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「私自身のためのテキスト」

2021-08-14 12:38:06 | 「二元論」

         「私自身のためのテキスト」

 

ハイデガーの「黒いノート」に記されていた、驚きの内容とは
ハイデガーは本当に「反ユダヤ」だったか      轟孝夫
 より

 

 ハイデガーであれば「環境保護」運動そのものが主体性の形而上学

に基づいた一種の「ヒューマニズム」(「エコ」意識の高い人間とい

う理想像の追及)にすぎず、今日の環境問題を真に引き起こしている

ものをまったく認識できていないという批判をするだろう。

 これだけ環境問題に強い関心がもたれるのであれば、その淵源を明

確に指し示すハイデガーの思索が今こそ再評価されるべきだとも思う

が、それとはまったく逆に、極右政党と同じようにいかがわしい存在

として誰も一顧だにしないのは何とも皮肉な事態としか言いようがな

い。

 ハイデガーによると、存在者を計算可能、作成可能なものと捉える

主体性は、古代ギリシア哲学と並んで、あらゆる存在者を神によって

作られたものと捉えるユダヤ‐キリスト教の創造説に由来する。このよ

うな意味で、主体性の形而上学は「ユダヤ的なもの」とも言いうるわ

けだ。それゆえ彼はナチスが主体性の形而上学によって無自覚に規定

されている状態を、ユダヤ人を迫害するナチスこそが「ユダヤ的なも

の」であるといった仕方で揶揄するのである。

       

 


「二元論」(15)

2021-08-13 15:44:46 | 「二元論」

   「二元論」


    (15)


 ハイデガーは、自著「存在と時間」(1927年初版)の上巻を上

梓したのちに思想転回(ケ―レ)を余儀なくされて、下巻の梗概であ

る目次だけを記して結局下巻は発刊されなかった。ただ、思想転回

(ケ―レ)を余儀なくされてもその目指す世界、つまり〈存在=生成〉

という存在概念によって「もう一度自然を生きて生成するものと見

るような自然観を復権するすること」(木田元「ハイデガーの思想」

)への想いは変わらなかった。しかし、プラトン・アリストテレスか

ら始まった〈存在=現前性=被制作性〉という存在概念によって構

成された自然を人間中心主義的文化のための単なる〈材料・資料〉

としか見ない近代の機械論的自然観の下で、すでに機械文明が蔓延

った社会を再び始原の自然観に遡って復権し直すとすれば、当然、

多様化した近代社会がそのまま「始原の単純な存在」に収まりきれ

るはずがない。それどころか、ハイデガーは〈生きた自然〉という

概念を「血と大地」という極めて民族主義的な文化理念に具象化さ

せ、偏った文化革命を掲げるナチズムに迎合した。そもそも「血と

大地」に根ざした精神などと口にすれば、血にも大地にも係わりの

ない移民は口を噤むしかない。これはナチズムに限らず、最近では

アメリカの移民排斥政策や、わが国の民族主義者が唱える古き良き

時代への復古主義でさえも反人道的な手段に訴えることでしか為し

得ない。いや、仮に為し得たとしても、始原の自然観の下でのある

がままの人間と、自然観を取り戻すために移民を排斥した後の疚し

い人間とではまったく始原としての自然観に対する意識が異なる。

私は、「自然を生きて生成するものと見る」ならば民族の混融は、

エントロピーの法則に従う限り避けられないと思う。そもそも始原

の単純な存在に回帰するのになぜ民族主義だとか「血と大地」とい

ったイデオロギーを引き摺って行かなくてはならないのか。そんな

ものは後知恵で始原の人間は意識すらしなかった。たぶん私の考え

はフリーメンソンリ―的だとしてナチス政権下では、いや、時が時

ならこの国においても自由を奪われるに違いない。ところで、ヒッ

トラーが率いるナチス・ドイツは民族主義国家を目指したが、彼ら

が迫害したユダヤ民族は2000年も前から宗教(ユダヤ教)による

民族主義社会を営んでいた。ナチス敗北後、ユダヤ人は念願の民族

国家建国によって「大地」を手にしたが、ところが、「血と大地」

を手にした途端にジェノサイドの恐怖を忘れたのか先住民であるパ

レスチナ人を迫害している。

                        (つづく)


「二元論」(14)のつづき

2021-08-10 03:43:55 | 「二元論」

    「二元論」


    (14)のつづき

 

 ハイデガーが思想転回(ケ―レ)する前にも、また後にも、ブレず

に一貫して追い求めた世界とは、〈存在〉を「本質存在」と「事実

存在」に二分して思惟する〈形而上学〉以前の世界で、それはプラ

トン・アリストテレスの先人である「ソクラテスよりも前の時代の

思想家たち」という意味で「フォアゾクラティカー (Vorsokratiker)」

と総称される。名前が伝わっている思想家はアナクシマンドロス、

ヘラクレイトス、パルメニデスなどで、彼らは〈存在〉を〈形而上

学〉的には思索したりしなかった。もちろん、この〈形而上学〉的

二元論の末に、紆余曲折を経て、たとえばプラトンのイデア論やキ

リスト教世界観を経て、近代科学文明社会が隆盛したことは言うま

でもない。ハイデガーが形而上学的二元論的世界の〈限界〉を見破

って、何故なら〈存在=生成〉が抜け落ちた存在概念によって固定

化されているからだが、つまり人間中心主義(ヒューマニズム)的な存

在概念によって生成変化する世界を科学技術(固定化)によって作り変

えることはやがて行き詰まること明白で、唯一われわれの科学主義が

成果を生む世界はきっと地球外にしか残されていない。つまり、われ

われが科学技術によって地球を汚染し生命が絶えた時に、その科学技

術によって新たな惑星を地球化して、地球を脱出するための手段とし

て役立つかもしれない。

 

                         (つづく)


「二元論」(14)

2021-08-09 13:20:39 | 「二元論」

     「二元論」


      (14)


 後年ハイデガーは、ナチス加担への批判に対して黙秘に終始した

。あれほど優れた分析力を発揮した哲学史家が自らの過去の釈明に

は誠実に向き合おうとはしなかった。思うに、人間中心主義(ヒュ

ーマニズム)的文化を覆そうと企てた者が人間中心主義的社会の下

でその思想を語れば当然反社会的思想家の烙印を押されるのは明白

である。だとすれば、語ったとしても自らの弁明が理解されること

はないと判断したのではないか。そして、彼自身も存在概念の認識

を巡って大きな転回(ケ―レ)を余儀なくされた。つまり、初期のハ

イデガーは〈存在了解〉によって〈現存在(人間)が存在を規定する〉

と考えていたが、それは人間が「おのれ自身の死という、もはやそ

の先にはいかなる可能性も残されていない究極の可能性にまで先駆

けてそれに覚悟を定め、その上でおのれの過去を引き受けなおし、

現在の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時間化するの

が本来的時間性で」(木田元『ハイデガーの思想』)、その〈本来的

時間性〉の下で〈存在=生成〉という存在概念によって忘れ去られ

た〈生成=自然〉の世界を復権しようと企てた者が、「おのれの死

から眼をそらし不定の可能性と漠然と関わり合うような非本来的時

間性」の下で幸福が唯一の望みである人間中心主義(ヒューマニズム)

的文化にどの面下げて頭を下げることができると言うのか。それは

まさにおのれの思想の過ちを認めることにほかならないではないか。

ハイデガーは一元的な人間中心主義(ヒューマニズム)的文化はいずれ

行き詰まると確信していたに違いない。それは思索の転回(ケ―レ)後

も自然 (ピュシュス)への回帰思想を改めなかったことからも窺える。

                         (つづく)


「二元論」(13)のつづき

2021-08-08 06:49:38 | 「二元論」

   「二元論」


  (13)のつづき


 ハイデガーは、〈現存在(人間)が存在を規定する〉と考えたとし

ても、また反対に〈存在が現存存(人間)を規定する〉と思索の転回

(ケ―レ)を余儀なくされたとしても、つまり、人間は世界を作り変

えることが許されるとしても、また反対に人間は〈存在〉に規定さ

れているとの考えに転換したとしても、その二つの存在概念の先に

想い描いていた世界はどちらも「おそらくは〈存在=生成〉という

存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るよう

な自然観を復権することによって、明らかに行きづまりにきている

近代ヨーロッパの人間中心主義文化をくつがえそうと企てていたの

である。」(木田元著『ハイデガーの思想』)

 ハイデガーは、〈存在〉を「本質存在」と「事実存在」に二分す

る形而上学(Meta-physics)こそが自然(希 φύσις ピュシス)の驚異の姿

を見失わせて、自然を、世界を作り変えるための単なる〈材料・質

料〉へと零落させてしまったと考えた。「近代における物質的・機

械論的自然観と人間中心主義的文化形成の根源は、遠くギリシャ古

典時代に端を発する〈存在=現前性=被制作性〉という存在概念に

あるべきだ――とハイデガーはこう考えていたのである。」(同上)

 私は、哲学者ハイデガーがそのような反科学主義者であることな

どまったく知らなかったので、おそらく多くの人もそうだと思うが

、さらに言えば、初期の時期には〈存在=生成〉という存在概念の

下に忘れられた始原への回帰を求めて人間中心主義(ヒュ―マ二ズム)

文化を覆そうとして民族主義者ヒットラー率いるナチス党の伝統文化

への回帰思想に共感を示した。そもそも回帰思想とは、どこの社会で

もそうだが、多様性を見直すことから始まるが、当然、ハイデガーが

復権させようと試みた形而上学的思惟以前の始原の単純さを保持して

いる自然(ピュシス)への回帰思想は、それに反して多くの科学者を輩

出している形而上学的能力に優れたユダヤ人へ向けられ反ユダヤ主義

を増長させた。

    クレームが来ないようにビビりながら書いてます (つづく)