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アンネの日記は小説

2014-03-03 21:18:37 | 戦後

ナチスドイツによるユダヤ人迫害の象徴というイメージのある「アンネの日記」は良く学校等で読まれます、映画にもなり、私自身真実だと思い大変感動し、学校で作文も書きました。アンネの日記は全世界で2500万部以上のベストセラーになりました。

「アンネの日記」は、どうも主人公のアンネ・フランク(アシュケナージ・ユダヤ人、宗教上のユダヤ人、カザール人・・・本当の聖書上のユダヤ人ではありません、ユダヤ人とは何の関係もないカザール人)では無く、精査すれば間違いなく小説家が書いた・・・マスコミ、政治家、官僚、評論家等は利権がらみで絶対に触れません、全てを失います!世界のタブーの一つです!

メイヤー・レビン氏というアシュケナジー・ユダヤ人(アンネ同様、聖書上の真のユダヤ人で無く、カザール人)が、アンネの父から依頼されて書いた小説と言われています、日本では小説と信じて読まれてることは少ないようです。小説だから当然内容も当然フィクションで実際には無かったことになります。
***参考ウェブサイト:アンネ・フランクは「アンネの日記」を書かなかった

原文は、特に13才の少女が書いたとは思えないような大人の文章であり、日本人ドイツ語学者によれば、その文章は大人びているだけでなく、「古典的ドイツ語」で書かれているようで、13歳の子供の文ではないと言われています。

アンネ・フランクはオランダで生まれ、13才で腸チフスで死亡、彼女は当然、オランダ語を話しますが、まず「古典的ドイツ語」は自在に操れるほど堪能ではないと言われており、日記が疑問視される明確な証拠として「アンネの日記」の筆跡と、「アンネの筆跡が明らかに全く違う」さらに、日記に使用されている「筆記具ボールペン」は1951年以降実用化され一般化したが、アンネの生存中は一般には出回っておらず、アンネの日記の原文を、当時の写真家が写真を撮ろうとしてたがフォーカス等してはならないよう指示されたといわれています。何故隠さなければならないのか、堂々公表すればいいのに、現在は写真不可のようです。幸いにも過去、の筆跡が写された写真が残されていました。当時の筆跡が公開されていますが、誰が見てもあまりにかけ離れてると言われています。

戦後「アンネの日記」論争は1981年、日記を保管するオランダ国立戦時資料館は法務省所属のオランダ国立法科学研究所に鑑定を依頼しました。このとき、使用されている物質(インク、紙、糊など)と筆跡を調査した結果、内容的には「アンネの日記は1942年から1944年の間に書かれた」ということが異論の余地無く論証され追加改ざんされた様子は無い、と結果が出ました。
問題となったのは、「日記の4巻目」から使われている「ボールペンの筆跡」は以前の1、2、3巻と同じ、と結果が出されたことです。「1945年」に死亡した人物が「1951年に普及したボールペン」で書ける訳は有り得ない、結果として、作者はアンネの名を語った者で、戦後に全編を完成したように思うのが自然であるようです。

アンネの日記の真の作者は「ユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン氏」、彼は「アンネの日記」が大ヒットするにつれて、最初にもらった原稿料に飽き足らずが少ないため、日記が生み出す膨大な利益の供与を主張するようになりました。

版権は本来なら父のオットー氏(アシュケナージユダヤ人)に有るのですが、メイヤー氏が版権を主張したため、両者は対立してしまいました。後に裁判に発展し、法廷でメイヤー氏は自分が版権を持つことを主張するために「自分がアンネの日記を書いたことを暴露」してしまいました。その判決により「アンネの日記」は、アンネ・フランク直筆の作品では無く、メイヤー・レビン氏が書いたことがはっきりしました。これらは封印され続けています。
ニューヨーク「最高」裁判所の判決の、書類番号「2241ー1956」でありますが、ニューヨークの地方事務所に確実に保管していなければなりませんが、何故か、「このファイルのみ現在紛失」してしまっているようで、原因は不明、調査しようとすると、必ず何者かの強い圧力がかかり調査は続行不能となるようで、現在は事実上異議を述べることは不可能と言われてるようです・・・正々堂々と出来ないとこを見るとほぼ小説であることは間違い無いと言われてるようです。

「アンネの日記」がシオニストユダヤ人のプロパガンダとして、世界の同情を得、イスラエル国家を建国するため、多額の寄付金等を得るための手段等とされたようです。異議を述べれば、問答無用でドイツ等では逮捕等になるようで、現に逮捕者もいるといわれています。
海外では日記としてる国もありますが大方は、真実は知ってるがあえて触れないという策を取ってる国が多いようです。根っから信じてる国は日本ぐらいであるのは間違いないと言われています、この件に色々触れることは、不思議にもご法度のようです。

「エコノミック・カウンシル」誌 1959年4月15日版によれば、「アンネの日記は、とても十代の子供が書いたとは思えない、明らかに違う筆跡です。

この事についてニューヨーク最高裁判所の判決から裏付けを取る事が出来る。アメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビン氏が、アンネ・フランクの父オットー氏から、この日記作成に対する謝礼金として、5万ドル(現在価格で2億円)を受け取ったと明確に認めている。オットー氏はこのレビン氏に五万ドルを支払い、その後レビン氏の作品を、まるで自らの娘の作品のようにしてしまったのである。この最高裁の判決の書類「2241-1956」は、ニューヨークの地方事務所にあるはずなのだが、残念な事にこのファイルはいまやいずこかへ消えてしまっている。

『アンネの日記』は1951年、出版後ただちにベストセラーになった。しかしなぜ、アンネの父を巻き込み、本の真実性を追ったこの裁判が、今日公に報告されることがないのだろうか。オットー・フランクがその娘の死、およびその悲劇から膨大なカネを儲けたというのに。」
(見えざる帝国 宇野正美 著)

スウェーデンのジャーナリスト、ディトリィェブ・フェルデュラー氏は、次の様に証言しています。
11959年、映画『アンネ、の日記』が作られた時、アンネが住んでいたというアムステルダムのオリジナルの建物を、「日記に書いてあるように改装してもよい」と言われたという。小説であり、当然実際の建物が違う。

2 13歳の少女が冒頭で「フランク家の歴史を語り、そのすぐ後にドイツの反ユダヤについて語っている」のは何故か?

3 彼女は本文中で「オランダ風の階段」と語っているが、彼女はオランダでしか育っていない。

1980年10月9日の「ニューヨーク・ポスト」には、「エルンスト・ロエマー」なる人物が「アンネの日記」は真実ではなく、小説である事を追及し続け、裁判に持ち込んだ記事が書かれている、そしてついに「2度目の裁判」で彼の主張は、明確に正当であると認められた。

アンネ・フランクは1945年3月上旬、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で発疹チフスを患って亡くなった。もし治療を受けていたら、もしかすると彼女は助かっていたかもしれません。
しかしユダヤ教に入り込んだ悪魔の法典タルムードの「偶像礼拝者や異教徒からの医療的な助けは避けなければならない」(Pesachim 25a) という邪義がそれを許さなかった。タルムードを信ずるユダヤ人達に、非ユダヤ人の治療を受ける選択肢はありません。小さな彼女が治療を受けて生き延びていたら、悲劇の主人公が描かれる「アンネの日記」を小説家メイヤー・レビンが書くことは無かったと思うわれ、本当に可哀想です。

 アンネも「シオニズム運動」の可愛そうな犠牲者の一人であることは間違いなさそうです。 
アンネは、ごく普通の女の子だったようです、彼女がアメリカの友人に送った本物の手紙の筆跡を見れば見るほど、本当にかわいい筆跡で13歳の少女の姿が浮かび上がってきます。日記の筆跡とは誰が見ても、天と地の差があると言われています。何故父親のオットー・フランク氏は5万ドルという大金(現在の約2億円)を払ってまで、小説家に娘の名前で小説を書かせたのか・・・

「アンネの日記」は、小説として立派であり、我々は日記、小説であれ気にすることはなさそうですが、日本では年間2~3万件程度の図書被害があり、別に一々被害届を出すことは無いそうです。

参考資料:「見えざる帝国」 宇野正美 著 等々
*殆んどがネット内の資料等を参考にしています。

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