「同じものの永遠なる回帰の思想」③
『力への意志』―③
形而上学は英語では metaphysics と言い、物理(physics)を超え
た(meta-)観念のことで、ハイデッガーによれば、そもそも形而上
学はプラトンとアリストテレスによってもたらされたと言います。
プラトンは「生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアと
いう理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界
は不完全な仮象の世界にすぎない。」(ウィキペディア『プラトン』
)と「イデア論」を主張し、ハイデッガーによると「存在が区別さ
れて本質存在と事実存在になる。この区別の遂行とその準備ととも
に、形而上学としての存在の歴史が始まるのである」。プラトンの
イデア論は「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規
定する形而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>
から中世キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては
<理性>へと変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉
の<事実存在>に対する優位はゆるがない。」哲学者ホワイトヘッド
も「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」と語っ
ている。ニーチェの「力への意志」はそれら「プラト二ズム」に対
する否定であり、彼自身も「私の哲学は逆転したプラト二ズム」で
あると言明し、殊に「プラト二ズム」の正統な継承者であるキリス
ト教に対して、牧師の息子である彼は「神は死んだ」と宣告した。
「イデア」或は「神」を失った世界は精神的支柱を失くして忽ち
ニヒリズムに陥るだろう。しかし、そもそも虚構の上に築かれた世
界観こそがニヒリズムを覆い隠していたのだ。否、ニヒリズムへの
忌避こそが「イデア」や「神」といった幻想を生んだのではないか
。しかし理念を世界の外に追い遣って目の前の世界だけが真実だと
すれば、再び隠されていたニヒリズムが世界を覆うことになる。ニ
ーチェはその喪失がもたらすニヒリズムへの回帰を了諾した上で、
救いのない世界の中で幻想に惑わされずに生きるには「力への意志
」によって絶望と抗うしかないと言う。
「力への意志」という言葉は「力」も「意志」もどちらも作用を
表わす言葉で馴染まないが、ハイデッガーはそれを詳細に分析して
説明している。たとえば、意志を《意欲》に代えて「われわれは
また、本やオートバイのような事物を《意欲する》こともある。」
が、「意欲するとは自分を自分の命令下に立たすことであり、その
まま遂行であるような形での自己命令の覚悟なのである。」そして
「われわれは〕自己への覚悟をもって〔意欲する。意欲するとは自
己の意欲であり、そしてこれは同時に〕いつも自分を越え出て〔状
況を〕意欲することなのである。」つまり《意欲する》とは、意欲
する〔状況〕を掌握して、それまでの自分を越えて、自らを命令下
に立たせる覚悟が求められ、そして意欲《意志》そのものが主体と
なって意欲する前の自分に行動《力》を迫る。それは、まさに芸術
家が創作意欲に駆り立てられて作品に取り組む姿勢そのものである。
つまり、「芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形態
である」。そして芸術家が創作に情熱を傾ける時、そこでは「力へ
の意志」が最大限に発揮されて《情緒》《情熱》《感情》《命令》
に支配されて創造の世界に「陶酔」する。ニーチェは言う、
「陶酔における本質的なものは、力の昂揚と充溢の感情である」
そして、「芸術家の心理について――芸術が存在するためには、
なんらかの美的な行為や観照がおこなわれるためには、どうして
も或る生理学的前提条件が不可欠である。それが「陶酔」なので
ある。陶酔がまず全器官の興奮性を亢進させておかなくては、芸
術というものは成立しない。どれほど異質な条件のもとで生じた
いかなる種類の陶酔でも、すべてこの力をもっている。中でも著
しいものは、性的刺激の陶酔。――このもっとも古くからの、も
っとも根源的な陶酔形態である。また、すべての大きな欲望、す
べての強い情動にともなう陶酔、たとえば祝祭、競技、神技、戦
勝、あらゆる極端な動作の陶酔、残虐行為の陶酔、破壊における
陶酔、たとえば早春の陶酔のように、一定の気象条件の影響をう
けた陶酔、また麻酔薬の作用下での陶酔、最後に、意志の陶酔、
過度にはりつめて充溢した意志の陶酔も、これと同様である」。
つまり、「力への意志」とは「陶酔すること」であり、それは芸
術(創作活動)においてもっとも顕現する、と言うのだ。
(つづく)