「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」の更なる続き

2022-03-18 12:05:00 | 従って、本来の「ブログ」

   「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」の更なる続き

 

 理論物理学者のカルロ・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」

の中で、過去と未来の違いを表す唯一の物理式は、Sはエントロピ

ーの量で「 △S≦0 と書いて、『デルタSは常にゼロより大き

いかゼロに等しい』と読む。これは『熱力学の第二法則』(第一法則

は、エネルギー保存則)と呼ばれるもので、その核心は熱は熱い物体

から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じないという事実にあ

る。」(同書) 一般にこれは「エントロピー増大の法則」と言われて

いるが、「熱による運動には、トランプのシャッフルを繰り返すの

と似たところがある。順序よく並んでいるカードも、シャッフルす

ると順序が崩れる。こうして熱は熱いところから冷たいところに移

るのであって、その逆は決して起きない。」(〃)そこで彼は、「な

ぜ時間の二つある方向のうちの片方、わたしたちが過去と呼んでい

るもののほうが事物が秩序だっているのかが問題になる。宇宙とい

う名前の一組の巨大なトランプは、なぜ過去に順序立っていたのか

。どうして昔はエントロピーが低かったのか。」たとえば、「もし

も一枚目から二十六枚目までのカードがすべて赤で、その後の26

枚がすべて黒なら、そのカードの並びは『特別』、つまり『秩序立

っている』ことになる。今、カードをシャッフルすると、この秩序

はなくなる。最初の並びは『エントロピーが低い』配置なのである

。ただし、元々の配置が特別なのは、赤と黒というカードに注目し

たからだ。色に着目するから特別なのだ。」つまり、「『特別』と

いう概念は、宇宙を近似的なぼんやりとした見方で眺めたときに、

はじめて生まれるものなのだ。」カルロ・ロヴェッリはこの著書の

中でオーストリア出身の物理学者ボルツマン(Ludwig Eduard Boltz-

mann, 1844年2月20日~1906年9月5日自死)の功績を

絶賛しているが、そこで、「ボルツマンは、わたしたちが世界を曖

昧な形で記述するからこそエントロピーが存在するいうことを示し

た。」「つまり、熱という概念やエントロピーという概念や過去の

エントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に

記述したときにはじめて生じるものなのだ。」つまり、われわれは

52枚のカードを色や数字の違いによって並び替えて『エントロピ

ーが低い』『秩序立っている』と思ってしまうが、色や数字が描か

れていることを知らないカードからすれば過去も現在も何一つ変っ

ていない。つまり、われわれがカードに印した色や数字に拘ろうと

するから、過去と未来の違い、つまり「エントロピーの変化」が見

えるのだ。カルロ・ロヴェッリは、「事物のミクロな状況を観察す

ると、過去と未来の違いは消えてしまう」(同書)と言います。 

                       (つづく)


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづきの続き

2022-03-10 03:05:07 | アフォリズム(箴言)ではありません

 「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづきの続き

 

 三島由紀夫は『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』の中

で更にこうも言っている、ここでも文中の「日本」を「国家」に置

き換えますが、

「『国家』はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、

ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国

が(極東の一角に)残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人た

ちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と。

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」とはどんな世界かとい

えば、まさに三島由紀夫が嘆くような世界に向かわざるを得ない。

デジタル化した世界は、もはや「国体とは天皇のことである」も「

血と大地」も「存在忘却」も、これまで人々が有史以来営々と積み

上げてきた伝統文化も精神も無機化されて、残るのは「機能」とし

ての「システム」だけなのだ。つまり、グローバル化によってロー

カルな民族の伝統文化は淘汰され無意味化される。だって天皇とい

う民族神話を日本人以外だれが信じたりするだろうか。つまり、「

超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」の下では国家はなくなる。

 私は何故ロシアのプーチン大統領がウクライナに対してかくも破

滅的なジェノサイドを決断したのかまったく理解できなかったが、

ただ、これまでにそのような理解不能で無意味な事件は何度か見聞

きした覚えがある。それは、古くは西郷隆盛による「西南の役」で

あり、戦後は連合赤軍による一連の革命闘争や、三島由紀夫自決

だった。おそらく国家主義者プーチンは「無機的な、からつぽな、

ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない」デジタル化した

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」になびこうとするかつ

ての同邦ウクライナが許せなかったのではないだろうか。私は、プ

ーチン大統領に、新しい時代に希望を見い出せなかった晩年の西郷

隆盛や、連合赤軍、或いは三島由紀夫と同じ、たとえ世界が何と言

おうと「已むに已まれぬ」覚悟を感じないわけにはいられない。た

だ、彼らの覚悟は何れも成就しなかったのだが。

                       (つづく)


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」

2022-03-09 07:33:43 | アフォリズム(箴言)ではありません

「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづき

 

 すでに世界は科学技術の発展によってグローバル化が進み、望め

ば世界中の見知らぬ人々と自室に居ながらモニター越しではあるが

いつまでも語り合うことができる。つまり、南米に居る人が友人で

あってもでいい時代で、世界中がインターネットで繋がっているの

だ。一般に「国家」の定義が「領土・人民・主権」だとすれば、世

界と繋がった個人を取り巻く生存環境もどうしてもこの国でなけれ

ばならないという必然性が希薄になった。そしてグローバル化の波

はやがて民族性の違いも容易く越えていくに違いない。つまり、領

土に縛られることなく、多様化した民族性の下での「国家」の主権

とは果たしていったい誰の主権なのか。一部の権力者の主権の行使

は他の多くの人民の人権を奪うことになる。やがて主権は人民監視

の下で個人に平等に分け与えられるしかない、こうして、インター

ネットの発達は「国家」の概念を希薄化させる。かつて、明治維新

の恨みから会津藩の人々は遠く離れた長州藩の人に一角の恨みを禁

じ得なかったが、近代化がもたらした交通機関の発達によって、そ

の距離が著しく縮まると、藩を超えた日本という国家の枠の下で、

日本人同士の交流が進むと遺恨が無意味になった。つまり、アナロ

グな「国家」を超えるデジタル化した「超国家主義(スープラ・ナシ

ョナリズム)」の世界では、もはや、領土も、民族も、主権さえも無

意味化して、かつて三島由紀夫が嘆いたような世界、つまり彼が日本

について語った言葉を「国家」に置き換えたなら、

「このまま行つたら『国家』はなくなつてしまうのではないかといふ

感を日ましに深くする」(果たし得てゐない約束―私の中の二十五年)

という予感はまさに当を得ている。

                         (つづく)


「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」

2022-03-08 03:58:39 | アフォリズム(箴言)ではありません

 「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」


 そもそもEU(欧州連合)とはヨーロッパで繰り返されてきた戦争

をなくすために、国家をなくせば戦争する相手がなくなることから

国家を超えた組織を創設しようとして生れた。もちろん、有史以来

それぞれの民族がそれぞれの国土の下で培われた伝統文化は守られ

た上で統治権は制限されることになるが、それ以上に国境がなくな

ることによる個人の行動の自由とそれから生まれる自由主義経済が

もたらす豊かさは広がった。ただ当然のことながら、単に国家を連

合すると言っても何よりも繋がり合える共通の土壌がなければなら

ないが、ヨーロッパの国々は有史以来キリスト教伝統文化を共有し

て育んできたことがその礎となった。たとえば、キリスト教国がイ

スラム教国と国境をなくして連合することはまずできないだろう。

しかし、かつて我が国は「八紘一宇」の理想を掲げて侵略したアジ

アの植民地を、神格化された天皇の下に統治しようとしたが、どの

国も押し付けられた日本固有の国家神道を受け入れるはずがなかっ

た。こうして大日本帝国が目指したAU(アジア連合)は理想として

はEU(欧州連合)の先駆けではあったが、現実を見誤った天皇制帝

国主義は終戦と共に消滅した。

 さて、一方で社会主義国家ソビエト連邦の下で自由を制約されて

きた東欧諸国の人々にとって自由と民主主義を掲げるEUの誕生は

渡りに船だった。ヨーロッパの周辺諸国の多くが雪崩を打って加盟

したが、取り残されたのは旧ソ連と国境を接する繋がりの浅からぬ

国だけで、その一つがウクライナだった。そのウクライナのEU加

盟だけは地政学的な防衛上からも絶対認めることができないロシア

によってウクライナ侵攻が行なわれた。

                  酔ったので(つづく)


「あほリズム」(894)

2022-03-06 08:49:25 | アフォリズム(箴言)ではありません

     「あほリズム」

 

      (894)

 

 かつては国を共にし今は国を分かちイデオロギーの違いから

旧宗主国に侵攻されるウクライナの例は、そのまま台湾の状況

に置き換えることができる。たぶん台湾政府は、そして「獅」

視眈々と台湾併合を狙う中国共産党も、その行方を固唾を呑ん

で見守っているはずだ。もしも、ロシアが武力によってウクラ

イナを併合するようなことになれば、中国共産党はそれに倣っ

て台湾に武力侵攻するに違いない。わが国はロシアへの抗議の

声を呑み込んでよその国のことと見守ったりしないことだ。