極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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チェ・ゲバラの生き様

2016-03-25 20:22:50 | 戦後

2015年12月11日に米国、キューバは国交を回復しました。過去、米国の経済封鎖でキューバ経済は何度も破綻寸前に追い込まれましたが、何とか持ちこたえてきました。
医療費無料、自給率100%、餓死者無し、人種差別無し・・・普通社会主義政権の中では、閣僚等々は私利私欲に走りますがキューバは皆無のようです。
過去CIAがカストロ(キューバ革命を成功させ、社会主義国キューバを建国した人)の個人資産等々を調べましたが信じられないように少なくて吃驚したそうです。

各国の元首の年収(日刊ゲンダイ2007.11.2を参考)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円

キューバ革命を支えたチェ・ゲバラ、生き様は何か私達に訴えるものがあります。チェ・ゲバラは旧約聖書の民、世界に散ったスファラディ・ユダヤ人(対し偽ユダヤ人はアシュケナージ・ユダヤ人)です。
当時の側近等々の資料を精査すると、チェ・ゲバラは権力欲が極めて強かったカストロ氏に、巧妙に利用されていたと言う側面があると思います。最後はカストロ氏、ソ連、アメリカ等々にキューバから追放され、見放され計画的に殺害されたと思うのが自然です。


以下の文は、チェ・ゲバラ-革命の人生(ジョン・リー・アンダーソン著)等々を主参考にしていますが、意味不明文があるかも知れませんが雑日記程度の内容と思って下さい。

チェ・ゲバラの本名は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna)、1928年アルゼンチン第2の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれています、チェはあだ名です。

1959年6月12日、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任したゲバラ(31才)は、アジア・アフリカ会議の親善大使として3ヶ月に渡って14カ国を訪問しています。訪れた国は、モロッコ、エジプト、シリア、パキスタン、インド、スリランカ、ビルマ、タイ、インドネシア、ユーゴスラビア、ギリシャ、シンガポール、香港、そして日本です。
7月15日から12日間に渡る日本滞在時、ほとんどのメディアがこれを取り上げることは全くありませんでした。ゲバラはトヨタ自動車工場のトラック、ジープ型4輪駆動車の製造ライン、新三菱重工の飛行機製作現場を見学後、予定されていた千鳥ヶ淵戦没者墓苑への訪問と献花を日本の帝国主義者たちによって多くのアジア人の命が失われたことを理由に断り、代わりに急遽、広島市の原爆資料館と原爆病院を訪問しました。

ゲバラは、戦時中の大日本帝国に対して否定的な意見を持つ一方で、原爆投下を実行したアメリカ合衆国トルーマン大統領を身の毛もよだつ様な卑怯者だと側近であったオマル・フェルナンデス氏に対し、広島の悲劇・・・恐ろしいものを見てしまった、これからはヒロシマとヒロシマの人々を愛していこうと語ったと言われています。
案内人であった新聞記者に対し、アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか、なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのかと語ったと言われています。
広島訪問後ゲバラは、キューバに宛てたはがきに、平和を勝ち取るためには、ヒロシマを知らなければならないと記しています。

帰国後ゲバラが広島で目にした悲劇をカストロに伝えると、以後キューバの学校の教科書にはヒロシマの原爆投下写真が掲載されました。現在にいたるまで、初等教育で広島と長崎への原爆投下がとりあげられています。現在でもキューバの子供達に8月6日は何の日かと質問すると、広島への原爆投下の日であり多くの日本人が亡くなったと答えるほど広島の悲劇はキューバの子供たちにも浸透していると言われています。

ゲバラは19歳の時にアルゼンチンのブエノスアイレス大医学部に入学(2才の時喘息発作の経験があり、アレルギーの研究を目指していたようです。)、25歳で医学博士取得、在学中に約1年間ラテンアメリカ全土を古いバイクで放浪、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じどう生きるべきか思い悩みます。特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に直面、悩んだと言われています。当時は医者としての個人的成功を夢見ていたようです。
飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分、社会の構造そのものを変革せねばなりません。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことです・・・貧困層の劣悪な住宅環境、深刻な栄養不足を改善することが自分の最優先課題だと考え始めます。

1953年、医学部卒業後はペルーの診療所に行く予定でしたが、途中グアテマラの内戦に遭遇、グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配していました。以後、富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始、ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦いますが敗北しメキシコへ脱出します。そこで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロでした。カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していましたが、弾圧でメキシコに潜伏していました。

1950年代のキューバは米国の属国同然と言うより属国、土地、電話、電力、鉄道等全ての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていました。当時のキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国のご機嫌取りをする人が多く、巨額の裏金が支配層間で動いていました。バティスタ軍事政権を倒す為に、カストロは武装同志82人とまさに祖国に戻らんとしていました。カストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として同行を決意、1956年12月、キューバへの密航船に同乗しました。丁度カストロ29才、ゲバラ28才、このキューバ上陸作戦は事前に情報が漏れ、海岸にはバティスタ政府軍が待ち構えていました。上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上が死亡、助かった者は17名、大損害を受けました。
カストロは俺たちは17人も生き残った、バティスタの命運は尽きたも同然だ!
戦車、戦闘機を装備した2万人の政府軍、対し17名の革命軍・・・
カストロには、勝算がありました。

キューバ人大半の貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧を受けていました。戦闘が始まれば必ず自分たちを支持すると確信しました。結果はまさにその通りになりました。
革命軍は農村で食料や物資を調達する際は必ず農民に代金を支払ったことも大きな要因と言われています。略奪が日常茶飯事だった政府軍とは全く違います。更にゲバラ(医師)は戦闘終了後は自軍のみならず負傷敵兵にまで必ず治療をしました。こうした善話はキューバ全土に広まり、政府軍の中からも仲間に加わる者が出始めました。

世界中のゲリラ戦を研究したゲバラは、政府軍の意表をつく作戦を立案、最少の人数で最大の戦果をあげ続けました。カストロは情報戦の重要性も熟知しており積極的に内外のジャーナリストに取材をさせました。革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得ていきました。

キューバ上陸から2年後、サンタクララがバティスタ軍との最終決戦地となりました。7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃開始、敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊、パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降、ゲバラは捕虜を殺害しないという噂がこの投降を加速させました。サンタクララ陥落後、バティスタ将軍は国外へ逃亡しました。

1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍は首都ハバナへ入城、新政権樹立となりました。首相に就いたカストロは31歳、国銀総裁のゲバラは30歳、若い政府が誕生しました。全国民が文字を読めるよう教育無償化、政府軍の全ての兵舎を学校にし文盲一掃運動に取り組みました。更に医療の無料化を実現しました。キューバの憲法50条では、すべての人は健康を保持し守る権利を有する。国家はその権利を保障する。具体策として、無料の医療・入院の提供、無料歯科治療の提供、病気予防手段の実施等が整備されています。

教育に関しては教育費は無料、教科書だけでなく、学用品(鉛筆やノート)も無償、制服や教科書は、下の学年の子どもたちに引き継ぐため、大切に使われる。重点教科は国語と歴史です。(自国の言葉、特に自国の歴史を知ることがもっとも大切にされています。)
大人も無料で教育を受けることができます。成人の識字率は99.9%で日本(99.0%、ウィキペヂア)より高く、現在も世界一です。

大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化等、旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに邁進しました。国民全員の家賃半額にする等、政策をどんどん実行、結果を出していきました。
それらに対し、激怒したのは隣国アメリカ、キューバ全土の土地、電力、鉄道等の巨大な利権等を失った米国はキューバ革命政府に対しCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラ達を倒そうとしました。
このようなやり方に対し、キューバはソ連への傾斜を続けます、カストロはそもそも革命時点では社会主義者ではありませんでした。革命後アメリカ合衆国との関係悪化に伴い、ソ連と接近したことによりキューバは社会主義国への道を行くこととなったようです。

1962年米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連の協力を得て核武装に踏み切ろうとしたと言われています。
米国内がパニックになったと言われたミサイル導入情報報道、有名なキューバ危機です。最終的に米国(裏での米ソ間取引の結果)の圧力にソ連が負けミサイル配備は流れたと言われています。これらの事実はどうも報道でも正しく伝わらなかったように思います・・・全てはキューバが悪い!の報道だったように思います。

1965年、37歳になった彼は突如失踪、自身の信念によってキューバを去りました。アルゼンチン人ゲバラは、キューバにおける自分の役目は終わったと判断、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かいました。
国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰って行きました。
ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦したと言われています。
ゲバラは毎日欠かさず日記を書いていました。圧制者からの解放という崇高な目的と同時に、仲間の裏切り、束の間の平和、食糧難に苦しみ高地をうろつき回る日々の様子が綴られていたと言われています。

1967年10月、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺されました。
捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑・・・最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に、ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ、撃て!臆病者め!
ゲバラ39才の若さでした。遺体はヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送、ゲリラのリーダーが死んだ証拠として、見せ物にされてしまいました。

歴史上には多くの英雄がいますが、多くは圧制者を倒す過程には目を見張るものの、当人が権力を手中にすると傲慢な支配者となって民衆を抑圧、保身にいそしむ事が少なくありません。
権力を手にし自らその地位を放棄して再び苦難の中に身を投じる、そんな例は世界に無いように思います。
ゲバラは純粋なまでの左派、思想的な立場の違いを超えてゲバラが貫き通した意思等、現在もラテンアメリカのみならず特別な英雄として世界で生き続けているようです。
自己犠牲の精神が見え隠れします、日本人に相通じる面があるようにも思えます。

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