宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生
翌日、私たちはインスブルックとウィーンに行く途中だった。車が故障したために、オーストリアのザルツブルグで一泊した。あの”サウンド・オブ・ミュージック”の修道院から川をへだてたブリストホテルに泊まった。ホテルに落ち着いたとき、ハリー・マッカーシーが数週間前にバルティモアで会った歯科医師のことを話題にした。
名刺をもらったんだ。それに、もしザルツブルグに行くようだったら、娘のヘレンがザルツブルグ音楽学校で学んでいるから会ってくれるよう頼まれているのだ。」と、ハリーは言った。ハリーが彼女に電話をかけたところ、母国の人からの声に喜び、ルームメイトも同伴してよいかと尋ねてきた。2人ともかわいい23歳の女性で、ダンスが上手だった。
ハリー・マッカーシーはダンスができなかった。彼は厳格なパブティスト日曜学校の教師として、一滴のワインも飲まなかった。しかし、彼はヘレンに魅せられたようだった。翌日、私は冗談めかしに話した。「ハリー、君があの娘と結婚しなかったら、君はどうかしているよ。」彼は私の言葉を真面目に受け取ったに違いない。というのも、彼女が帰国して3か月後に、ハリーはヘレンと結婚した。ハリーは教育の場にとどまり、ベイラー大学歯学部の学部長にまでなった。
やっとウィーンに着いた。郵便物が届いていないか、アメリカエクスプレスのオフィスに行った。着くと、支配人が私に会いたいと言われた。彼のオフィスに案内された。机の上には私宛の電報があり、それには近親者が死亡したことを示している黒い星がついていた。彼はこう話した。「ご自分で電報をお読みになるよりも、私がお伝えする方がよいのではと思いますが…。」
そして、私の妻のアンナが家族を訪問する途中、ケンタッキーで自動車事故で死亡したことを語った。10か月の娘のキティは無事だった。
支配人が帰国の手配をしてくれたので、すぐ帰ることができた。長い船旅の7日間も入れて、帰りつくまでには約3週間かかった。ジミーは私と一緒に帰国すると言い張ったが、そのことはとても大きな支えとなった。ニューキャッスルにもどって、アンナを埋葬し、私と娘のこれからについて、どうしていくかを検討した。シカゴで歯科衛生士をしている妹のジョージアが仕事を辞めて、私たちの世話をするためにフロリダに来てくれた。