goo blog サービス終了のお知らせ 

再び「時間は存在しない」のつづき

2021-07-11 06:24:35 | 「二元論」

   再び「時間は存在しない」のつづき


 物理学者カルロ・ロヴェッリは「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬

間 ”なんて存在しない」と言う。だとすれば、〈存在〉が現われる

前に時間だけが刻々と流れる世界というのは、それは科学者ニュー

トンが主張した絶対時間のことだが、あり得ないことになり、時間

は存在のあとから派生したことになる。では、時間はなぜ存在のあ

とから派生したのかといえば、存在が変化するからである。そして

、存在の変化はいったい誰が認識するのかと言えば、客観な視点か

ら世界の変化を観察することができるのは人間以外に存在しない。

つまり、「時間」とは存在の変化を記号化した人間によって作られ

、人間だけが認識する概念である。そして「存在とは時間である」

(ハイデガー)とすれば、時間とは変化を表す変数であるから、「存

在とは変化である」ということになり、存在の変化とは「生成」の

ことにほかならないので、「存在とは生成である」ということにな

る。つまり、ハイデガーが「存在とは時間である」と言うのは「存

在とは生成である」と言っていることと同じなのだ。

 

                         (つづく)


再び「時間は存在しない」

2021-07-04 13:18:31 | 「二元論」

  再び「時間は存在しない」

 

 ハイデガーが「存在とは時間である」と定義した論拠を確かめよ

うとして物理学者カルロ・ロヴェッリの著書「時間は存在しない」

を取り急ぎ読んで、以前当ブログにも「時間は存在しない」という

記事を載せましたが、いま改めて読み直してみると重要な読み落と

しに気付いたので、ふたたび「時間は存在しない」についての要点

を記しておきたいと思います。この本はあくまでも物理学者による

一般向けの解説書なので、物理学を熟知している人にとっては「何

を今更」とお思いになるに違いありませんが、まずはそのことをお

断りしておきます。

 さて、その書き出しは「簡単な事実から始めよう。時間の流れは

、山では速く、低地では遅い。」とあり、つまり山の上よりも地球

の質量の中心に近い低地の方が「時間」が遅くなると言います。こ

れは、「物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持

つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。」からで、物

体すなわち存在が時間を歪めると言うのですが、またこれ以外にも

アインシュタインの特殊相対性理論によって「ウラシマ効果」とし

て広く知られている、動いている時の方が静止している時よりも時

間がゆっくり進むことが確かめられている。これらの「存在と時間」

の関係に驚かされるのは、われわれが理解している時間の常識、そ

れはもっぱらニュートン物理学がもたらした「事物(存在)とはまった

く無関係に流れる絶対時間の概念」によるのだが、どういうことか

と言えば、もしも存在が無かったとしてもただ時間だけは規則的に

流れる世界で、しかし世界が果たして存在するだろうか。だとすれ

ば、「今この時」という瞬間は世界全体、或いは宇宙全体が同じ瞬

間を共有することができるというのは幻想であり、時間とは場所に

よって、或いは状況によって異なる相対的概念にほかならない。つ

まり、「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬間 ”なんて存在しないのだか

ら」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』)。もっと分かり易

いことは、そんなことは誰もが知っていることですが、新年の始ま

りを告げる「初日の出」の時刻は見る場所によって異なる。ついでに

参考までに、「わたしたち人間に識別できるのはかろうじて10分の

1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡(範囲)に含まれることに

なり、そこではみんながある瞬間を共有しているように、現在につい

て語ることができる。だが、それより遠くには、『現在』はない。」

(同書より)

                        (つづく)


「時間って何?」

2021-06-30 07:54:43 | 「二元論」

          「時間って何?」

 

 ハイデガーは自著「存在と時間」で「存在とは時間である」と言

ったが、私はどうしても了解できなくて未だその先へ進めないでい

る。これまでに自分なりに色々と考えてみたが、まだ納得のいく結

論を掴みきれていない。それでも結構「時間」そのものについての

認識は深まったと思っている。たとえば、世界が何もない「無」で

あるとすれば、「時間」もまた「無」であるに違いない。つまり何

も無い世界では当然「時間」すらも無い。この考えは「存在と時間

」の関係の拠り所であると思える。では、それとは逆に「時間」だ

けがあって何も存在しない世界を思い浮かべてみれば、それは永遠

に変化しない世界に違いない。だとすれば、「時間」とは「存在」

の変化を現わす概念であり、存在の変化の無いところでは時間の概

念も生れない。これは微小な「存在」である素粒子を扱う量子力学

の分野においても、物理学者カルロ・ロヴェッリは「時間は存在し

ない」と言っている。つまり、世界は存在し、存在は変化し、変化

が時間を生むとすれば、「存在とは時間なのだ」。

 さて、その書き出しは「簡単な事実から始めよう。時間の流れは

、山では速く、低地では遅い。」とあり、つまり山の上よりも地球

の質量の中心に近い低地の方が「時間」が遅くなると言います。こ

れは、「物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持

つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。」からで、物

体すなわち存在が時間を歪めると言うのですが、またこれ以外にも

アインシュタインの特殊相対性理論によって「ウラシマ効果」とし

て広く知られている、動いている時の方が静止している時よりも時

間がゆっくり進むことが確かめられている。これらの「存在と時間」

の関係に驚かされるのは、われわれが理解している時間の常識、そ

れはもっぱらニュートン物理学がもたらした「事物(存在)とはまった

く無関係に流れる絶対時間の概念」によるのだが、どういうことか

と言えば、もしも存在が無かったとしてもただ時間だけは規則的に

流れる世界で、しかし世界が果たして存在するだろうか。だとすれ

ば、「今この時」という瞬間は世界全体、或いは宇宙全体が同じ瞬

間を共有することができるというのは幻想であり、時間とは場所に

よって、或いは状況によって異なる相対的概念にほかならない。つ

まり、「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬間 ”なんて存在しないのだか

ら」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』)。もっと分かり易

いことは、そんなことは誰もが知っていることですが、新年の始ま

りを告げる「初日の出」の時刻は見る場所によって異なる。ついでに

参考までに、「わたしたち人間に識別できるのはかろうじて10分の

1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡(範囲)に含まれることに

なり、そこではみんながある瞬間を共有しているように、現在につい

て語ることができる。だが、それより遠くには、『現在』はない。」

(同書より)

 物理学者カルロ・ロヴェッリは「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬

間 ”なんて存在しない」と言う。だとすれば、〈存在〉が現われる

前に時間だけが刻々と流れる世界というのは、それは科学者ニュー

トンが主張した絶対時間のことだが、あり得ないことになり、時間

は存在のあとから派生したことになる。では、時間はなぜ存在のあ

とから派生したのかといえば、存在が変化するからである。そして

、存在の変化はいったい誰が認識するのかと言えば、客観な視点か

ら世界の変化を観察することができるのは人間以外に存在しない。

つまり、「時間」とは存在の変化を記号化した人間によって作られ

、人間だけが認識する概念である。そして「存在とは時間である」

(ハイデガー)とすれば、時間とは変化を表す変数であるから、「存

在とは変化である」ということになり、存在の変化とは「生成」の

ことにほかならないので、「存在とは生成である」ということにな

る。つまり、ハイデガーが「存在とは時間である」と言うのは「存

在とは生成である」と言っていることと同じなのだ。

ところで、カルロ・ロヴェッリは、そもそも共通する「現在」と

いう瞬間は起こり得ないと言う。それは「時間の流れは、山では速

く、低地では遅い」、或は「動いている時の方が静止している時よ

りも時間がゆっくり進む」とすれば、物体の重力に影響される時間

は、厳密に言えば違う場所との同時性は起こり得ない。ただ、その

誤差は無視できる範囲なのでわれわれは瞬間を共有していると思い

込んでいるだけであると言うのだ。おおよそ地球規模の範囲内であ

れば「現在」を共有することができるが、しかし、たとえば約四光

年離れた太陽系外の恒星の回りを公転する惑星とはもはや離れ過ぎ

ていて地球上の「今」を共有することはできない。地球上の我々が

「今」と言った時にその言葉が惑星に届くまでに光速で四年掛かり

、そしてその惑星からの返信にも四年掛かり、我々が惑星からの「

今」を受信するのは八年後になる。こうして、「宇宙全体で定義で

きる“同じ瞬間 ”なんて存在しない」(カルロ・ロヴェッリ)のであれ

ば、つまり、共通の「現在」が定義できないとすれば、当然「現在

」を起点とする過去も未来も存在しないことにならないだろうか?

「その通り!」

アインシュタインもこう言ってます、

「わたしたちのように物理を信じている者にとって、過去と現在と

未来の違いはしつこく続く幻でしかありません」と。

 またカルロ・ロヴェッリも、彼は人間が知り得る限りの最小単位

の物質である量子の研究者ですが、「事物のミクロな状況を観察す

ると、過去と未来の違いは消えてしまう」と言い、そして「過去と

未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視

界が曖昧だからである。」と言う。つまり、時間とはわれわれ人間

が勝手に創り出した概念であって、誕生以来無限に広がる宇宙空間

に絶対的な時間が流れているなどということはありえない。だとす

れば、ハイデガーの言う「存在とは時間である」という定義も、人

間の「時間性」の下で了解された《存在》が時間へと転換される、

ということになる。そもそも時間とはニュートンが唱えるように宇

宙空間に脈々と流れているものだという固定観念がわざわいして、

「存在とは時間である」がなかなか理解できなかったが、どうにか

時間化した人間の仲介によって転換されることが理解できた。つま

り、それは、あくまでも『人間にとって』「存在とは時間である」

ということなのだ。

カルロ・ロヴェッリはわれわれの「視界の曖昧さ」をこう言います、

「わたしたちに見えているコップの中の水は、月面の宇宙飛行士に

見えていた地球のように青く静かに輝いている。月からは、植物や

動物といった地球上の生物のあふれんばかりの活動も欲も絶望も、

いっさい見えない。あちこちに斑点のある青い球が見えるだけだ。

同じように、光を反射しているコップの水のなかでも、じつは無数

の分子、地球上の生命よりはるかに多い分子が騒々しく活動してい

る。」(太字は筆者)と。つまり、われわれの生存本能に規定された

視力とは当然のことながら実用に則した手段であって、その対象物

が水の入ったコップだったとすれば、コップの中で騒々しく活動す

る無数の水の分子までも見透すことはできない、もちろんその必要

がないからだ。われわれが認識する世界と科学者が追い求める真理

には大きな隔たりがある。カルロ・ロヴェッリが観察する「騒々し

く活動する」水の一分子がやがて気化し上昇して対流圏にまで達し

てすぐに凝縮し、再び雨になって地上に落ちて来て、元のコップが

あった家のある街一帯を押し流すほどの洪水になって戻って来たと

しても、その水の一分子が辿った「時間」と、そして洪水に怯えな

がらひたすら過ぎ去ることを願う人々の「時間」とは何の繋がりも

ない。

 


「二元論」 (12)

2021-06-13 11:08:08 | 「二元論」

         「二元論」

          (12)

 ここでもう一度「ハイデガーの思想」(木田元)の概要を「誤解を

恐れながら」できるだけ簡単に叙述しようと思います。おそらく、

どうしてそれほどまでにハイデガーに拘るのかと思われるかもしれ

ませんが、ハイデガーは今日の行き詰まりにきている循環再生され

ない科学主義の過ちにいち早く気付いて警鐘を鳴らし、「世界=内

=存在」としての人間は「存在=生成」という存在概念によって「

もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権」(

木田元『ハイデガーの思想』)させなくてはならないという訴えは

、今まさに近代人が置かれている深刻な環境破壊の状況をまるで予

言していたかのように思えて、そしてそれは今もなお変わらないど

ころか昨今の環境変化を聴くたびに確信するに到ったからです。

 さて、ハイデガーはまず「存在とは何か」を問う前に、「存在と

は何か」を問う「人間とは何か」を問います。何故なら、「あらゆ

る存在者のうちひとり人間だけが存在の声によって呼びかけられ、

〈存在者が存在する〉という驚異のなかの驚異を経験する」(ハイ

デガー)と言うように、存在するということに驚き、そこで「存在

とは何か」を問うものは人間以外には存在しないからです。つまり

、ありとあらゆるものを在らしめている《存在》は、人間がその「

何であるか」を問わなければ日の目を見ることのない概念なのです

。たとえば、人間以外の生き物たちは世界内で他の存在者と目の前

の関係性の中だけで生きています。ただ人間だけが目の前の世界を

離れて世界を外の視点から、それはかつては神の視点だったが、世

界を知ろうとします。ハイデガーは人間の関心が世界を越えて《存

在》について知ろうとするのは進化した理性がもたらす時間意識に

拠ると言います。人間はほかの生き物とは違っては目の前の現実か

ら離脱して、ハイデガーはそれを〈自脱態〉と呼びますが、過去や

未来へ想いを馳せますが、、現実は過去の記憶と未来の可能性が緊

密に連関し合う時間性の下で思考されます。そして、それらの時間

性の中の意識のあり方は、たとえば漠然と日常生活を送る時と、死

を意識して覚悟を定めて生きる時とでは当然《存在》の了解のあり

方に大きな違いがある。つまり、自分をどう時間化するかによって

《存在了解》のあり方も変わってくる。たとえば、いかにビッグ

バーン現象が事実だと認識してもいまのわれわれにとっては係わる

ことのできない、存在しないことである。そしてもう一度繰り返し

ますが、人間が《存在》について問わない限り《存在》という概念

は存在しないのです。こうして《存在》は人間の時間性の中で了解

され、そして人間の時間性が《存在》に転換される。つまり (人間

の時間性の下で問われる《存在》とは)時間なのである。

 初期のハイデガーは「現存在(人間)が存在を規定する」と考えて

いた。それは、人間が世界を思い通りに作り変えてもいいというこ

とになるが、ところが木田元によると、「ハイデガーは人間を本来

性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ

らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生

きて生成するものと見るような自然観を復権することによって、明

らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化を

くつがえそうと企てていたのである。」(木田元『ハイデガーの思想

』)これは、自由を与えられているのに敢えて不自由を選択をしてい

るようでどうも納得できない。

                       (つづく)


「二元論」(11)

2021-06-06 12:20:56 | 「二元論」

   「二元論」


    (11)


 初期のハイデガーは現存在(人間)が《存在》を了解することに

よって世界を作り変えること(企投)が許容されると考えていた。

何故なら「現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある」(

ハイデガー)のであれば、存在を了解(認識)できるのは人間を措い

て他に存在しない。つまり人間が存在しなければ《存在》という

概念も存在しない。実際、世界を人間の思い通りに作り変えること

はすでに近代社会の下で自然は単なる《材料・質料》(希hylēヒュレ

―はラテン語ではMateria マテリアと訳されそれが英語のMaterialに

なった)として、 現前の快適さだけを求めて作り変えられてきた。そ

れはプラトン・アリストテレス以来の「存在=現前性=被制作性」

という伝統的存在論によって構成されている。ところが、ハイデガ

ーは世界を循環再生する《生成》として捉え直さなければ、固定化

した非生成の世界はいずれ行き詰まると気付いて、世界を「存在=

生成=自然」という存在概念によって改めて構築し直さなければな

らないと考えた。形而上学的思惟がもたらした「二元論」的世界観

は生成としての自然を二分化して「死んだ世界」を固定化させるこ

とにほかならない。循環回帰しない文明はいずれ限界に達して間違

いなく行き詰まる。もしも将来にも人類が存在してるとすれば、今

われわれが享受している科学文明社会を続けることはできない。持

続可能な世界(SDGs)でなければいずれ限界に達して淘汰される

に違いない。それどころか、技術進化は本来の人類進化を妨げてい

るのではないか。文明の進化は車社会をもたらし、われわれの歩行

能力を徐々に衰えさせ、すでに乗り物のない生活は考えられなくな

っている。また来るAI化社会はおそらくわれわれの思考能力を著

しく退化させるに違いない。こうして人間は目の前の幸福だけを追

い求める近代社会の中で、たぶんわれわれは視力の退化によってす

でに遠くが見えなくなってしまったに違いないが、もはやわれわれ

は「人工の楽園」から脱け出せない家畜化へと向かっている。自分

自身を《生成》としての存在者であることを見失えば、つまり「自

然=内=存在」としての本来性を見失えば、間違いなく絶滅するで

あろう。そもそも何れ死んでしまうのであればさらなる幸福を求め

ることにいったいどれほどの価値があるのだろうか。幸不幸は社会

的な優劣感情であって、そんなことのために生れてくるわけではな

い。「なぜ生れてきたのか?」もまた形而上学的問題に違いないが、

すべての生き物と同じように、われわれだけが何らかの目的のため

に生れてきたわけではない。つまり「実存は本質に先行する」のだ。

話が大分逸脱しまいましたが、われわれが拠って立つ循環再生する

《生成》の世界こそが存在の根源であると認識しなければならない。

それは「現存在が存在を規定する」という存在概念から「存在が現

存在を規定する」という存在概念への転換であり、何よりも現存在

が主導権を行使する人間中心主義(ヒューマニズム)的文化の転換に

ほかならない。しかし、人間中心主義的文化からの撤退を人間によ

って行なわれることは如何にも自己撞着ではないか、と初期のハイ

デガーは、「存在と時間」上巻の発刊後に気付いた。確かに、近代

科学文明の黎明期にいち早くその過ちに気付いたからといって後戻

りすることなど到底できるはずはなかった。そこで、ハイデガーの

信奉者である木田元氏曰く、

「この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしう

るのか。失われた存在を追想しつつ、待つことだけ、と後期のハイ

デガーは考えていたようである。」(木田元『ハイデガーの思想』)

 ところで、いまや時代は科学技術がもたらした自然環境破壊や地

球温暖化による異常気象が深刻な問題になっていますが、それでは

「存在=生成=自然」という存在概念への回帰を訴えたハイデガー

は、いつまで待てばいいと思っていたのでしょうか?

「今でしょ!」(古いか?)

                        (つづく)