極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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帰国拉致被害者のその後

2016-04-02 13:51:01 | 拉致

戦後最大の悲劇、北朝鮮による拉致・・・2002年以降、拉致被害者3家族が帰国して15年以上が経過しましたが、精査すれば帰国者が真相を語ることは難しいように思います。
北朝鮮での厚遇、日本での帰国後の生活はお手伝いさんもいない生活で厳しいものがあったと思います。私達が得た帰国後のマスコミ情報・・・一部情報のように思います。以下の文は、YAHOOニュース、ウィキペデア等々を参考にしていますが、一部可笑しい箇所があるかもしれません、日記プログと言うことで。

当時、北朝鮮での日本への帰国の希望については、「夫とよく相談したい、こちらにはこちらの都合がある」私達が考える喜びの帰国、複雑な心境が見え隠れし、これらが事実であれば私達日本人も複雑な心境になります。

3月31日のYAHOOニュースでは、北朝鮮拉致被害帰国者で福井県小浜市職員の地村保志さん(60)が3月31日、定年退職を迎え同日午前の退職辞令交付式で松崎晃治市長から感謝状と辞令を受けたそうです。
地村さんは2002年10月に妻の富貴恵さん(60)と帰国。2003年4月に嘱託職員として採用され、2006年からは正職員となり、観光交流課、生涯学習スポーツ課などに配属され勤務されてたそうです。

当時16~22才だった5人の子供さん達は、帰国後日本にも慣れ、就職など自立が進み、新潟県柏崎市の蓮池さんの子供さん2人は平成16年5月に帰国、親元を離れ、長女の重代さんは大学で学び直し、長男の克也さんは証券会社でインターネットを利用した取引の実務に携わっているそうです。
福井県小浜市の地村さんの子供3人のうち、長女の恵未さん、長男の保彦さんが両親と同居、恵未さんは地元の信用金庫に勤め、金融商品取引に必要な外務員資格を取得したそうです。保彦さんはモーターメーカーでポンプの技術開発に携わっているそうです。次男の清志さんは福井市の化学メーカー名古屋支店の営業マンだそうです。

新潟県佐渡市の曽我さんは、夫のジェンキンスさんが土産物店、2人の娘さんも平成16年7月に帰国、長女の美花さんが保育園、次女のブリンダさんが酒蔵で働いているそうです。やはり、帰国子供さんにとって、現在でも日本での生活は難しい面があるように思います。

蓮池薫さんは、翻訳家として活躍されているようです。
新潟県柏崎市出身1978年から2002年まで北朝鮮による日本人拉致問題の被害者として、北朝鮮で生活(一説では金日成政治軍事大学、烽火大学卒業)、以後中央大学法学部卒業、新潟大学大学院修了、文学修士、新潟産業大学経済学部准教授、新潮ドキュメント賞を受賞しています。
著書としては・・・
『蓮池流韓国語入門』文春新書、2008年
『私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』講談社2009年
『半島へ、ふたたび』新潮社 2009年 のち文庫(第8回新潮ドキュメント賞受賞)
『夢うばわれても 拉致と人生』PHP研究所 2011
『拉致と決断』新潮社 2012年

蓮池薫さんの朝鮮名はパク・スンチョル、北朝鮮の社会科学院民俗研究所資料室で、日本の観光パンフレットなどの翻訳の仕事をしておられたようです。
同時に拉致された奥土祐木子さんと1980年5月15日に結婚、子供2人です。
平壌市内ランナン(楽浪)区域に居住、長男パク・ギヒョクさんは電子計算機単科大学の学生、北朝鮮への入国経緯は、柏崎市で特殊機関工作員が語学養成のため拉致したと発表されています。日本への帰国の希望については、こちらにはこちらの都合があると答えられたと言われています。帰国後、地村夫妻から先生と呼ばれていたことなどから、帰国者5人の中でも高い地位の存在と言われていますが、本人はこれを否定されています。帰国後10月25日、奥土祐木子さんとともに柏崎市役所で婚姻届と子供の出生届を提出されています。

1978年7月31日、蓮池薫さんと交際していた奥土さんはこれからデートで、図書館で待ち合わせをしていると言って新潟県柏崎市の薬局を出た後、行方不明となったと言われています。奥土祐木子さんは行方不明当時、カネボウ化粧品会社社員でカネボウ化粧品の美容指導員で、朝鮮名はキム・グムシル、同時に拉致された蓮池薫さんと1980年5月15日に結婚、子供2人です。
北朝鮮への入国経緯は、柏崎市で特殊機関工作員が語学養成のため拉致したと発表されています。日本への帰国の希望については、夫とよく相談したいと答えたと言われています。

地村保志さんの手記(原文のまま)
「家族・親子が一緒に暮らす」と言うのは、通常の生活形態である。しかし、世の中には家族・親子がそれぞれ生き別れになって生死も分からず暮らす不幸な人々がたくさんいる。
身近な例を挙げれば、在日韓国・朝鮮人の人、この人たちは個々の事情により自ら日本に渡って来た人もいると思うが、過去の戦争による犠牲者も少なからずいる。また朝鮮半島においては、朝鮮戦争時、生き別れになり今日までお互いの生死すら分からないまま暮らしている離散家族と呼ばれる不幸な人々がたくさんいる。これらの人々にとって「家族の絆(きずな)」というものは並々ならぬ想いがある。

そもそも北朝鮮による拉致事件はなぜ起きたかを考えると、そのひとつに戦後国交が正常化されていない日本との対立関係が背景にあるものと考えられる。そういった意味で拉致は戦争の延長、犠牲とも受け止められる。このように国家間或(ある)いは国内の内戦の犠牲になり生き別れになった人々にとっての唯一の願いは、家族の再会であると思う。しかし私自身、拉致問題は戦後に起きた国家犯罪であり北朝鮮が拉致事実を認めた以上、早期解決と謝罪があって当然だと思う。まして家族の帰国問題は、人道上の観点から考えても、無条件、即時実現されるべきである。
    2003年10月15日付朝日新聞朝刊、地村保志さん手記(全文)

 

拉致被害者の日本帰国は何か複雑な事情が見え隠れするように思います。自由に発言されるようになると、また違った拉致被害者対応が取れるかも知れませんね。
現政権の一部の方は、拉致のすべてを網羅してると言われていますが、拉致問題解決は拉致問題のみではなく、プラス・アルファの複雑な事情もあるようです。
このままでは拉致問題解決は、時間のみ経過し寂しい結果となる可能性があります、私達は、今一度拉致被害事案を再認識し、絶対に風化させてはなりません。政府を後押しする気持ちが大切であると思う昨今です。


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