極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

二宮金次郎の生き様

2016-06-17 07:11:04 | 道徳等
今でも、国内外の指導者、教育者等に尊敬される、二宮金次郎・・・残念ながら、昨今は子供達に学校等で教育されることは無いようです。
二宮金次郎の生き様は、子供達への最高の道徳教育となると思います。

戦前、中は必ず学校の道徳、修身の教材として二宮金次郎は登場していたそうです。
子供達に、人間とはこうあるべき等々、解りやすく教えられたそうです。

戦後、GHQマッカーサー等の指示で道徳、修身教育等々は禁止されてしまいましたが、是非現代の子供達に教えてやりたい人物の一人です。道徳無き混とんとした現代・・・私達大人も大いに学ぶべきと思います。
 
二宮金次郎・・・公人としては「尊徳」を使用されています。尊徳は一般には「そんとく」と読んでいるが、正式の読みは「たかのり」 相模国足柄上郡栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市)生れ、少年期に父母を失い、災害で没落した家を独力で再興、この体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く「報徳思想」を形成しました。
家・村を復興して興国安民を実現する仕法を体系化しました。
 
文政5年(1822)に小田原藩に登用され、天保13年(1842)には普請役格の幕臣となる。関東とその周辺の諸藩領・旗本領・幕領・日光神領の復興や個別の家・村の再建を依頼されて指導し大きな成果をあげました。
尊徳の思想の特色は、「自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のものすべてに感謝し、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになる」というものです。
 天保14(1843)年に尊徳を慕い、彼の思想を実践する目的で、小田原に報徳社が結成されると、各地でも続々と報徳社が結成されていきました。

 ***二宮尊徳の教え***

至誠・しせい
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」(夜話139)という言葉の通り、尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神です。

勤労・きんろう
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。また、働くことを通して知恵をみがき、自己を向上させることができると説きました。

分度・ぶんど
人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの必要性を説きました。

推譲・すいじょう
節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や社会のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えました。

積小為大・せきしょういだい
小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつくという教えです。小事をおろそかにする者に、大事が果たせるわけがないと尊徳は考えました。

一円融合・いちえんゆうごう
全てのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えです。例えば、植物が育つには水・温度・土・日光・養分・炭酸ガスなど、いろいろなものの徳が融け合ってひとつになって育ちます。

二宮尊徳の経歴
1822年(文政5年)
9月6日二宮金治郎は小田原城主の命令を受け、桜町三か村(物井・横田・東沼)を立て直すため妻子と共に桜町陣屋に入る。名主役格。36歳。朝早く起き、夜おそくまで働くこと、粗衣、粗食に耐えること、荒地の開墾を指導し、村民に報徳の教えを広める。

1829年(文政12年)
成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食する。天保3年から7年まで飢饉が続き、全国でも餓死する者が多数でた。金治郎は飢餓に備えて、普段から一人あたりヒエ5俵をたくわえさせておいたため、領地内からは一人も餓死する者がなかった。

1836年(天保7年)
金治郎 桜町仕法を完成する。この年、烏山の人々870人を飢えから救う。このとき桜町から送られた米は、1243俵、ヒエ234俵、種モミ171俵といわれる。

1837年(天保8年)
下館地方が大飢饉に襲われる。そこで下館藩主は桜町陣屋に使いをだし、金治郎に仕法をたのむ。しかし、金治郎はすでに茂木、烏山、茨城県青木村、谷田部村及び小田原藩の仕法を進めていたのでことわる。

1838年(天保9年)
下館藩主みずからの手紙によるたのみとあって、金治郎は下館の仕法をはじめ、その後30年間も続けられた。
これによって借金8875両を返すことができた。

1842年(天保13年)
金治郎は幕府から「ご普請役格」に任命される。

1843年(天保14年)
7月、真岡及び陸奥小名浜の代官に属し、真岡陣屋の駐在となる。

1847年(弘化4年)
5月、真岡東郷陣屋に移る、金治郎、桑ノ川の第一次開発をする、常陸国 棹ヶ島 花田村の仕法に着手する。

1852年(嘉永5年)
桑ノ川の第二次開発をする、4町歩(4ヘクタール)の耕地開発。

1853年(嘉永6年)
真岡代官を免ぜられ、日光奉行手附拝命、日光神領の復興を命ぜられる、6月赴任し、80有余村を巡回する。

1856年(安政3年)
金治郎、今市で亡くなる。(10月20日 巳の刻)

未来を背負う子供達に、道徳、修身教育の復活を願わずにはおれません。
二宮尊徳の教えは、現代の大人、子供が忘れている、生き様に警鐘を鳴らしているかもしれませんね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする