメノキ
クロモジの新芽
蕾だったオオカメノキの花が咲き、クロモジが芽を吹いてきた。オオカメノキは初夏の花と思っていたが、早春の花のだったのだ・・。
稜線のヤシオツツジはまだ蕾
イワナシ
足元にはイワカガミの葉が列をなしているが花はまだで、代わりにイワナシがピンクの可憐な花をつけているのが見られた。
このイワカガミは通常のものより葉が大きくて艶があまりないものが多いところからイワウチワではないかと思われたが、蕾の発見によって決着がついた。
※後にこの花の写真を撮りに来たという人からオオイワカガミであるが分った。
ショウジョウバカマ
カンアオイ
雪の融けた崖状の斜面にショウジョウバカマが見られた。他にギフチョウの食草であるカンアオイの葉の陰に目立たない濃紫色(焦げ茶色?)の花があるのを仲間が見つけた。(ヒメギフチョウはウスバサイシン)
16日
10日
登山道にも大きな変化があり、道を塞いでいた木々がきれいに立ち上がっていて、あれほど難渋させられたのが嘘のように易々と通れる快適な道になっていた。
16日,山頂直下
10日,山頂直下
新緑は黒倉山との鞍部を越え、頂上直下に達していた。
16日
16日
山頂の雪もすっかり消えていた。
ユキツバキ
先週(5月10日)の下見に続いて月例登山本番の鍋倉山は、わずか1週間で大きく変化していた。
まず、関田峠付近にツツジ(ムラサキヤシオか?)が咲いていた。ツツジは鍋倉山に向かう稜線上でも蕾が大きく膨らんだ状態で散見された。
オオカメノキ
クロモジの新芽
蕾だったオオカメノキの花が咲き、クロモジが芽を吹いてきた。オオカメノキは初夏の花と思っていたが、早春の花のだったのだ・・。
稜線のヤシオツツジはまだ蕾
イワナシ
足元にはイワカガミの葉が列をなしているが花はまだで、代わりにイワナシがピンクの可憐な花をつけているのが見られた。
このイワカガミは通常のものより葉が大きくて艶があまりないものが多いところからイワウチワではないかと思われたが、蕾の発見によって決着がついた。
※後にこの花の写真を撮りに来たという人からオオイワカガミであるが分った。
ショウジョウバカマ
カンアオイ
雪の融けた崖状の斜面にショウジョウバカマが見られた。他にギフチョウの食草であるカンアオイの葉の陰に目立たない濃紫色(焦げ茶色?)の花があるのを仲間が見つけた。(ヒメギフチョウはウスバサイシン)
16日
10日
登山道にも大きな変化があり、道を塞いでいた木々がきれいに立ち上がっていて、あれほど難渋させられたのが嘘のように易々と通れる快適な道になっていた。
16日,山頂直下
10日,山頂直下
新緑は黒倉山との鞍部を越え、頂上直下に達していた。
16日
16日
山頂の雪もすっかり消えていた。
5月10日(日) 1週間後の月例山行に備えて鍋倉山を下見。ルート確認,雪の状態,ブナの芽吹き,根回り穴の様子などを調べに行く。
関田峠発8:15。峠からすぐに雪のある稜線歩きとなる。この時期は雪が中途半端に融けて立ち木が半分起き上がり道を斜めにふさいでいるので歩きにくい。時として、雪に埋もれていた木が『パシッ』『パァ~ン』と大きな音を立てて撥ねることがあって驚かされるだけでなく、状況によっては思わぬ怪我に至る場合もある。
ブナの若木
コブシ
ムシカリ?
リョウブ?
若いブナの純林を行く。残雪の一方でこぶしの花,ブナ,トチ,ムシカリの芽吹きが見られる。
黒倉山
上越方面
鍋倉山方面
9:10,黒倉山着。この日はフェーン現象で全国的に暑くなると予想されていたがその気配はなく快適。
これから鍋倉山の登り斜面には雪がまだたっぷりあり、無数のブナの根回り穴を見ることが出来る。雪は柔らかくキックステップがよく効く。
9:40登頂。東斜面には雪がべったりついているが。山頂の標識周りの穴の状態から積雪は40cm程度。
南~西方向の展望はよくないが、山頂から稜線に沿って小沢峠方面に50mほど進むと飯山の市街地を見える場所がある。菜の花公園まで見えると聞いていたが、この日は霞んではっきり見えなかった。
10:00下山開始。黒倉山との鞍部近くまで下った所で沢を詰めて登って来た4人連れに会う。時間を聞くと1時間あまりで登って来たという。
沢の上部はすり鉢状の急斜面だが下部は緩やかで、森太郎,森姫を見に行くのであればこの沢を下らなければならないし登下降ルートとしても利用価値があるが、雪が融け始めている現時点では林道から沢までのブッシュ帯を登り下りするのが煩わしそうだ。
11:10下山。2月に目指した梨平峠はここから1.7km。いずれこのルートを歩く時が来るだろう。
出島の先端をぐるりと再び水路を渡るその橋の欄干に、今度は獅子舞の獅子頭をかたどった像が据えられているのを見る。なぜ獅子頭なのかと訝りながら通過したが、後で調べてみると富山県一帯は獅子舞の盛んな所で、各地に獅子舞の保存会が
あり競演会なども催されていることが分った。特に4月,5月に獅子舞が集中して行われ、新湊や射水,高岡辺りでも盛んに行われており、隣の六渡寺にも保存会があるようだ。
越後獅子と言うのは歌にもあったが、ここでは越中獅子であろうか・・。
新湊港線
出島から中州の本土に戻るとそこに『六渡寺(ろくどじ)』と言う電車の駅があり、おりしも電車が近づく音が聞こえ、走って写真に収める。
この電車は氷見線と併走する万葉線の路面電車であるが、正確を期すと万葉線は高岡駅前駅から六渡寺駅までの高岡軌道線と、六渡寺駅から富山新港左岸突端、海王町『越ノ潟』までの新湊港線と言う別々の線の総称である。
新湊港線は元々,富山駅から海岸線の海老江や堀岡,越ノ潟を経由して現六渡寺駅に至る富山地方鉄道射水線と言う線の一部だったが、次のような経過で現在に至っている。
庄川を渡る
六渡寺駅前の洋館
1966年の富山新港建設によって堀岡駅~越ノ潟駅間が分断のやむなきに至った。分断された堀岡駅~越ノ潟駅間を富山県営渡船で結ぶために新港東口駅が設置され、堀岡駅~新港東口駅間の営業が再開されたが、乗り換えの不便のため射水線の乗客は半減した。その後、富山駅前駅への乗り入れを再開したが乗客増につながらず、1980年に射水線は全線廃止されるのであるが、越ノ潟~六渡寺間は加越能鉄道に譲渡され新湊港線として存続したのである。
マンモスクレーンの傍にキジがいた
小矢部川東河口
河口から上流方向
15:00発。中州の反対(西)側に出るとそこは小矢部川の河口であり伏木港の右岸にあたるという複雑な地形になっている。
600mほど先の青い橋は建造中で渡れず、その橋の手前に『如意の渡し』と言う船があって対岸の伏木左岸港に近道することが出来るが、歩く旅なのでパスする。最奥部までは更に1.5km歩かねばならない。
伏木大橋を見る
渡れば駅は近い
六渡寺付近から小矢部川を2.4km遡ってようやく右岸港の最奥に達する。最奥部からさらに400m歩いて15:50に伏木港大橋に着く。これを渡って小矢部川の左岸に出ると、そこから伏木駅まで左岸を下って1.6km,伏木港へは2.4kmである。
橋から下流を望む
伏木駅
16:15伏木駅着。深夜から230kmの走行と20km余りの歩きでさすがに疲れて1時間ほど車で眠る。
5月4日(祝)
3日早朝に出るつもりが4日の深夜2:05発となる。7:23に前回の終了点である七美を確認した後、予定のコースを通って伏木駅へ,8:25着。デイパックに雨具と食糧,飲料のみ詰めて伏木発9:32の電車に乗車。高岡で乗り換えて10:08小杉着。すぐにスタートする。
駅前からまっすぐ北に進む。見渡すかぎり田圃が広がる中,50分でR8にぶつかると、はるか彼方に見えていた馴染みの巨大煙突がすぐ目の前となる。さらに35分で七美着。ここからが正式なスタートになる。
11:25発。R415を道なりに進み、1時間50分で余呉の浦と言う海岸線に出て藤棚のあるベンチで昼食を摂る。
電線工事の人/『手』の像がある橋
左図・余呉の浦/右図・右下の七美から左上の本町(余呉の浦)まで歩く
余呉の浦大橋
新湊魚港
13:40発。余呉の港(新湊漁港)でイカ釣り船の写真を撮った後余呉の浦大橋を渡る。そのまま直進すると庄川の川べりに突き当たる。
庄川河口
マス,サクラマスの捕獲制限
庄川河口から870m先の新庄川橋まで遡り14:23これを渡る。左折して庄川の左岸を遡るR415を捨てて逆に海側に右折。小さな水路を渡って出島のようになっている中州の先端で海岸に出る。
そこから射水方面を望むと火発の巨大煙突とともに建造中の富山新港をまたぐ大橋梁の工事が見え、その橋が将来どのように港に架かるのかがよくわかった。
一方、目を足元に転じると海岸は打ち寄せられたゴミでびっしりと覆われて目を背けたくなるような惨状である。
常願寺川・ハマダイコン(08年)
ハマナス(08年)
昨年5月3日にスタートした『日本海海岸線行脚』の続き。『行脚』は単純に旅と考えていいのだが、何となく『修行』を意味しているように誤解されかねないので。『日本海海岸線を歩く』と改める。なお『日本海』と言う呼称も狭義の『日本の海』と言う意味ではないが、よりよい呼称を模索しつつ当面はこの呼称を使うことにする。
射水市の橋梁工事(09年)
(08年)
前回は計画後半の富山市から能登半島に入る地域の地理の把握が大雑把過ぎて、富山から伏木までを1日で歩けるものとし、あわよくば次回を氷見線伏木駅からと考えていたのだが、実際には最終日に30kmも歩いて射水市の七美と言う中途半端な場所に到達したものの、そこを終点として最寄りの小杉駅まで更に6km弱の道を無駄に歩く羽目になってしまった。
富山市と高岡市伏木の間の海岸線には、神通川、庄川,小矢部川と言う大きな3つの川があり、その河口とに海岸線に富山港、富山新港、伏木港と言う3つの大きな港がある。この河川河口と港湾が海岸線を入り組んだ複雑なものにしており、歩く上で非常に分かりにくい地形となっている。加えて新湊と言う地名が新港と交錯して地名上の紛らわしさをもたらしている。
因みに、新湊はかつて新湊市と言う市名だったものが、平成の大合併の流れの中で消滅してしまったという不遇な地名なのである。
富山湾の美しさ(08年)
海老江港(08年)
一方、射水市はこの企てを始める前には聞いたこともなく読み方も分からない地名だった。調べてみると2005年に射水郡の全町村(小杉町、大門町,下村,大島町)と新湊市が合併して発足した新市で、新湊市もかつてはその全域が射水郡に属していたところから、新市名は一般公募を経て射水市となったとある。つまり射水郡が古くからの地名で、それがそっくり市になったのであるから『射水市』は歴史的にも住民にとって納得の行く市名だったと言えそうだ。
富山新港(08年)
(08年)
もとよりこれらのことはこの企画を始めてから分かったことであり、それだけでも意義があったのであるが、本来なら富山市から伏木駅まで2日間を充てるべき距離であったため、中途半端な場所を中継点として今回に引き継いだ次第である。
全海岸線を歩くという途方もない着想に出来るだけ忠実に従う意味で、特に港湾のような複雑な海岸線を延々と歩くことは決して単調なつまらないことではなく、どんな道でも歩いてやろうと言う気はあるが、大きな港には必ず大きな港湾施設があって海辺を歩くと言う点ではままならないことが多い。加えて泥の色をしてすえた臭いのする海は決して快いものではない。けれどそれが河川河口、とりわけ大きな港の現実であり、経済活動の一大拠点なのであるからそれはそれで見る価値があるし、そのすぐ傍にも赤提灯の下に花を植えたプランターが置かれていたり、防波堤のすぐ内側でナスやトマトを植えたり、小さな祠を丁寧に掃除していたりする人々の日々の営みや、橋の欄干に彫り物が飾られたりしているのを見るのも面白い。
小杉駅付近からの遠望(09年)/真下から見上げる巨大煙突(08年)
そう言う経緯で中途半端な出発点になったが、まずその中継点を探すために前回歩いた道を車で辿って見た。
射水を象徴するものと言っていいかどうか分からないが、遠い町からでも『あの辺りが射水』と一目で分からしめるものに火力発電所の巨大煙突と、もう1つ,建造中ではあるが、富山新港をまたいで右岸港のある射水市の竜王町と、対岸の左岸港のある同市海竜町を結ぶ大橋梁がある。この富山新港の左岸と右岸のそれぞれの突端は、海竜町,海王町と、町名は違うのに共に『堀岡新明神』であるのは単に面白いだけでなく、2つの町は1つなのだとの思いがこめられているような気がしてならない。
その橋脚工事を真上に見上げる場所に立ってみると工事はわずかながら進展しているように見えたが、完成にはまだ相当の年月を要するように思われた。
そんな訳で、前回,終点の七美と言う所から最寄りのJR小杉駅まで6km弱を余分に歩く羽目になったと書いたが、それは今回も同様で、七美と言うR415の信号のある地点まで行く交通機関はなく、中継点はその七美であるが事実上の出発点は小杉駅と言うことになるのである。
ハマナス(08年)
昨年5月3日にスタートした『日本海海岸線行脚』の続き。『行脚』は単純に旅と考えていいのだが、何となく『修行』を意味しているように誤解されかねないので。『日本海海岸線を歩く』と改める。なお『日本海』と言う呼称も狭義の『日本の海』と言う意味ではないが、よりよい呼称を模索しつつ当面はこの呼称を使うことにする。
射水市の橋梁工事(09年)
(08年)
前回は計画後半の富山市から能登半島に入る地域の地理の把握が大雑把過ぎて、富山から伏木までを1日で歩けるものとし、あわよくば次回を氷見線伏木駅からと考えていたのだが、実際には最終日に30kmも歩いて射水市の七美と言う中途半端な場所に到達したものの、そこを終点として最寄りの小杉駅まで更に6km弱の道を無駄に歩く羽目になってしまった。
富山市と高岡市伏木の間の海岸線には、神通川、庄川,小矢部川と言う大きな3つの川があり、その河口とに海岸線に富山港、富山新港、伏木港と言う3つの大きな港がある。この河川河口と港湾が海岸線を入り組んだ複雑なものにしており、歩く上で非常に分かりにくい地形となっている。加えて新湊と言う地名が新港と交錯して地名上の紛らわしさをもたらしている。
因みに、新湊はかつて新湊市と言う市名だったものが、平成の大合併の流れの中で消滅してしまったという不遇な地名なのである。
富山湾の美しさ(08年)
海老江港(08年)
一方、射水市はこの企てを始める前には聞いたこともなく読み方も分からない地名だった。調べてみると2005年に射水郡の全町村(小杉町、大門町,下村,大島町)と新湊市が合併して発足した新市で、新湊市もかつてはその全域が射水郡に属していたところから、新市名は一般公募を経て射水市となったとある。つまり射水郡が古くからの地名で、それがそっくり市になったのであるから『射水市』は歴史的にも住民にとって納得の行く市名だったと言えそうだ。
富山新港(08年)
(08年)
もとよりこれらのことはこの企画を始めてから分かったことであり、それだけでも意義があったのであるが、本来なら富山市から伏木駅まで2日間を充てるべき距離であったため、中途半端な場所を中継点として今回に引き継いだ次第である。
全海岸線を歩くという途方もない着想に出来るだけ忠実に従う意味で、特に港湾のような複雑な海岸線を延々と歩くことは決して単調なつまらないことではなく、どんな道でも歩いてやろうと言う気はあるが、大きな港には必ず大きな港湾施設があって海辺を歩くと言う点ではままならないことが多い。加えて泥の色をしてすえた臭いのする海は決して快いものではない。けれどそれが河川河口、とりわけ大きな港の現実であり、経済活動の一大拠点なのであるからそれはそれで見る価値があるし、そのすぐ傍にも赤提灯の下に花を植えたプランターが置かれていたり、防波堤のすぐ内側でナスやトマトを植えたり、小さな祠を丁寧に掃除していたりする人々の日々の営みや、橋の欄干に彫り物が飾られたりしているのを見るのも面白い。
小杉駅付近からの遠望(09年)/真下から見上げる巨大煙突(08年)
そう言う経緯で中途半端な出発点になったが、まずその中継点を探すために前回歩いた道を車で辿って見た。
射水を象徴するものと言っていいかどうか分からないが、遠い町からでも『あの辺りが射水』と一目で分からしめるものに火力発電所の巨大煙突と、もう1つ,建造中ではあるが、富山新港をまたいで右岸港のある射水市の竜王町と、対岸の左岸港のある同市海竜町を結ぶ大橋梁がある。この富山新港の左岸と右岸のそれぞれの突端は、海竜町,海王町と、町名は違うのに共に『堀岡新明神』であるのは単に面白いだけでなく、2つの町は1つなのだとの思いがこめられているような気がしてならない。
その橋脚工事を真上に見上げる場所に立ってみると工事はわずかながら進展しているように見えたが、完成にはまだ相当の年月を要するように思われた。
そんな訳で、前回,終点の七美と言う所から最寄りのJR小杉駅まで6km弱を余分に歩く羽目になったと書いたが、それは今回も同様で、七美と言うR415の信号のある地点まで行く交通機関はなく、中継点はその七美であるが事実上の出発点は小杉駅と言うことになるのである。
燕岳・有明山方面
Momoka & Yukiho
4月29日(祝)
Momoが来た。4年生になっていた。Yukihoに仲間が出来た!
Momoka&Mama
里山楽会・境界線の山菜ハイキングに会員外の方の参加を呼びかけたところ、6名の参加者を得た。
子どもの参加が2名。1人は冒険学校唯1人のメンバー,Yukiho。6年生になった。もう1人はMomoka,3才の時に一家4人で白馬大池まで登って以来6年ぶりで4年生になっていた。
すぐに仲良くなった2人はおとな達を置き去りにして急坂をどんどん登って行った。
コースは旧四賀村化石館を出発して東三道を稲倉(しなくら)峠まで歩き、そこから三角点のある1108mのピークへの急坂を登り、刈谷原峠に下って峠で山菜パーティーの後、善光寺街道・刈谷原宿を通って化石館に戻る約8km。
?ヤマエンゴサク
(フデorハル)リンドウ
稲倉峠から1108mのピークへの急登はあるものの大半は街道歩きで距離的にも程よい歩きで、東三道からは白馬三山,鹿島槍,爺ヶ岳,餓鬼岳,燕岳までが、また山頂からは常念岳,蝶ヶ岳,槍ヶ岳までもが望め、大糸線沿いの全アルプスを展望できると言う意外性のあるコース。
コゴミと他のぜんまい系の違いを知りたいと言っていたMomokaママさん・・,見本があってよかったネ! タラの芽も採り頃でした・・。
刈谷原峠で山菜パーティー
タンポポ
お昼は刈谷原峠で山菜パーティー。道々ゲットした山菜・野草はタラ,コゴミ,ワラビ少々,フキノトウ,タンポポの花,アザミ,ホップの芽等々,それに予め買っておいたタラ,コシアブラ,コゴミ,シイタケ,ナメコ・・で天ぷら&ナメコ汁。
各自持ち寄りの惣菜や漬物もテーブルに満載。勿論,木の芽とノビル,キクラゲのポニョも用意して、今日も賑やかに、楽しく山菜三昧!
刈谷原峠は岡田宿と刈谷原宿を結ぶ善光寺西街道の最初の難所で、往時はここに茶屋があり、井戸の跡も残っている。ここから先の街道には石仏が多い。
境界線では5月9日に岡田宿から会田宿までの10kmを歩く善光寺街道ウォーキング・3を予定している。
石仏を見ながら下る。今年が善光寺のご開帳に当たることからか、近年,街道への関心が高まっており大きな集団のウォーキングも行われているようで、そのおかげか道が修復されて歩きやすくなっていた。
刈谷原宿
お疲れ様!
3:15帰着。お疲れ様でした。雲1つないピーカンの1日だったが、コースには日陰があって暑さを感じなかった。
Momo・3才
ももんち
02年(?),ももんちの白馬大池登山。現在,Gou高1,Yuka中1,母?才
Momoka & Yukiho
4月29日(祝)
Momoが来た。4年生になっていた。Yukihoに仲間が出来た!
Momoka&Mama
里山楽会・境界線の山菜ハイキングに会員外の方の参加を呼びかけたところ、6名の参加者を得た。
子どもの参加が2名。1人は冒険学校唯1人のメンバー,Yukiho。6年生になった。もう1人はMomoka,3才の時に一家4人で白馬大池まで登って以来6年ぶりで4年生になっていた。
すぐに仲良くなった2人はおとな達を置き去りにして急坂をどんどん登って行った。
コースは旧四賀村化石館を出発して東三道を稲倉(しなくら)峠まで歩き、そこから三角点のある1108mのピークへの急坂を登り、刈谷原峠に下って峠で山菜パーティーの後、善光寺街道・刈谷原宿を通って化石館に戻る約8km。
?ヤマエンゴサク
(フデorハル)リンドウ
稲倉峠から1108mのピークへの急登はあるものの大半は街道歩きで距離的にも程よい歩きで、東三道からは白馬三山,鹿島槍,爺ヶ岳,餓鬼岳,燕岳までが、また山頂からは常念岳,蝶ヶ岳,槍ヶ岳までもが望め、大糸線沿いの全アルプスを展望できると言う意外性のあるコース。
コゴミと他のぜんまい系の違いを知りたいと言っていたMomokaママさん・・,見本があってよかったネ! タラの芽も採り頃でした・・。
刈谷原峠で山菜パーティー
タンポポ
お昼は刈谷原峠で山菜パーティー。道々ゲットした山菜・野草はタラ,コゴミ,ワラビ少々,フキノトウ,タンポポの花,アザミ,ホップの芽等々,それに予め買っておいたタラ,コシアブラ,コゴミ,シイタケ,ナメコ・・で天ぷら&ナメコ汁。
各自持ち寄りの惣菜や漬物もテーブルに満載。勿論,木の芽とノビル,キクラゲのポニョも用意して、今日も賑やかに、楽しく山菜三昧!
刈谷原峠は岡田宿と刈谷原宿を結ぶ善光寺西街道の最初の難所で、往時はここに茶屋があり、井戸の跡も残っている。ここから先の街道には石仏が多い。
境界線では5月9日に岡田宿から会田宿までの10kmを歩く善光寺街道ウォーキング・3を予定している。
石仏を見ながら下る。今年が善光寺のご開帳に当たることからか、近年,街道への関心が高まっており大きな集団のウォーキングも行われているようで、そのおかげか道が修復されて歩きやすくなっていた。
刈谷原宿
お疲れ様!
3:15帰着。お疲れ様でした。雲1つないピーカンの1日だったが、コースには日陰があって暑さを感じなかった。
Momo・3才
ももんち
02年(?),ももんちの白馬大池登山。現在,Gou高1,Yuka中1,母?才
ポニョ
4月27日(月)は寒い日でした。池田町大峰高原のビューポイントから見る大町アルプスは雪に包まれて展望なし。高原にも小雪が舞って時ならぬ寒さに震え上がり、南斜面の日当たりのいい芝の上に移動。
キクラゲの仲間は生食できる数少ないキノコ。ワサビをおろして生のままを醤油で刺身風に・・。食感は『ポニョ!』でした。
毎月第2,第4月曜日は丸太の会。ざっと歩いてゲットしたり、予め用意したタラの芽、コシアブラ,コゴミ,ホップ,木の芽,ノビル,キクラゲ等々の山菜・野草に持ち寄りの弁当・惣菜を囲んでの山菜パーティーです。
大好評の木の芽
ノビル
木の芽(アケビの新芽)の卵和え。信州ではアケビの芽を食べる習慣がないので珍しさもあって大好評でした。ノビルの酢味噌和えも売れ行き好調・・。
大町アルプスは雪
ぽかぽかの暖かさ
アルプスが雪でかすむ中,ポカポカと暖かい陽射しの下で、ウグイスの鳴き声を聴きながらくつろいだひと時でした。
『丸太の会』は不登校を考える会。こうしてお母さん方に元気になってもらいます。
4月27日(月)は寒い日でした。池田町大峰高原のビューポイントから見る大町アルプスは雪に包まれて展望なし。高原にも小雪が舞って時ならぬ寒さに震え上がり、南斜面の日当たりのいい芝の上に移動。
キクラゲの仲間は生食できる数少ないキノコ。ワサビをおろして生のままを醤油で刺身風に・・。食感は『ポニョ!』でした。
毎月第2,第4月曜日は丸太の会。ざっと歩いてゲットしたり、予め用意したタラの芽、コシアブラ,コゴミ,ホップ,木の芽,ノビル,キクラゲ等々の山菜・野草に持ち寄りの弁当・惣菜を囲んでの山菜パーティーです。
大好評の木の芽
ノビル
木の芽(アケビの新芽)の卵和え。信州ではアケビの芽を食べる習慣がないので珍しさもあって大好評でした。ノビルの酢味噌和えも売れ行き好調・・。
大町アルプスは雪
ぽかぽかの暖かさ
アルプスが雪でかすむ中,ポカポカと暖かい陽射しの下で、ウグイスの鳴き声を聴きながらくつろいだひと時でした。
『丸太の会』は不登校を考える会。こうしてお母さん方に元気になってもらいます。
ある年,1人で田舎町を旅していてある喫茶店に寄り、そこで夕食を済ませた後、田圃のあぜ道をぶらついていて夕刻となった。その辺りの雰囲気が気に入ったので先刻の喫茶店で『この辺にテントを張らせてもらえる所はないだろうか』と尋ねると、『その辺に適当に張ればいいんじゃない』か・・,と言ってくれたので、田圃の横っちょの草原にテントを張ってのんびり過ごした。
翌朝,散歩していてノビルを見つけて幾つか掘り、小川で洗ってきれいに処理したものを件の喫茶店に持って行き、モーニングを済ませてお礼代わりに置いて行こうとすると、ママさんが『あら,ノビルネ,急ぐ旅じゃないんでしょッ。ちょっと待ってて!』と言って奥に消えた。
しばらくの後に出てきたママさんは、ノビルの球根から15cmばかり残した茎の部分をくるっと一重に結んで酢味噌をかけたものを皿に乗せて出してくれた。そして『関東ではネ,これをのほほろと言うのよ』と言った。
『のほほろ』と言う語を聞いたのは後にも先にもこの時だけだが、その語の響きの美しさ,快さが忘れられず、以来その語を探している。
『関東では・・,』とママさんは言ったが、東京西部,多摩や八王子では遂に聞けなかったし、埼玉辺りの人に会えば尋ねて見るのだが、未だ耳にすることなく今日に至っている。
木の芽=アケビの新芽の巣篭もり
岩殿山の帰り道,3年ぶりに押野山に木の芽を採りに行った。木の芽とは普通,山椒の芽を言うが、新潟辺りではアケビの新芽を木の芽と称して食する。
この時期はアケビが新芽をどんどん伸ばしていていくらでも手に入るが、信州ではあまりなじみがないようで誰も採らない。
針金のような細い蔓だが見るからに瑞々しくて柔らかそうだ。ただし苦い。この苦味は茹でてもいくらか残るが決して嫌な苦味ではない。と言うよりこの苦味こそが木の芽独特の味わいと言える。
20年ほど前,巻機山の登山口の南魚沼市清水の民宿での話し・・。
夕食の膳には食べきれないほどの山菜の鉢や皿が並び、さすが山菜王国と驚きかつ大喜びした中に木の芽のお浸しがあった。
食後の宿の主人や女将さんとの語らいの中で話しが木の芽におよび、誰かが貯蔵方法を訊ねるとおばあさんが次のような話しをしてくれた。
この民宿では4~5月のある日、一家総出で丸1日かけてアケビの芽を採りに行くのだそうだが、その量を聞いて耳を疑った。主戦力となるおとな4人で何と16貫匁,60kg,1人平均で4貫匁,15kgの蔓を集めると言うのだ。
直径1mmにも満たず、長さ20cmほどの細い蔓を60kgである。俄かには信じられない量だが、民宿の重要な食材として1年分を確保しようとするとそれだけの量になるのだそうだ。毎年同じ木の蔓を採っていると、だんだんと細い芽が太く柔らかくなってくるとも言った。
これを以下のような手順で処理する。
①集めたアケビの芽は端をそろえて写真のように3つに切る。
②鍋に湯を沸かし、沸騰したら一番太い根元の部分をパラパラッと廻しいれる。
③一旦湯温が下がり、再び沸騰してきたら真ん中の部分を入れ、また沸騰したら先端部分を入れる。
④こうしてまた沸騰したら火を止めて木の芽を冷水に放って冷やす。
⑤最後にザルに上げて水を切ったものを1人の1食分づつビニール袋に入れ、手のひらに乗せてペタペタと叩いて平らにし、これを重ねて冷凍保存する。こうしておけばいつ客があってもすぐに解凍して使えると言う次第。
60kgもの木の芽をこうして保存するために専用の冷凍庫があると言う。
話しのスケールの大きさもさることながら、印象深かったのはおばあさんの語り口で、沸騰したお湯に1番目を入れ、次に2番目を入れるタイミングを『・・・鍋の縁がシンシンシンシン・・・と言い始めたら2つ目を入れて、また鍋の縁がシンシンシンシン・・・と言いだしたら3つ目を入れる。もう一度シンシンシン・・・と言い出したらすぐに水に浸しす・・・』と言う意味のことを、身振り手振りを交えながら方言豊かに語ってくれた。とりわけ『シンシンシンシン・・・』の部分を独特の節回しで歌うように語るその口調が何とも言えず快くて、真似はできないが今も耳の底に残っている気がする。
木の芽を食べる度におばあさんの語り口を懐かしく思い出している。