極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本本土と沖縄は同胞

2017-12-07 17:00:12 | 日本社会

以下文は、ウィイペディア、Hosei University Repository「為朝伝説と中山王統」・矢野美紗子等々を参考としていますが、素人が記したまとまりの無い文となってしまいました。プログ雑記とします。

 

沖縄と言うと民族的にも全く違うと思いがちですが、同胞であるという言葉が自然だと思います。昭和以降、本土と沖縄との類似性の研究も多くなったように思います。

源為朝(みなもとのためとも)・琉球渡来伝説が最初に確認されるのが「鶴翁字銘井序」です。京都、建仁寺・南禅寺などに住した五山僧である月舟寿桂(~1531年)が琉球出身の僧、鶴翁智仙から聞いた琉球の情報などを記したものです。昨今では本土、沖縄、アイヌ等のDNAの研究でも面白い結果がでています。沖縄と日本本土は同胞であると言えそうです。

 

沖縄以外の人が山内盛彬(やまうち・せいひん)と聞いても分からないと思います。沖縄県出身、東洋音楽学校(現東京音大)卒で昭和時代の沖縄の音楽研究家

明治生まれで祖父・山内盛熹(せいき)から琉球の三線(さんしん・沖縄音楽には欠かせない楽器、琉球王朝時代中国から伝わった楽器を琉球人の体型にあわせて棹の長さなどを調整しています。音もカタチも沖縄独特の楽器です。)を伝授されています。昭和56年技能保持者に認定、沖縄音楽を五線譜に採譜した功績は大きいと言われています。

元・琉球国際大名誉教授で、昭和61年死去96才でした。主な著作には琉球王朝古謡秘曲の研究等々があります。特筆すべきは沖縄音楽、沖縄の言葉、方言等の研究により「平家」と沖縄の言葉の類似性を述べられていました。

 

一説では琉球と関わりがあるとされる、源為朝は平安時代後期の武将で為義の第8子で、母は江戸の遊女とも言う説があります。

源為朝は弓の名人、13才の時父の不興を買って京都を追われ九州に・・・肥後の豪士の阿曾忠国の婿となり鎮西八郎と称していたようです。九州では合戦、略奪を繰返し勢力を伸ばしたとも言われています。朝廷では為朝を京都に召し返そうとしたが聞き入れなかったため1154年、父・為義は解官されました。

これを知った為朝はやむなく上京、保元の乱では父とともに崇徳上皇側として平清盛,兄義朝軍と戦い敗れ、近江で源重貞に逮捕され伊豆大島に流されたと言われています。伊豆大島でも略奪、乱行があり伊豆介工藤茂光に攻められて自殺したとされていますが、一説には琉球に渡って琉球王朝の祖となったと言われています。昨今、この説は補強されているように思います。

源為朝の子孫とも言われる琉球の舜天・・・舜天を祖とする王統の通称名で11187年~1259年、3代73年続いたとされています。

琉球正史の「中山世譜」(琉球王国の代表的な歴史書、漢文で書かれた歴代国王の伝記を中心としており、中国との関係を中心にまとめた部分(正巻)と、薩摩藩など日本との関係を中心にまとめた部分(附巻)とに分かれています。)によれば各王の姓を、「源」としています。初代・舜天の父とされるのは「鎮西八郎・為朝公」(源為朝)と言われています。やはり、琉球の正史として記載されている事実は無視できないでしょう。

この話がのちに曲亭馬琴の「椿説弓張月・ちんせつゆみはりづき」(曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本、文化4年(1807年)~同8年(1811年)にかけて刊行で全5篇、保元物語に登場する強弓の武将・鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描き勧善懲悪の伝奇物語で「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作)を産んでいます。

日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき大正11年には沖縄本島・本部半島の北側の運天港には為朝上陸の碑が建てられています。碑の表側に上陸の碑と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した、日露戦争で有名な名将・東郷平八郎の名が刻まれています。

 

「中山世鑑」を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べています。この説は、昨今では研究者が増え説が補強されていると言われています。

真境名安興「真境名安興全集」第一巻19頁参照、元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀~12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されています。

日本列島には古来からアイヌ、熊襲等(20以上の有色人種の多民族)の原日本人が関東、九州等に住んでいましたが大和朝廷に押しやられてアイヌが北の蝦夷地等へ、熊襲が南へ追いやられ琉球列島に移動したと考えるのが自然にも思えます。元を辿れば同族とも言えると思います。この両者は移動したため渡来した弥生人の混血が少なかったように思います。昨今のアイヌ、沖縄のDNA鑑定では面白い結果が出ています。これらの事実から日本は少なくとも20以上の多民族国家の流れがあると言えそうです。

総合研究大学院大学と東京大学は2012年11月1日、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得たとし、アイヌ人から見ると琉球人が遺伝的に最も近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示されたと発表しています。

成果は総合研究大 生命科学研究科 遺伝学専攻教授を兼任する国立遺伝学研究所 集団遺伝研究部門の斎藤成也教授、東大大学院医学系研究科 人類遺伝学専攻分野の徳永勝士教授、東大大学院 理学系研究科・理学部の尾本惠市名誉教授らの研究グループによるものです。研究の詳細な内容は2012年11月1日付けで英国学術誌「Journal of Human Genetics」オンライン版に掲載されています。

 

「中山世譜」によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたと言われています。

舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられています。首里に遷都したのは察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と言われています。

「中山世鑑」では舜天以降、琉球国中山王を継承したとしていますが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、明の朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封(中国皇帝の家臣として皇帝の保護下に入り、皇帝の権威の元に王としての権力を保持)を受けています。

舜天王統が統治していたとされる頃は小規模のグスクが各地に点在、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ、浦添を拠点とし沖縄本島中部地域に影響を及ぼしていたと考えられています。

 

喜舎場一隆(元・琉球大学教授)談

舜天王統はそれ以前の伝説的王統とは異なり、少なくとも実在した王統の祖とされ、その舜天は源為朝が長寛三年三月に大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、沖縄北部の運天港に上陸

豪族・大里按司の妹と通じて尊敦(そんとん)を生み、その尊敦が舜天であるがこれは「鬼ヶ島=琉球」説から始まり、これらは向象賢の「中山世鑑」(1650年編纂)に明記されているが源為朝の伝承は1609年の薩摩の琉球侵入以前からすでにあり、袋中の「琉球神道記」、1543年の「かたのはなの碑」、1546年の「漆継御門北之碑」などの碑文記にも明記、「中山世鑑」を溯ること100年以前にはすでに存在、薩摩の琉球侵入後に「日琉同祖論」を提唱した向象賢の作為とも断定できないが舜天の実在についての疑問は舜天の活動期がオモロの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の四王統(英祖王統・察度王統・第一尚氏・第二尚氏)の始祖がオモロ(古代琉球人の民俗・信仰・労働などを歌った幅の広い叙事詩)で聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり舜天の実在はオモロからすると否定的に考えられるが、1543年の碑文記に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と明記されている以上、舜天の実在はまったく否定することもできないと述べています。

 

有名な寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の合戦

平清盛を頂点に栄華を誇った平家一門に対して、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、継いで兵を挙げた木曽(源)義仲が京へと攻め上り、平家は西国へと都落ち・・・やがて、源氏同士の内輪もめで義仲を討った頼朝の弟・源義経に一の谷から屋島へと徐々に西へと追い詰められ、最終決戦となったのが壇ノ浦です。

清盛の娘・徳子と第80代高倉天皇との間に生まれ、わずか3歳にして第81代の天皇として即位するという平家全盛の象徴でもあった安徳天皇が、僅か8才で海のもくずと消えたと言われていますが、生存説もあります・・・

当時、事態が理解できない幼い天皇に、亡き清盛の妻・二位の尼(時子)が、「波の下にも都がございます」と、なだめすかして、三種の神器のうちの一つである草薙の剣を腰に差し、天皇を抱きかかえて入水、これは平家物語をベースにした一般的な安徳天皇の最期と言われています。極一部ですが、この子孫の流れが琉球にあると言う方もいます。

日本本土と沖縄の関わりは、古来徐福の時代から極めて大きな関わりがあったと思います。中国大陸からの日本渡来には琉球経由が多く、佐賀県神埼市の貴別当(きべつとう)神社の鳥居には「或日琉球王子子也」との碑文があり、琉球王等の子供の案内人が乗船し日本に向かったと碑文が残っています。古来から日本本土と琉球の関わりは大きかったと思います。

 

多くの文献等に鑑み、歴史的にみても日本本土と沖縄は同胞で心は一つだと思います。

近代では特に明治天皇、昭和天皇の沖縄への想いは極めて大きかったと言われています。日本本土と沖縄・・・戦前、後多くの苦難の連続であった沖縄、沖縄の未来が更に夢を持てる県になることを!

 

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